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テンポラリー通信

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2009年 10月 05日

最終日ー’Round midnight(5)

藤倉翼展最終日。多くの人が訪れる。
昼抜きで午後6時頃やっと昼飯。昼というより第二食ということ。
最後に妊娠9ヵ月のRさん夫妻が来る。
翼さんと何ということなく暗黙に決めていたラストミユージック、
AYAの「この道」と「会いたい」をかける。
心に沁みる声、メロデイー。
実はこの日二度目だった。一度目は、公務員でドラマーのAさんが
聞きたいと言ったのでかけたのだ。
Aさんはこの日室蘭の公団アパートを撮影した1m90cm×60cmの
藤倉さんの作品を見に来たのだ。今回は展示されていないこの写真を、
作品集で気に入り、この日大きなオリジナル作品を見て買う事を決断した。
役所に勤務するAさんは、組織の人である。生活人としては、いわば群体の
人だ。私的にはドラムを叩くジャズミュージシアンでもあるが、普段この公私
をわきまえ、それ以外のジャンルに首を突っ込むタイプの人ではない。
今回彼がジャズ以外のジャンルの作品を購入する事は初めてという。
写真を初めて買うという行為は、彼の選択、意志の行為でもある。
この時<公私>という領域から、<個>の意思が蕾のように見えてくる。
私にはそう思えた。
いわば、藤倉さんもAさんも<群>体に属する生活人である。
役所も企業の宣伝活動も、個の次元ではなく群に属する生活領域である。
昨日記したように、本来<個>に属するはずの芸術人たちが群れて、
普通の生活者である<群>の人が、個として行為しているかに思える。
群体に属する人が個として表現し、他のジャンルの作品表現を個として
認める。その交感が爽やかである。
<私>的に閉じる領域から抜けでて、個の眼差しが同時代の感情へと
タッチする。そのようにこの小さな越境行為に感じられるからである。
コンテンポラリーな土壌とは、こうした一見些細なようにも見える
小さな個の越境の積み重ねから、創られるものと私は思う。
群れる弱い私からは決して創られるものではない。
20代の若い女性が唄う、遠い時代の「この道」にもその個としての濃い
想いが反映されている。時間という距離を越える個の架橋である。
そこでは弱い<私>が群れるアート事は、存在しない。
ひとつの作品を媒介にして流れたこの時間は、作品が繋いだ心の<この道>
だった。500mに200人のアートの群れる通路なんかではないのだ。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2009-10-05 16:17 | Comments(0)


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