青空が続く。昨日は暑いくらいだった。
それでも朝夕は気温が下がる。
今朝は晴れて風が冷たい。
窓ガラスが鳴っている。
風も強いのだ。
先日藤倉さんの写真を酷評する人もいた。
ネオンサインなど撮って何になる。
それで食っていこうなどとは、おこがましい。
単純にいうとそんな事だ。
この論拠には都市論がない。もっというと<my life>の視点がない。
生活の方法論はあるが、生きる哲学はない。
世間の処世術はあるが、個に根ざす生の視座は薄弱である。
ジョナス・メカスの映像を、”Why your image is shaky?”
と尋ねた観客の質問は、揺れる映像への不安と疑問だった。
それまで映画の映像とは確固とした構成、ブレのないものだったからだと思う。
その質問に対し、メカスは”Because my life is shaky”と応えたという。
ナチスから亡命した異境の地ニューヨークでは、言葉も通じない。
その為表現の手段として8ミリカメラがあった。
その映像は揺れに揺れていたのである。
その”揺れ”を、技術的批判として答えるのではなく、
メカスは自分の人生として応えている。
このふたつの間のズレにこそ、本当の現実(リアル)がある。
うつつ(現)と實(実)の間を往還する界(さかい)の世界である。
<實>という字は、貝が含まれお金を表わすという。
いわゆるインフラとしての現実である。
うつつ(現)は、その逆である。夢現(うつつ)なのだ。
そのふたつの極を行き来するのがmy life(人生)である。
その人生の総体の<shaky>で、メカスは技術的な<shaky>に応えたのだ。
藤倉翼の写真は、都市のLifeの視座において撮られた作品でもある。
ネオンサインの一管、一管をも凝視するその視線は、
いわばネオン塔の生き様をも見据えている眼線だからだ。
前述の批評は<實>の側から、<現(うつつ)>を断罪したものである。
しかし本当のリアルとは、その両方の極を往還したものでなければならない。
都市風景という現象的状況を、構造的に捉え写真として表現する藤倉翼の
写真世界は、その両方の往還の界(さかい)にある作品である。
決して”うつつモノ”の作品ではない。
この特定企業の宣伝媒体たるネオンサインを、作品として認められないとする
現実感覚は、アンデーウオーホールの作品を認めない事にも通じる。
コーラ瓶やキャンベルスープ缶もまた特定の企業の物だからだ。
しかし、藤倉翼の写真はそれともまた違う。
ネオンサインは、企業の宣伝物でもあるが無名の職人の手仕事のもの
でもあり、同時に置かれた盛り場の時代・場所をも包含した存在として表象
されてもいるからである。
薄野、渋谷、新宿、道頓堀それらのネオンサインの表情は違うという。
比喩としていえば、ネオンサインひとつにもその場処の<my life>が
あるのだ。
欠損したネオン管ひとつにも、その置かれた場所の<life>がある。
都市のありふれたなんの変哲もない一現象から惹き出されたその表現体は、
都市風俗という<實>の世界に属しながらも、<實>だけでは掬いきれない
<現(うつつ)>の世界をも同時に写し撮っているからだ。
*藤倉翼写真展ー9月22日(火)-10月4日(日)am11時ーpm7時
月曜定休・休廊
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503