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テンポラリー通信

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2009年 08月 07日

被爆墓石ー夏日幻想(7)

先日の新聞に、ヒロシマで被爆した墓石を岩見沢の石材工業の方が、
現地から譲り受けた事が報じられていた。
墓石は原爆の熱線に焼かれ、お寺も被爆し火災に見舞われて、
記録も失われ、無縁仏として整理されるところだったという。
墓石の正面には戒名と家紋、左右に夫婦の名前と行年が
彫り込まれているが、姓はないという。
石材工業というから、墓石の会社の方と思えるから、同じ墓石でも
被爆した墓石に特に惹かれる、石屋としての気持ちは分からないでもない。
しかし私がこの話題に惹かれたのは、墓石が無縁仏扱いであった事である。
夫婦の名前だけで性が分からない為だ。
本当であれば、葬られた場所広島の土として、そこにとどまっていたかった
に違いない。
見も知らぬ北の大地に、ヒバクシャの記念として展示などされたくはない筈だ。
被爆という有名性が、安らかな無名の眠りを妨げるのである。
私にはそう思える。
かって初めて広島市の地形図を見た時の衝撃を思い出す。
それはまるで人間の手の5本の指のように、川が広がり、ちょうど中指の付け根
のあたりに原爆ドームが位置していたからだ。
ノーモアと形容された惨劇のヒロシマのイメージとはかけ離れた、
豊かな水の都広島の様子がそこには感じられた。
このノーモアと形容詞の付く都市<ヒロシマ>と、美しい固有の地方都市<広島>
との落差に今も私たちが<ヒロシマ>を考える時の困難がある。
ノーモアと形容されたヒロシマだけを語るのは、時に安易でもある。
原爆ー被爆ー核の恐怖という公式の枠が措定されてあるからだ。
問題は、固有の地形を保った一地方都市がその美しい無名性を何故喪い、
有名性として語られるかという落差を感じ得るかという事である。
冒頭の無名の墓石の話に戻れば、夫婦ふたりの寄り添うような墓石の無名性は、
ヒバクシャの有名性と、時に相反する位相ではないかと、問う事でもある。
この有名性と無名性のふたつを繋ぐ回路こそが、私たちの現在が今問われてい
る磁場があると私は思う。
国家間の戦いに使用された核は、今日常の核としてチェルノヴィリ以降、個々の
日常に無名化して存在する。
その末広がりの裾野の日常生活において、核は無名性を帯びて今後も廃炉処理
の最終ゴミ処理の困難として無気味さを増している。
数限りなく存在する固有の、しかし世間的には無名の、静かな眠りの、家族や
夫婦のお墓。縁ある人たちにこそ、お盆の時期だけでも想い出され、静かに眠る。
そんな当然の当たり前の事が、故郷の美しい地形とともにあることを
何故に妨げられるのか。
チェルノヴィリ以降の核は間違いもなく、そうした日常・無名性の姿をして、
我々に逆の核加担を突きつけているのだ。
広島という固有の美しい地方都市を軍事重工業都市として近代化した歴史が、
原爆を呼び込んだように、今私たちは核の日常化を呼び込む歴史の内にいる。
それは<広島>を<ヒロシマ>化し、無名な墓石を有名化する緩慢な恐怖の
日常化なのかもしれない。

*テンポラリースペースアーカイブス展ー7日(金)まで。
 am11時ーpm7時
*16日(日)までお盆休み。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目108斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2009-08-07 13:07 | Comments(0)


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