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テンポラリー通信

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2009年 10月 13日

山下邸再訪ー’Round midnight(12)

久し振りに快晴の昨日、円山原始林裾野を経て、
円山川ー不動の滝経由で山下邸再訪。
唐牛幸史さんの作品展も正式に展示中で、本人とも会う。
今月で終了だそうである。
オーナーの方も亡くなり、いよいよこの家もどうなるのか。
初めて一緒にこの日歩いたFさん、Mさんもゆったりと家のなかを
見ている。
唐牛さんが淹れてくれた中国茶を味わいながら、畳に足を伸ばす。
時間がゆっくりと流れ、時間が呼吸している。
この空間では、時間は区分されて存在しない。
緩やかな連続の内にある。
過去が違和感もなく、同時に今に存在しているからだ。
そして改めて気づくのだ。
それはここに今、作品があるからだと。
唐牛さんの作品がもし無くて、生活臭を希薄にした、
がら~んとした空間だけであるならば、
この空間もまた新旧で分別されたただの古民家となるだろう。
作品の存在が、この古民家を再生させているのだ。
家屋が作品という今を吸い、呼吸している。
作品を住まわせて、家屋もまた今を生きている。
新旧の時間軸とは違う今がある。
近代と現代がなんの違和感も無く、同時に今という時間を創っている。
この緩やかで心落ち着く美しい時空間を、何故分断する進歩の幻想を我々
は持とうとするのか。
区別・差別・分断のブンベツ軸を、何時から我々は主たる価値観とするように
なってきたのか。
来年この山下邸の記憶を記録する唐牛さんの個展を思いながら、
話は淡々と尽きないのであった。
都市の裾野に秘された遠い時代の原風景を歩いてきた後、その原風景が
家屋の形で生きて今此処にある。
少し歩き疲れた身体を柔らかく包み、抱擁してくれている。
新興住宅街の裏の沢に見捨てられたかのような、遠い時代の聖なる祈りの滝。
そこに立つ不動明王の穏和な表情にも似て、この家屋の空気があった。
都市の縁の風景は遠い時代の記憶であったが、この家はそうではない。
今を呼吸し生きている。
そこに作品があるからである。家が喜んで作品を住まわせ、
自らも活き活きとしているのだ。
その家屋の生む磁場に、内と外の界(さかい)、過去と現在を繋ぐ正統な時間が
宿っているのだ。
そして作品の存在がその回路を開いている。
作品という非日常が、日常を断絶することなく、日常を生き生きとさせる。
かってあった何の変哲も無い些細な事象が輝きを増して、
より本質的な存在となる。
真鍮のノブが、廊下の軋みが、窓ガラスの歪みが、鴨居の凛とした直線が、
室内を抜ける風が、午後の光が、その事実を伝える・・。
こうした呼吸する美しい時間を留める空間を、家屋として保っていた正統な近代
を、我々は何故捨てて来たのか。
そうあらためて、問うのである。
毎日通学路としてこの家の前を通り過ぎていたFさんには、きっと感じる事が
あったのだろう。Fさんも、Mさんも寡黙な一日だった。
「この道」を、通路として石のように黙殺してきた日常。
路傍の石のように黙殺された<通路>の日常時間と、この家が保っていた
<この道>の日常時間とには、見えない時間の断絶がある。
その見えない時間の断絶とは、私たちの時代の貧困でもある。
山下邸を辞して伏見稲荷の朱の参道を上り、環状線で分断された道路を渡り、
本来の麓へと続く磨り減った石段を下る。
そこから琴似街道に出て、途中アカシア公園壁に保存されている古地図を見る。
山下邸の辺りはいくつかの養狐場の記載があり、不動の滝も記載されていた。
思えば半日で百余年の時空を旅した訳だが、暖かい一軒の家屋の時間が
何よりも具体的にその時空のすべてを、今に伝えてくれたのだ。

 テンポラリースペー-ス札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2009-10-13 13:09 | Comments(0)


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