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テンポラリー通信

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2006年 03月 17日

モエレ沼とイサムノグチー岸辺の表情(9)

美術家で環境アートを志している小川智彦さんからモエレ沼公園のガラスの
ピラミットで開催しているウイリアムの展覧会見て欲しいと連絡があり出かけた。
冬のモエレ沼公園は初めてだった。折悪しく小川さんは公休で会えなかったが
ウイリアムの作品はガラスのピラミットの内部から透明に屈折して外界を取り込
み淡い光の揺らぎのように在った。外界と内界の境目ー皮膚の触れる感覚を視
覚化するとこういう作品になるのかも知れない。このモエレ沼のもつ場所の特性
にはピッタリかも知れない。それにしても曇天の冬のモエレ沼の風景は天地が同
色で雲を透かして太陽が鈍く光り広々ととしてモノクロームな世界だ。この公園自
体には賛否がいろいろあるようだ。なかでも最近目にした論ではこんな立派な物
はいらない、自然に戻して何もなくした方がいいという主旨のものがあった。私は
これを書いた人の<自然>という概念を疑う。この場所は旧石狩川の痕跡が沼
として残りもともと低い地形で湿地帯のようにあったものだ。陸地としても川として
も中途半端なところからゴミ処理場として使われそれをイサムノグチが現在の形
に再生したものである。ゴミの山をヘルメットをかぶり歩いているイサムノグチの
映像をTVで見たことがある。このゴミは現代のゴミ、かってあった学校のグランド
や路地の隅の焼却炉では燃やせないゴミである。今石狩の河口や夕張の二股
峠といったかって美しいハマナス畑や源流の泉であった所を占拠しているそれ
である。一方湿地帯は現在ラムサール条約ができ国際的にも保護されるように
なったが10年で何ミリしか植物の成長しない極めてナイーブな場所でもある。
そこに現代の凶悪なゴミをもって埋め立てそれを放って置けばいい<自然>とは
どういう自然なのだろうか。戻す事などできる筈がないのである。インテリの頭の
中だけの自然とはただの理念、概念であり現実を見据えていない。それなら札幌
ドームのアートグローブなる森とそこにあった月寒の丘との関係をも批判すべき
である。現代のゴミこそが地球規模のコンテンポラリーな問題である。この現代の
ゴミには都市生活の矛盾が凝縮されている。それは破滅の音符その序曲なのだ。
どう回復するのか、どう阻止するのか、モエレ沼公園の方向はそのひとつの答え
でもある。政治や経済が不可能なことを文化が成し得るかもしれないという応えで
もある。復元はできないが再生はできるかも知れないという微かなそれである。
湿地帯は人体に例えれば粘膜のような存在だと思う。一番敏感なところだ。触れ
る所だ。帰る時、灰色の空を一羽の鳥が飛んだ。空と地と水が一体になって触れ
ている白いモエレの風ににふっと早春の声を感じた。

by kakiten | 2006-03-17 12:43 | Comments(2)
Commented by h-art at 2006-03-17 23:15
 モエレ沼の周囲は、たしかにもともと湿地でしたが、ごみの処分場となる前も湿地だったわけではありません。そこは一面の水田でした。陸地や川として中途半端だったから処分場になったのではないのです。
 ねむいヤナイ@北海道美術ネット
Commented by kakiten at 2006-03-18 11:19 x
>ヤナイさん
そうですか!水田でしたか。ただ主旨は現代のゴミと自然の関係を言いたかったのです。水田という近代とゴミという現代がアートという人間的な
行為に関わる時どちらもが基本に関って、そう、「越後妻有」の棚田、里山の大地の芸術祭もふっと念頭に浮かびました。モエレに水田という近代があったのはとても面白く・・。有り難う御座いました。


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