休廊日の昨日、再度旧山下邸を訪ねた。
玄関の前で唐牛さんが作業をしている。
内部に入ると先日来た夜とは違い、光が透り抜けてゆく。
奥の部屋の窓から見える隣の廃屋の壁が美しい。
窓の棧の木の撓み。柾板の壁の柔らかさ。窓ガラスの歪み。
もしこれが冬であれば、きっと軒下の氷柱と雪の白い翳がさらに陰影を
濃くするに違いない。
そんな札幌を舞台にした黒澤明の「白痴」の映像を思った。
今昼光で見ると、建物の細部がみんな時を蓄えているのが分る。
唐牛さんの作品も各部屋に並んでいるのだが、これらは少しも強制的でない。
見る事を強いる事がないのだ。
<展覧>というより、ただただ作品が在るのだ。
家と空間と外部が豊かに同時に存在していて、
それぞれが尖って主張し強制をしない。
畳の部屋で寝転がり足を伸ばし、唐牛さんの話を聞いた。
16年前ここを修復し初めて展示した時、隣家からこちらを見ていた
オーナーのお婆さんが言ったという。
今夜はここに泊まってくれないか。灯りが点いて、とても嬉しいから。
嫁ぎ子供を育て暮らしてきた家。そこに再び明かりが灯っている。
それを隣の家から見る事は大きな喜びだったのだろう。
消えたはずの時間に、明かりが灯っているからだ。
もう復元できる時間ではない。しかし心の中の記憶は再生する。
作品があり、人が居て、灯りが灯る。
その事で廃屋は甦える。
もうそのオーナーの老女もいないのだが、こうして畳に足を伸ばし
唐牛さんの話に耳を傾けていると、作品も人も家も一体となって、
ゆっくりと時間が過ぎてゆき、そのお婆さんの心が届くのだ。
内と外の間(あいだ)、境(さかい)がもうひとつの豊かな界となって
時と空間を創っているからである。
時間がたっぷりと保水力を保ち、瑞々しく活き活きと流れている。
唐牛さんのこれまでの美術家としての仕事もここには並べられていて、
彼のメキシコ、京都、さっぽろの時間も一杯詰まっているいるのだが、
その個人の長いスパンと、この建物が保っている時とが
響きあい調和している。
家が保つmy lifeと、唐牛さんの保つmy lifeが響きあっている。
そのふたつのトニカ(基底低音)が、ここではズレていないから、
私は素直に空間に身を委ね寛ぎながら、柔らかく感受性を全開できる。
近い将来この家の内も外も含めたひとつの空間が喪失する時が来る。
そしてその時、もう一度唐牛幸史さんの個展が始るだろう。
もう復元はできないが、再生しようとするものである。
その再生する力を、人はきっと芸術と呼ぶのだ。
廃屋に明かりが灯った時と同じように、何かが甦るのです、
山下トヨさん・・。
また、きっと見て下さい、来年の唐牛幸史さんの個展をね。
*収蔵品展「境界(さかい)の現場」-9月13日(日)まで。
am11時ーpm7時
*エレガントピープルjazzライブー9月19日(土)午後6時~
*藤倉翼写真展ー9月22日(火)-10月4日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503