晴れた冷気の中を走る。
初冬の朝スフインクス頭が揺れている。
2日振りの自転車。
陽光が南から射して、会場が光燦々。
吹き抜けから下を見る。
壁に貼られている作品の何点かは透明なビニール袋に入っている。
よく見ると2階の壁の作品もそうである。
陽だまりの空間に、これらのドローイングが浮遊しているようだ。
ふっと春の山菜、沼に浮かぶジュンサイを思い出していた。
透明な膜に包まれヌメリのある水中植物の若芽である。
根茎が水中の泥の中を横に伸びながら新しい芽を出して増える。
寒天状物質に包まれた若芽を食すのだ。
今回の鈴木悠哉展「トレモロ」は、春の明るい沼に似ている。
秋という境(さかい)ではなく、春という境(さかい)を感じるのは、
彼の今生きている青春の所為だろうか。
旅を続けたいという彼の浮遊性は、今回ジュンサイの沼という感じで出ている。
それはしかし決してどんよりという沼ではなく、陽だまりの明るい沼という感じで
ふんわりと、たゆたっている。
昨夜閉廊間際バイトを終えて来た彼は、できるだけこの空間に居たいと言っ
た。この沼は時に彼の部屋でもあるのかも知れないと、その時感じたのだ。
時代や社会、自然からふんわりと離れて、純粋に浮遊する空間がある。
彼が主に見ているのは、製作中の照明の閉じた空間である。
週末の土、日曜日にどんな反応をするのだろうか。
境界(さかい)が希薄になるのも<旅>の特性である。
しかしもうひとつ旅には、異界の体験、境界(さかい)の新鮮な発見
という本質がある。
境(さかい)を曖昧にして、浮遊するだけが旅ではない。
現実社会の保つ格差・区別の境を嫌い、浮遊するのは、
対処療法的危うさも併せ持つ。
いわば逃亡者の難民・漂流者の位相なのだ。
都市のインフラソフト装置と同じ構造である。
都市の真ん中に在る空洞の構造は、金魚蜂の中のように
浮遊するモノで充たされている。
鈴木悠哉が福島から出てきて、北の都市札幌で感受したものが浮遊性
の純粋化であったとしたなら、その旅が本当の旅と私は思わない。
差異の発見という、旅の開かれた界(さかい)の存在が希薄だからである。
とはいえ、昨日都心の地下画廊で展示経験をしたふたりが見えて、
1時間以上もゆっくりと見て熱く語り帰っていった。
それはなによりも作品がもつある解放感から発していて、浮遊性の保つ
優れて開かれた何かではあるのだ。
*鈴木悠哉展「トレモロ」-11月11日(水)-29日(日)
am11時ーpm7時:月曜定休・休廊。
*森本めぐみ展ー12月中旬~
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503