人気ブログランキング | 話題のタグを見る

テンポラリー通信

kakiten.exblog.jp
ブログトップ
2009年 08月 17日

鳥の眼ー夏日幻想(15)

離れて見えるものがある。
登山のように足下を見詰め、喘ぎ喘ぎ進む。
どこかの時点で、ふっと視界が広がる。
あんなところを歩いていたんだ、そう思う。
時代もまた、そう感じて見渡すことがある。
場所もそうである。
あるとき不意に俯瞰する鳥の眼になる。
しこしこと歩む微視的な歩行の日常を抜きに、
その巨視的な視線は本来得られない筈だ。
遠くの時間にいる人や、遠くの距離にいる人が、
不意にというか、必然的になのか、近くに来て声を出す。
過去の微視的な時間、日常が巨視的な時間に甦る。
’80年代の唐牛幸史さん、’90年代の豊平ヨシオさん。
ベルリンのケンちゃん、尾道の野上さん。
その他にも九州の人や、東京・大阪の人。
このところ地理的にも、時間的にも遠くの人が、声をかけてくれる。
お盆の時間の所為だろうか、時空を超えて声が届く。
アーカイブス展に引き続き、’90年代の作家たち展を続けるのも、
これらの作品が少しも古くはないからである。
むしろ今見て新鮮になっている。
美術の時間軸がヨドバシの時間軸と違うのは、時の保水力が濃い事である。
美術と言わず、文化の時間軸といった方がいい。
百余年前の漱石もそうだ。
これを文学的分野と限定する矮小な指摘もあるようだが、
そういうセクトの問題ではない。
昔漱石を読んだ頃は、こんな風に考えた事はなかった。
「則天去私」などと言われても、禅問答のようにしか思っていなかった。
「自己本位」もあまりよく理解していた訳ではない。
自己と利己の区別位にしか感じていなかった。
ロンドンの街を歩いていて、ショーウィンドーのガラスに映る
貧相な背の低い姿を自分と知ってショックを受ける漱石を、
弱い<私>としてを実感していなかったからである。
先人たちは、誰もがそのコンプレックスのなかにいた。
今も事情は本質的に変わらない。
外国特に欧米では、ひとりの東洋人は孤独であり、<公>は
異人さんの側にある。その中で東洋人の<私>は弱い私でしかない。
その弱い<私>を、私本位、自己本位、つまりは<個>として、
取り巻く世界から自立させようとしたのである。
それが文学であれ、美術であれ、音楽であれ、根っ子のところは同じ
同時代の戦いであるのだ。
分野のディテールは、時を経て俯瞰する視線を保つ。
なにも漱石の時代だけのことではない。
僅かここ10年の現在も然りである。
<公>を世間・世界と考えれば、弱い<私>は今も日常現実である。

過去という土壌は今という時間の花を咲かすものである。
花が咲くように、ふっと見えてくる時間がある。
身近な場所すら遠く、身近な人すら遠く、
遠くのはずの場所が近く、遠くのはずの人が近い。
遠近重なって視界が深まり、その深処において多くのものに出会う。
今年の夏はそんな時間であったと思える。

*「’90年代の作家たちーコレクシヨン展」-8月18日(火)-30日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休・休廊

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2009-08-17 13:30 | Comments(2)
Commented by taku 25:00 at 2009-08-17 17:47 x
いろいろ、楽しみにしています。また、伺います。
9月も、O氏が北海道に来そうですし。
Commented by テンポラリー at 2009-08-18 10:07 x
takuさん>O氏って誰?


<< 北の風が吹くー夏日幻想(16)      お墓参りー夏日幻想(14) >>