離れて見えるものがある。
登山のように足下を見詰め、喘ぎ喘ぎ進む。
どこかの時点で、ふっと視界が広がる。
あんなところを歩いていたんだ、そう思う。
時代もまた、そう感じて見渡すことがある。
場所もそうである。
あるとき不意に俯瞰する鳥の眼になる。
しこしこと歩む微視的な歩行の日常を抜きに、
その巨視的な視線は本来得られない筈だ。
遠くの時間にいる人や、遠くの距離にいる人が、
不意にというか、必然的になのか、近くに来て声を出す。
過去の微視的な時間、日常が巨視的な時間に甦る。
’80年代の唐牛幸史さん、’90年代の豊平ヨシオさん。
ベルリンのケンちゃん、尾道の野上さん。
その他にも九州の人や、東京・大阪の人。
このところ地理的にも、時間的にも遠くの人が、声をかけてくれる。
お盆の時間の所為だろうか、時空を超えて声が届く。
アーカイブス展に引き続き、’90年代の作家たち展を続けるのも、
これらの作品が少しも古くはないからである。
むしろ今見て新鮮になっている。
美術の時間軸がヨドバシの時間軸と違うのは、時の保水力が濃い事である。
美術と言わず、文化の時間軸といった方がいい。
百余年前の漱石もそうだ。
これを文学的分野と限定する矮小な指摘もあるようだが、
そういうセクトの問題ではない。
昔漱石を読んだ頃は、こんな風に考えた事はなかった。
「則天去私」などと言われても、禅問答のようにしか思っていなかった。
「自己本位」もあまりよく理解していた訳ではない。
自己と利己の区別位にしか感じていなかった。
ロンドンの街を歩いていて、ショーウィンドーのガラスに映る
貧相な背の低い姿を自分と知ってショックを受ける漱石を、
弱い<私>としてを実感していなかったからである。
先人たちは、誰もがそのコンプレックスのなかにいた。
今も事情は本質的に変わらない。
外国特に欧米では、ひとりの東洋人は孤独であり、<公>は
異人さんの側にある。その中で東洋人の<私>は弱い私でしかない。
その弱い<私>を、私本位、自己本位、つまりは<個>として、
取り巻く世界から自立させようとしたのである。
それが文学であれ、美術であれ、音楽であれ、根っ子のところは同じ
同時代の戦いであるのだ。
分野のディテールは、時を経て俯瞰する視線を保つ。
なにも漱石の時代だけのことではない。
僅かここ10年の現在も然りである。
<公>を世間・世界と考えれば、弱い<私>は今も日常現実である。
過去という土壌は今という時間の花を咲かすものである。
花が咲くように、ふっと見えてくる時間がある。
身近な場所すら遠く、身近な人すら遠く、
遠くのはずの場所が近く、遠くのはずの人が近い。
遠近重なって視界が深まり、その深処において多くのものに出会う。
今年の夏はそんな時間であったと思える。
*「’90年代の作家たちーコレクシヨン展」-8月18日(火)-30日(日)
am11時ーpm7時:月曜定休・休廊
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503