今こうしてあらためて川俣正の「テトラハウス326」の時間を考えていると、
日常生活の内にぽっかりと空いた、風穴のような時間だった気がする。
川俣正は、まるで不意に現れた漂泊の大工のようだった。
腰に玄翁一本挿して、日常の空間を風のように穴をあけ通過していったからだ。
<・・生活空間の機能は半分封鎖され、半分開放されていた。スタッフは、縦横に
貫板をはりめぐらし、それをくぐりながら炊事をし、食事をし、来訪者は身をかが
めながら階段をあがり、積み重ねられた貫板をさけながら部屋を移り、茶をすす
り、布団にくるまった。家の機能を縮小することでそこにはある共同体的な空間
が現出さえした。日常的生活空間の閉鎖性がそこでは解除され、むしろ祝祭的
なコミュニケートの空間に変貌していたのだ。>(まさきはじめ)テトラーハウス
326ドキュメント№2収録
非日常的な特権空間に作品行為が在った訳ではない。
その真逆で、日常の住空間そのものが転位したのだ。
会場の家屋そしてその近隣一帯は生活空間そのものとしてあり、
その日常空間に穴が空くのである。
その際外界と触れる日常の舌は、火傷せんばかりにふうふういいながらも
美味いと食していた。美術の行為が鍋のように存在した。
このような経験は、美術の為の美術の仕掛けや、生活の為の生活という位相とは
明らかに違うものである。
何故ならこのプロジェクトを支えたのは、当時その界隈に生業を持つ生活者だった
し、作家もまたそこで半生活者として、寝起きしたからである。
日常と非日常的なものがダイレクトに拮抗し、発熱していた。
もうひとつ象徴的な出来事があった。
この2年前集中豪雨が続き、この地域一帯が水浸しになった事である。
この時街は、見えない川(暗渠)の氾濫によって一変したのである。
街の日常の表皮が剥れて、別の皮膚を見せたのである。
<都市、町、計画>の進行のなかの日常生活が、別次元とでもいえる非日常の
進行のうちにもある事を実感させた出来事だった。
この日常と非日常のダイレクトな火傷のようなふたつの体験は、その後の原点と
して私にあるように思う。
日々の生活の中で時に複眼的に同時存在するこの境界の摩擦熱は、恐らく自然
と優れた文化芸術の領域からしか発することのない熱力と思える。
現在様々な都市において為されている美術の為の美術行為や、レジデンス事業
にこの摩擦熱が存在するかには、大いなる疑問を持つ。
川俣のいう<都市、町、計画>の進行から一歩もでないプロジェクトにしか思えな
いからだ。
日常と非日常が火傷する、その日常と異界の摩擦熱をあたかもふうふうと火傷覚
悟でダイレクトに味わう、生活者の日常が基底に見えないからでもある。
<都市、町、計画>的に、あらかじめ予定されたデザイン的アートを、そ後の人生
すら変えるような真の経験性を保ったものと同一視する事はありえない。
*川俣正アーカイブ「テトラハウス326」記録展ー5月12日(火)-24日(日)
月曜定休・休廊
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