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テンポラリー通信

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2009年 08月 20日

胸焼けー夏日幻想(18)

第52回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館の詳細な記録誌が
出展者岡部昌生氏より送られてきた。
こうして私などにも忘れず送ってくれた事に、感謝する。

しかし一読して、しばし胸焼けのようなものに襲われた。
ヴェネチアに日本館代表として港千尋氏とともに赴き、
その展示の反響の詳細な記録である。
タイトルは「わたしたちの過去に未来はあるのか」。
各国がそれぞれのパビリオンを構成し競うこの国際展は、
どこか美術の万博のような趣きがある。
国別性が前面に出るからである。
今回の「わたしたちの過去に未来はあるのか」という大仰なテーマも
その雰囲気に沿ってあるように思える。
その展示内容、その反響等の丹念な記録。そして様々な人たちの語る
被爆石とヒロシマへの感想。
それらは正面きって反論しようがないと思えるのだが、
その事が同時に、ある胸焼けを感じさせる原因でもある。
まるでボデイビルで造られた立派な肉体を見ているかのようだ。
デテールまで申し分なく鍛えられたその肉体は、なぜか逆に身体の日常・
普通の体を感じさせなくなる。
何かがリアルから遊離してくるのである。
それは先ずタイトルにある<わたしたちの過去に未来はあるのか>
という<わたしたち>という複数形の在り方への疑問として感受される。
ここでいう<私>を<たち>とする根拠は、ヒバクシャで括られるものと思うが、
その<わたしたちの過去>は固有の<私>の過去を、被爆の一点において
ある普遍化するトリックを仕掛けてはいまいか。
日本館というすでに国の括り方を前提とした展示方式に則って、
この主題が設定されている事を考慮してもなお、疑問が残るのである。
ひとりの人間のある困難な体験が、普遍的な<私たち>へと至る為には
深くさらなる困難な個としての戦いがある筈である。
その<私>から<個>への戦い過程は、ヒロシマもオキナワもトウキョウ
大空襲もそこに本質的な差異はない筈である。
悲惨な与件として困難な現実状況が、<私>には存在したからである。
与件状況の特殊な悲惨自体に本質が在る訳ではない。
ある困難な私的体験の深処において、個は本質的な類としての<私たち>を
提示する事が可能かも知れないという彼岸に、<私たち>の位相があると
思うからだ。
最初から措定される<わたしたち>は存在しないと、私は思う。
表現者の位相とはそうしたものではないのか。
政治経済の軸では、最初から多数を前提に物事が進められる。
それはそういう位相、立ち位置にあるからである。
芸術・文化の位相では、結果としてそうした多数性を得る事はあっても
目的そのものではない。
表現者は先ず個として、困難な<私>の深処への戦いを持続してあると
思うからだ。
以前に被爆者が薄い下着を脱ぎ、ケロイドを人前に曝す勇気に触れたが、
私的には隠していて然るべき傷痕を、ある契機を境に<私>を脱し、
<個>として公表する。
その過程こそが、表現者に通底する最もラデイカルな位相ではないのか。
体験を<私>から<個>へと深め、経験として<類>に開く普遍性への
過程である。ここには最初から<わたしたち>という過程が含まれていない
のは明らかな事なのだ。
同時代(コンテンポラリー)とは、国家という単位を超え、個から類としてあって
唯一の被爆国という形容の埒外にある。
ヒロシマという呪縛は、国家の次元ではなく薄い下着一枚を脱ぐ個人の勇気、
その私の個的な戦いにおいてこそ戦われてある。
そしてその悲惨・困難の私的呪縛は、どんな小さな爆弾ひとつにも差異がある
訳ではない。
この記録誌に収録されている岡部昌生氏の次の文章にも、私の違和感は
消えないのである。

・・・根室の旧海軍牧ノ内飛行場滑走路の形を沖縄経由でベネチアに届け、宇品
ー根室ー宜野湾ーベネチアを結んだ航空書簡プロジェクト「島から島へ」の作品
群も展示。ともに内海を抱え、軍港をもち、それぞれの歴史を重ねてきた都市の
深部に触れた。(道新・2008年2月8日)

ここで<ともに>と括られる宇品、根室、宜野湾、ベンエチアの個々の港群に
タイトルともなった<わたしたちの過去>に似た<たち>を感じるからである。
私は、沖縄には沖縄の固有の戦いがあると思う。広島の宇品とは違う位相が
あると思う。その場処の固有の個の戦いを、何故彼はこうもあっさりと<ともに>
と括る事が可能なのか。
ここにある軌跡は、岡部個人の移動行為から浮かび上がる主観しか見えて
こないからだ。
個人にとって、被爆とは地雷ひとつも同じ悲惨であるはずである。
弾丸ひとつも同じ被爆である。その固有の個の深処において、表現者は
表現を自立させる戦いを保つものと思う。
白く薄い下着一枚を脱ぐ勇気のように、それは戦われてあるものと思う。
もっと深く絶望せよ、という吉本隆明の言葉を思い出す。

華麗で濃密、世界の勢力図を見る巨大な祝祭空間。美術の現在が火花をちらし、
社交と政治、経済がリンクし世界を映す。個人が翻弄されるほどに加速し、拡散
するステージだと思われた。(同上道新)

と、岡部氏はベネチアビエンアーレの舞台を回想しているが、<加速し、拡散>
したのは、自らが<ともに><わたしたち>へと、<加速し拡散した>所為の
反映ではなかったのかと問うのである。
私は、自らが生きる場を深く掘下げ、かっては無名の路上、壁ひとつにも
深く関わり触れようとした岡部昌生が、いつの間にか遠く、格好良く加速し
拡散し、翻弄される祝祭ステージにいる事を、ただただ眺めるのみなのだ。

*「’90年代の作家たちーコレクシヨン展」-8月18日(火)-30日(日)
 am11時-pm7時:月曜定休・休廊
 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2009-08-20 15:25 | Comments(0)


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