ちょうど20年前ベルリンの壁が壊されたと、ニュースが伝えている。
その主なる原動力は、欲望だったと当時の東ベルリンの人が語っていた。
壁の向こうの明るく輝く西。暗い東。
人々はその西側の豊かさに憧れたという。
壁が崩壊し東の人々は一斉に西へとなだれ込んだ。
それから20年。生活は今も西と東の貧富の格差の内にある。
同じ’89年秋私は、アートイヴェント「界川游行」の最中にいた。
札幌の界(さかい)川という暗渠の川の再生を試みていた。
川は本質的に格差の境界ではなかった。
川の境界は、その記憶が人と人を結び、地域の過去と現在を結んだ。
先日訪れた石狩の国と十勝の国の境もまた違った。
その違いは新鮮な発見に満ちていた。
しかし一方社会的境界は、何故か差別・区別・分断を生む。
それが国家集落の形をとって現れ、社会的差異となる。
ここのところ報道され続けている女子学生の人体分断事件を見ていると、
今は個の段階まで、その分断意識が病んで浸透しているかに思える。
自然が保つ境(さかい)は、豊かな保水力を保っているが、
人間社会の境は何故にここまで乾いて残酷な分断となるのか。
国家集団にせよ、個にせよ、人間社会の差別・区別・分断は、
境(さかい)を貧しく残酷なブンベツのように作用しているのである。
格差社会の歪みはもう個の精神の中にまで反映しているのではないか。
人体の分断も、現在の社会がもつ人の精神の貧しい境(さかい)が生む
分断ではないか。
苛めや貧富やセクハラ、さらには中央・地方すべてが(>)の対比概念に
終始し、(×)の交叉する交点を保たない。
異なった世界が交叉してその間に生まれる、境界(さかい)の豊かさを
喪失している。
境(さかい)が<ブンベツ>としてしか作用していない。
時間も新旧で分断され、未来は今を補給するものとしてしかやって来ない。
今という現在も本来は、過去と未来の境(さかい)の世界である。
その現在世界が界(さかい)としての保水力を喪って、今という分断だけの
貧しい境を我々は生きているのか。
冷雨に打たれなお多彩な紅葉の美しさを増す季節にある今、この美しい
夏と冬の境界(さかい)が保っている自然から、もっともっと我々は謙虚に
学ぶべきなのだ。
*鈴木悠哉展「トレモロ」-11月11日(水)-29日(日)
am11時ーpm7時:月曜定休・休廊。
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503