花の壁が完成する。記念撮影する人が次々とその前に立つ。
壁とは何か。壁とは仕切り、区別する塞ぐものである。
それが日常にある壁だ。しかしこの花の壁は人が喜び、見詰めその前に立ちた
くなる壁だ。ここには見えない入口がある。壁が開かれた存在である。
ハリーポッターの秘密の部屋、その壁の向こうには未知の世界がある。
嘆きの壁というのがエルサレムにもある。この壁の前で人は祈り、手で触れ頭を
たれる。壁は必ずしも、区切り分断するだけの物ではない。
臨界なのである。そのような壁を佐藤義光さんが創ったという事は、彼自身の夢
のなせる業(わざ)である。花屋さんが花屋という職業の壁を夢の壁に再構成した
のだ。商業ルートとしての花ではなく、花を通して開く自己自身の回路をそこに与
えたことである。花壁はその回路集積のようにある。だから、見る人はその前に立
ちその回路に身を委ねる。壁を見、壁の前に立ち、嬉々として秘密の入口に立つ
ように。この時壁は別世界への入口になる。
世界とは本来そのように新鮮に存在する筈のものである。
北の先住民族アイヌ語には、入口という言葉は豊かにあっても、出口という言葉は
少ない。出入り口は人間の人工物が生んだ非自然な概念である。
地下鉄・ビル・街の至る所にあるのは、出入り口である。精神的なものとしても、否
定から発する出口がある。来し方、現在を否定して出口を求める。競争社会では
早く結果という出口を求める。早足で過程を無視し、もたもたすると負け組とか言わ
れる。都心といわれる場所には、そんな人の群がカッカッと靴音を高く発て殺気立
って歩いている。忙しく携帯に耳をあて、傍若無人の自分だけの壁・密室を周囲に
廻らし歩いている。この壁は閉じた壁である。マンシヨンの密室構造と同じ意識の
遮断である。この閉鎖する壁を取り払えるか。そこにcon(ともに)と開かれるそれ
ぞれの現在・temporaryな状況がある。もっとも基底的なところで、自分の職から
生きている現状況から、その壁を開かれた壁にし得るかの闘いに個の価値もまた
あるのだ。美術とか、音楽とか世間に認知されたジャンルの問題ではなく、もっと
生きるラデイカルな基底でその事は問われてあるからだ。
contemporary(同時代)とは、その底流に棹さしているかを問う事でもある。
まあ理屈はどうであれ、花壁の前に立ち、ふっと自分自身の意識の壁を無化し
無邪気に微笑むだけでいい。その時遮断の壁は溶解し開かれた入口となるだ
ろう。
*佐藤義光花個展「別世界」-15日(日)午後5時まで。
*野上裕之彫刻展「i」-2月17日(火)-22日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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