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テンポラリー通信

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2009年 11月 13日

際(きわ)に至れりーkind of blue(9)

旅とは何か。そう自問する。
1894年26歳で自死した北村透谷の言葉をがふっと浮かぶ。
 
 革命にあらず 移動なり。(「漫罵」)

明治元年生まれの透谷が、近代化の嵐の中で呟くように遺した言葉である。
この言葉に惹起されるように<旅>を思ったのだ。
一昨年春水戸芸術館へ旅した事があった。
飛行機で羽田に着き、常磐線で水戸へ向かった。
千歳から羽田の旅は、同じ構造の待合室を経ただけの移動の感があった。
しかしJRで移動した鉄路の旅は、春の風景が北への変化として車窓に感じ
られたのだ。

 我は歩して水際に下れリ。(「夕観」)

 川一条は人界と幻界との隔てなり。(「処女の純潔を論ず」)

この<隔て>と<際(きわ)>を感受する事が旅の本質ではないのか。
<移動>にはその実感がない。
透谷が明治の近代化の真っ只中で直視したものは、その変化が<移動>と
捉えられ、命革(あらた)める<革命>と捉えられなかった事である。
命革(あらた)めるとは、内側から変わる力の事だ。
新旧の移動ではない。
間(あいだ)、境(さかい)の世界、<隔て>と<際(きわ)>が希薄なのだ。
移動とはその際(きわ)が貧しいのである。
旅とは何か。
旅とは、<隔て><際(きわ)>の体験ではないのか。
そこでは物理的距離や時間の長さが、旅の本質を決めるものではない。
近代の黎明期において透谷が記した言葉がもうひとつある。

 文明は車駕を造りたれども健脚を失へリ・・・。(「エマルソン」)

<健脚>を失った近代はさらに五体五感を失いつつ、グローバルで高速な
現在があると思える。
それは<際(きわ)>を失い境界(さかい)の豊かさを喪失し続けている事に
結果する。
命革(あらた)める<革(あらた)>を、<新(あらた)への移動>へと貶(おとし)
めてきた所為と思う。

鈴木悠哉の作品が示す現代の浮遊性とは、透谷が喝破した近代のズレが、
そのさらなる急速な移動の希薄な境界(さかい)に生んだ、泡のような叛旗
の幻なのかもしれない。
<川一条>の<隔て>を失った現代人が、人界から幻界に彷徨うようにだ。

*鈴木悠哉展「トレモロ」-11月11日(水)ー29日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休・休廊

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1ー8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2009-11-13 14:47 | Comments(0)


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