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テンポラリー通信

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2009年 11月 28日

「撓む指は羽根」の再生ーkind of blue(22)

ジャズドラマーの有山睦さんから、メールが届く。
今月30日のライブで、ムラギシの遺作「撓む指は羽根」をアレンジした
曲を演奏するという。
ジャンルも違う、世代も違う。一度も面識もないふたりだ。
遺作集に収められたムラギシのCDをいつも聞いているという有山さん。
そこで交感した何かが、今回のモダンジャズ演奏で再現される。
これは行かねばなるまい。
死者とは当初、社会的に先ず非日常の時間に棚上げされ、さらに
社会的儀式に格上げされ、振り分けられる。
一般的な葬儀の儀式の手順がそうである。
この死者が非日常に棚上げされた時には、さまざまな現生の欲が
渦巻く。純粋に死者を悼む気持ちとは別の動機が、顕在化するからだ。
いちばん顕著なのは、葬儀屋さんの経済行為がそれだ。
非日常化した死というある特権的な時間は、葬儀のランク付けという
社会的な実務に変わるからである。
さらに死者の保つドラマ性によっては、社会的影響力として利用される事も
ある。商業主義が入り、その有名性への便乗もある。
しかしそれらは、多分に一過性の集(たか)りのようなもので、時が経つと
消え去るものだ。
しかし真に死者を追悼する気持ちは、時間の経過とともにさらに深く浸透す
るものである。
水が深く地中に浸透するように、人が他者を悼む気持ちはむしろ
時間の経過ともにさらに純化する。
村岸宏昭がムラギシへと結晶化する過程がそういう時間であったと思う。
その結晶を形として世に出したものが、有山睦さんが共感し感銘して
くれた一冊の追悼作品集なのだ。
3年を超える月日が生んだ死者の、これはある結晶なのだ。
その結晶体が様々な光を反射して、今新たな展開を生んでいる。
この時死者は、もう閉じた存在ではない。
開かれた同時代の存在なのだ。
ひとりの人間の死とは、それくらい重いものでもある。
ひとり村岸宏昭だけではない。人それぞれの差異はあっても
誰もがそうした想いで、何人かの死者と向き合っている。
それが個人の記憶の中だけであったとしても、同様である。
過ぎ去った時間もまた同じである。
現代は、今という一瞬で過去を切り捨て、捨象し過ぎてはいないか。
大きくスタンスをとれば、近代に対する現代もそうである。
易々と近代を捨象する軽薄な現代があるからだ。
過ぎ去った近代を、新旧のブンベツで振り分けし、懐古で棚上げし、
レトロで格上げしてはいないか。
それらに集(たか)る愚を演じてはいないか。
今という時間の保水力を、薄っぺらな乾燥した時間に短絡してはいないか。
大地の乾燥化が進むように、時間の大地も乾燥化してはいないか。
ムラギシの死後3年余。
有山さんからの伝言はそうした危惧を和らげ、勇気づけてくれる
嬉しい便りでもあったのだ。

*鈴木悠哉展「トレモロ」-11月29日(日)まで。
 am11時ーpm7時
*Chamber music ライブー11月30日午後8時~ジェリコ(中・南3
 西3サンスリービル地下・チャージ1500円)
 須田(sax)小板橋(piano)秦野(bass)有山8drums)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2009-11-28 13:19 | Comments(0)


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