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テンポラリー通信

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2019年 11月 17日

空にむかってー荒地(4)

冬が来た。
光が空から降ってくる。
地上の雪に反射して、上から下から白い光が世界を包む。
寒さに身体は震えながらも、眼は白銀を受け止めている。

宮城県石巻の夏、太陽と海の浜を想い出す。
Ki君とKA君が防潮堤を越え煌めく陽光の海を泳いだ記憶が
夢のようだ。
午後の太陽が真下の海面に光のランドを浮かべ、そこから
光の道が岸辺へと伸びて来た。
三人は防潮堤の石段に坐り、光の道の延びる海と太陽に向か
ってKA君が三線を弾き唄う。
私とKi君は海と太陽に向かい手拍子を打ち、後ろでМさんは
踊り続けていた。

白い白銀の大地。
煌めく光の海。
光の記憶。
ふたつの季節の海と太陽が重なる。
そして、蘇る。

 いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
 「淋しさの中に落ち葉が降る」
 その声は人影へ、そして街へ
 黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだ。

 埋葬の日は、言葉もなく
 立会う者もなかった。
 憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
 空にむかって眼をあげ
 きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
 「さよなら、海も太陽も信ずるに足りない」
 Мよ、地下に眠るМよ、
 きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

またしても私には、鮎川信夫の「死んだ男」の最終行が浮かんで来る。
私達の現在の起点、戦後近代の基点の「さよなら、・・・」。
それは1960年代岸上大作の「意思表示」の<断絶・しゅったつ>
、奥浩平の<さようならと総括>へと私の内部で木霊する「さよなら」。
鮎川信夫が書き記した<黒い鉛の道><重たい靴のなか>。
<さよなら>の戦後近代の出発点を、私は3.11の牡鹿半島・鮎川
で深く感受していたのだ。
「黒い鉛の道」は、「重たい靴の中」は、国土強靭化計画の黒い、重た
い防潮堤のように渚を塞ぎ「海と太陽」を遮っていた。
私たちの本当の<さよなら>、その胸の傷口は今も顕在化してはいない・・。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き






# by kakiten | 2019-11-17 18:07 | Comments(0)
2019年 11月 09日

喪った森・一本の樹ー荒地(3)

木を見て森を見ず、という言葉がある。
今の季節一本の裸樹の立ち様を見ていると、この言葉が
反語のように思えてくる。
森を見て木を見ず、である。
多くの木の集まる森の大きさに囚われて、個々の樹の保つ
立ち方・生き様を感じられなくなったら可笑しい、と思う。
政治や経済という社会的インフラの側に立つ価値観には
俯瞰体として森を見るような価値観があるだろう。
一方文化や福祉の側から見れば、一本の樹のような個の
価値観が重要な筈だ。
昨今の社会情勢は、明らかに多数体・集合体である森に
依拠した価値観が支配的である。

葉が衣装のように色彩を変え、やがて裸木となって立っている。
個々の樹の立ち姿が、それぞれ個性的で厳しく美しい生命の裸形
を見せてくれる。
公園の片隅の美しい一本の裸樹に、私は喪われた森を感じた。
オリンピックをはじめ、ビエンナーレ、トリエンナーレと
国際的な大きな森のような催事が盛んであるが、元を正せば
個々の作家、競技者がのあつての祭り・集合体なのだ。
一本の樹の立ち姿・生き様を抜きにして、森はない。

芸術の秋、という季節柄、多くのフライヤー他印刷物が送られてくる。
このDМは最終的にひとりの個のもとに発送され手渡される。
何百、何千、何万枚刷られようと、最終的にはたったひとりの手に
届ける為である。
演技する者、競技する者、描く者、創る者、発するのも個である。
集合する森のような大きさ・広さに囚われて、個の心の裸魂・裸木
を見失ってはならない筈だ。
東京・札幌オリンピック騒動、各種国際芸術祭等の喧騒に、森を無
くしたたったひとりの裸木に心寄せて想う。


 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



# by kakiten | 2019-11-09 17:19 | Comments(0)
2019年 11月 02日

裸樹ー荒地(2)

樹の葉が落ちてきた。
緑陰が消え次第に幹と枝・梢が露わになる。
雪虫が予兆のように舞っていた。
やがて雪が降り、吹雪の朝樹は半身白い翳を纏って、
生命の裸身をすくっと顕すだろう。

山へ行きたいなあ、久しぶりに渇きのように想った。
道無き急な斜面も両手で小枝・草を掴み獣のように登った。
こういう斜面は両手・両足登りの方が楽だった。
そして五体五感が解放される。
山での快感のひとつだった。
山は高さだけではない。
途中の登路が豊かであれば低い山も素晴らしい。
街の道も同じだ。
広い直線道路、高層ビルより、裏通り、仲通り、坂道、
行き止まり・・・そして並木道。

もう自転車にも乗らなくなって、風と光を身に感じエルムの
森を疾走る事もなくなった。
地下鉄や地下通路、電車や車の比率が増え、移動が主となり
身の幹の枝・葉が枯れてゆく気がする。
最速・最新の移動インフラで都市構造は鎧われているから、
裸身の五体五感から遠のいて生きている。

遅くても、高くなくても良い。
好きな山を這うように登ってみたい。
私の中の、心の裸樹が呟いている・・。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2019-11-02 13:55 | Comments(0)
2019年 10月 26日

樹木という身体ー荒地(1)

朝、歩いていて目眩がした。
いつも近道に斜めに通過する道角の公園。
そこのベンチで休む。
目眩が止み、ふっと眼を上に向けた。
砂場の傍に立つ一本の大きな木。
近道に通り過ぎていた時には、気が付かなかった。
樹枝と幹、梢と葉の美しさ。
久しぶりに感じる樹の身、幹・梢・枝葉。
梢は光を求めて空にむかって根を張り、根は水を求めて、
土に根の梢を伸ばす。
その垂直な生命の時間が、天地に立つ樹木全体に溢れていた。
きっと公園になる以前から此処に立っていた樹なのだろう。
垂直に立ち、天地を全身で抱いていた。
そして、想った。
人間が遠い昔四つ足だった頃、世界は躍動する横軸の世界。
ジャガーやライオン、馬や鹿のように疾駆していた。
前足が両手となり、二本足になって人間は初めて縦軸の
垂直の世界にも生きるようになる。
動物的生き方と植物的生き方の両方を保った生き物が、人間。

何時か、移動の直線・横軸主体の都市構造に疲れていた。
植物・動物両方の視座・生き方の存在を、目眩の休息・坐
る・ベンチが教えてくれる。
<空にむかって眼をあげ>は、死者だけのものではない。
空と土に向かって根を張りー光・水に触れるのが、活きた
人間の本来の生き方でもあるのだ。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2019-10-26 15:20 | Comments(0)
2019年 10月 23日

都市の起点ー子の近代(10)

宮城県牡鹿半島鮎川への旅は、私の鮎川信夫への旅でも
あった気がする。

昨日夕刻大学出版に関わる仕事で来札した竹中英俊さんが来る。
今月の訪問では、私の先輩門倉弘さんの関わった本「芸術・国家
論集」を持参するという事前連絡があった。
そこでふっと棚奥に袋に詰めてある早稲田大学新聞の古い束を想い
出し、引っ張り出した。
竹中氏の持参される本に登場する論者達は、すべてが門倉先輩の
時代に大学新聞の常連で書いていた人たちだったからである。
中村宏、大久保そりや等々・・。
引っ張り出した袋にはその他色々なものが詰まっていた。
札幌に帰ったころ札幌でも主版されていた「読書北海道」新聞、気
になった記事の載る朝日・読売・道新等の新聞紙。
そしてその中に友人たちと出していた「プロヴォ」という状況論誌
があった。
その一冊、かって私が書いた<都市の起点ー鮎川信夫「白痴」抄描>
が載っているではないか。
読み返し、今回の旅で感じた鮎川信夫への焦点が、すでに予感される
ように展開されている事に驚きを抑えられない。
以下引用。

 ひとびとが足をとめている空き地には
 瓦礫のうえに材木が組み立てられ
 槌の音がこだまし
 新しい建物がたちかけています
 やがてキャバレー何とかとか
 洋品店何々になるのでしょう
 わたしはぼんやりと空を眺めます
 ビルの四階には午後三時から灯がともり
 踊っている男女の影がアスファルトに落ちてきます

               「白痴}1951年「荒地詩集」

戦後間もない時期に記された鮎川信夫の詩行は、私達の<空き地>
から<都市>の始まりを、白黒の記録写真のように確かに捉えて
いると、私は感じている。
ーーー
空襲と爆撃が残した可視の廃墟が、不可視の廃墟へと暗転する
一瞬を、私は、ひとつの<始まり>と思うのだ。
ーーー
戦後の都市の始まりを、<ぼんやり空を眺め>る行為によって
受け止めた鮎川は、<空にむかって眼をあげ>という明白な一行を
意志する事で「死んだ男」を1955年にもう一度書く。
それは「埋め立て」と「解体」の上に浮かび上がった都市の構造を
敗戦後の<廃墟>と<死者>の眼差しによって透視するものだ。
私達の<都市>に対する起点は、そこを起爆点として<摩天楼>か
ら<鹿鳴館>まで撃たねばならぬ。
                 (プロヴォー7号載)

すでにこの時ふたつの近代への視座が語られている。
摩天楼=タワービル群、鹿鳴館=という洋館街。
明治以降大正・昭和初期のモダニズム・都市化。
敗戦後の米国化モダニズムの市街地化。
復興の足元に横たわる<埋め立て>と<解体>を、死者の目線から
透視した鮎川信夫の1945年の視座は、今も近代と現代を繋ぐ橋上
人の、ラデイカルな視座として現在に繋がるものと思える。


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# by kakiten | 2019-10-23 14:32 | Comments(0)
2019年 10月 17日

遺言執行人ー子の近代(9)

 たとえば霧や
 あらゆる階段の足音のなかから、
 遺言執行人がぼんゃりと姿を現す。
 -これがすべての始まりである。
 ・・・・・・
 いつも季節は秋だった。昨日も今日も、
 「淋しさの中に落葉がふる」
 その声は人影へ、そして街へ、
 黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。
 ・・・・
 埋葬の日は、言葉もなく
 立ち会う者もなかった。
 憤怒も悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
 空にむかって眼をあげ
 きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
 「さよなら、太陽も海も信じるに足りない」
 Mよ、地下に眠るMよ、
 きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。
 
        (鮎川信夫「死んだ男」第一連と第四・五連から)

連日続く19号台風・大雨被害被害地の報道画面を見ていると、昨年
今年と初めて訪ねた栃木県足利市界隈、宮城県石巻市界隈の風景と今
が重なり、かつ8年前の2011年3月11日の東日本大震災の今も
工事中の防潮堤、廃校・墓石群等の風景が重なる。
繊細で弓形の海に浮かぶ日本列島。
海に囲まれ豊かな山と森と川の島国。
その地を戦災が覆った70余年前1945年。
そしてさらにその70余年前に鎖国を解き、文明開化の旗の下近代日本
が出発したのだ。
近代化とともに新たな文化がモダニズムとして芽生えていく。
そのひとつの破綻を冒頭鮎川信夫の詩は伝えている。
地震・水害・風害といった自然災害と人災である戦争災害とは違うかも
知れない。
しかし人を取り巻く社会環境、国家・社会と、生命を取り巻く宇宙、
地球・自然環境とは人間の基本的基幹環境なのだ。
鮎川信夫の戦後直後に発表された冒頭の詩は、何故か今こそ胸に沁みい
るものがある。
原子力に象徴される<爆弾><発電>の相違が近代150年余の近代と
現代の分岐界にあって、今暗渠のように流れている気がする。
宮城県牡鹿半島の繊細な岸辺たち。
里海の美しい光と波の波長。
栃木県足利地方の遠い生垣のような優しい山たち。
里山の豊かな恵み。
この人間社会と自然世界の両方が音立てて崩れ、光と水と風を蝕む。
そんな時代の予言のように、鮎川信夫の「遺言執行人」が姿を顕すのだ。


空にむかって眼を上げ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」

この<重たい靴>と<太陽も海も信ずるにたりない>の呟きの内に
国家・社会と地球・自然の傷口が、陰画のように今という時代が見
える気がする・・・。

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# by kakiten | 2019-10-17 17:15 | Comments(0)
2019年 10月 08日

一身(いっしん)-子の近代(8)

牡鹿半島・鮎川。
詩人の家・古い酒屋の店奥に座す吉増剛造の姿を見た時、ふっと
祖父の姿を想い出していた。
札幌都心部では市街地再開発法により都市の高層化が推進され、
こうした商店主が消え、多くの店はテナント・ショップと化した。
そして店の土地家屋は資産の持ち主=オーナーと名を変える。
生業(なりわい)の内にすくっと座す店主の姿が消える。
この時私の生まれた町内では明治生まれの老書店主が、私達地権者に
病床より<友軍三将に告ぐ>と記した書を送り、公的訴訟を提起した。
書店の奥の一段高い、店内を見わたす位置に座し、時に長く立ち読み
する子供たちに、本の埃を払うようにハタキを掻ける事もした。
子供心にもどこか畏れ敬う、その道専門に生きる人のオーラがあった。
幼少年期の身近な風景・空気。
生きる人の<身>の姿が甦った。

吉増剛造は1992年春客員教授として地球の裏側のブラジルに旅立った。
そこで明治以降蓄積され培養された日系移民社会に遺る純粋な日本の精神
風土と出会い、戦後育ちの詩人は多分そこに多大な衝撃を受け蟄居・自己
幽閉状態に陥った。(裸のメモー「木浦通信」・矢立出版より)
帰国後再生を志し、ブラジル行前年明治生まれのモダニスト・大野一雄の
舞った石狩河口に滞在し「石狩河口/坐ル」を実行する。
そして石狩川支流夕張川源流を遡上し名作「石狩シーツ」を著した。
2011年3・11以降「石狩河口/坐ル ふたたび」の試行を戦後
近代の根の再生として今に至るまで続けている。
今回北上川河口域に近い牡鹿半島先端鮎川に座し、自らの<身>の
坐ル→座ル・姿を<身>を以て曝し、近代/現代の(さかい)に<座>
していた気がする。
私が牡鹿半島先端・鮎川で見た吉増剛造の<身>の置き様とは、私の
記憶に遺るある時代までの店主の身の置き所に近い。

近代と現代の境目が、今音もなく静かに加速して顕れ始めている。
荒涼たる破壊の廃墟を生む原子力・バクダンは、安心・安全・便利の
原子力・ハツデンに変わる。
店主がオーナーになり、店がテナントになり、座るが腰カケルになり、
身(み)という言葉がボデーとなっていく。
即物的で身も蓋もない並列的で踵喪失の今が速度を上げている。
それが現代的というなら、今こそ近代そのものを問わねばならぬ。
吉増剛造の坐ル→座ルは、近代の原点から現代への静かな逆襲。
現代へのラデイカル(基底的な)界(さかい)への挑戦だと思える。

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# by kakiten | 2019-10-08 16:54 | Comments(0)
2019年 10月 05日

牡鹿半島・鮎川への旅ー子の近代(7)

  。。。。。
 「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
  Мよ、地下に眠るМよ、
  きみの胸の傷口は今でもまだ痛むのか。

鮎川信夫の「死んだ男」の最終章が、今度の旅のトニカのように
響いている。

木造の古い酒屋の家で、詩人の家を2ヵ月開いた吉増剛造。  
旅人を迎え、食事を共にし、一泊の宿を提供する。
生業の最前線に、詩人の店・主として座っていた。
3・11の深い傷跡遺る、牡鹿半島先端の地鮎川。
半島は樹木が緑深く海に挿す、海と空・光の半島。
先に着き仙台空港に迎えに来てくれたKA君とKI君。
彼らの運転するレンタカーに乗り、2時間程経て緑の傾斜
曲がり道の続く牡鹿半島を走る。
北の人間には珍しい森の植生。
鹿の親子も見る。
そして森が途絶え、海が見える。
新たに建造された防潮提の高い壁が海辺の視界を遮っている。
2ヵ月3.11の現場で詩の一生業主として滞在した吉増さんの
最終日の一夜。

二日滞在した牡鹿半島と石巻市。
半島には太陽と海と高い防潮提建造現場。
都市には津波で廃校の小学校とその前の墓石群。
大きな災害の後の<荒地>。
そして私には、戦後間もない昭和22年に発表された鮎川信夫の
「橋上の人」の一節が太陽と海の光と共に響いている。

 あなたは聞いた。
 氷と霜と蒸気と熱湯の地獄の呵責に
 厚くまくれた歯のない唇をひらき
 溺死人が声もなく天にむかって叫ぶのを・・・・
「今日も太陽が輝いているね
 電車が走っているね
 煙突が煙を吐いているね
 犬は犬のなかで眠っているね
 やがて星がきらめきはじめるね
 だけどみんな<生きよ>と言いはしなかったね」

一昨年の栃木県南那須・足利市・吉増剛造展。
昨年の沖縄・那覇・豊平ヨシオアトリエ。
今年の宮城県・石巻市・鮎川・詩人の家。
内陸の山を主体とする風土。
外陸の海を主体とする島・半島風土。
そうした宇宙・地球・自然に隣接する人間社会に触れて
日本の近代モダニズムが背負った負の近代を現代の事と
して、鮎川信夫の詩を通して深く感じた旅だった。
原子爆弾を頂点とする戦災と地震・津波・原発の災害とは
一見違うようだが、その本質は人間社会の在り様として変わ
らぬ構造的なものがあるような気がする。
私がこの濃い二日間で感じていた基調低音(トニカ)は、同
時代としての<荒地>だった。

 橋上の人よ、
 彼方の岸に灯がついた、
 幻の都市に灯がついた、
 運河の上にも灯がついた、
 おびただしい灯の窓が、高架線を走ってゆく。
 おびただしい灯の窓が。高く空をのぼってゆく。
 そのひとつひとつが輝いて、
 あなたの内にも、あなたの外にも灯がともり、
 死と生の予感におののく魂のように、
 そのひとつひとつが瞬いて、
 そのひとつひとつが消えかかる、
 橋上の人よ。

明治・大正・昭和近代77年ー戦後近代75年。
鮎川信夫の記した<近代の橋上>は今も変わらない。

 窓の風景は
 額縁のなかに嵌め込まれている
 ああ おれは雨と街路と夜が欲しい
 夜にならなければ
 この倦怠の街の全景を
 うまく抱擁することができないのだ
 西と東の二つの大戦のあいだに生まれて
 恋にも革命にも失敗し
 急転直下で堕落していったあの
 イデオロジストの顰め面を窓からつきだしてみる

「繋船ホテルの朝の歌」4連目のこの風景は、まるで1960年代
以降の岸上大作や奥浩平の安保闘争以降の風景のように今見える。

2011年三月十一日から8年を超えた被災地の風景は、私には
この鮎川信夫の詩の風景と変わらぬ風景を、見詰めていた気がする。

宮城県石巻牡鹿半島・鮎川は、戦後詩人鮎川信夫への旅でもあった・・・。

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# by kakiten | 2019-10-05 17:37 | Comments(0)
2019年 09月 25日

秋・訪問者ー子の近代(6)

何年振りだろうか・・。
Aさんから電話が来た。
アメリカ・シアトルに在住の人だ。
ネットで調べ、テンポラリー通信を見つけ電話したという。
円山北町時代、多くの友人たちが集まった喫茶店の女性オーナー
だった。
1980年~1990年代だからもう30年近くなる。
アメリカ人と結婚してシアトルに行き、それから一度里帰りで
お子達を連れて会って以来だ。
私が今のところに引っ越してから、居場所が分からずにいたらしい。
父上の体調が勝れぬらしく、今度帰国した時寄ると話は終わった。

秋、なんだなあ~。
遠い近いに関わらず、人が尋ねて来る・・・。
今度訪問する予定の東北・石巻北上河口鮎川。
この鮎川という地名も私には不思議と地名の訪問者という感じを
与えられる。
かって20代に書いていた詩人の鮎川信夫を想い出させるからだ。
そして大野一雄・慶人さんの父子、斎藤周さんの父子と触れて
近代と現代の界(さかい)を個のうちに見詰めていた時、鮎川信夫
の戦後を代表する長編詩「橋上の人」を改めて読み返していた。
英国の詩人ヴァレリーに傾倒し戦後現代詩の地平を切り開いた
鮎川信夫。
日・米英の太平洋戦争下、自らのモダニズムを封印し、戦後米国
ならぬアメリカという共和国(ランド)への夢と理想を、後に封印
される長編詩「アメリカ」で熱く語った1947年の戦後時代。
そこに象徴的に「橋上の人」で<父>という呼び名で顕れる、鮎川
信夫の戦後近代。
明治以降の近代化=欧米化が日・米英戦争で失墜し、敗戦後米国が
アメリカ的開放として一瞬もたらした自由・平等・デモクラシー。
その戦前欧米モダニズムと戦後アメリカモダニズムの両岸を架橋する
日本近代が鮎川信夫にとっての「橋上の人」の位相だったと思える。
鮎川信夫にとっての近代とは、後の世代の私達にとっても深い踵の
位置に存する近代と思われる。
明治・大正・昭和のある一時代まで存したモダニズムを、鮎川は父に
例えて「橋上の人」Ⅶ章で幾度も呼びかけている。

父よ、悲しい父よ、・・・
父よ、寂しい父よ、・・・

父よ、大いなる父よ、・・・ 
父よ、大いなる父よ、・・・
父よ、大いなる父よ、・・・

この父の位相と、戦後すぐ1947年に書かれ消された長編詩「アメリカ」
の数行・・・。

 「アメリカ・・・・」
 もっと荘重に もっと全人類のために
 すべての人々の面前で語りたかった
 反コロンブスはアメリカを発見せず
 非ジェファーソンは独立宣言に署名しない
 われわれのアメリカはまだ発見されていないと

ここに私たちの今・現代と父なる近代の界(さかい)が立ち
顕れる。

米国・アメリカーシアトルから届いた一本のAさんの電話が
牡鹿半島の鮎川へ旅立つ前、鮎川信夫からの米国・アメリカ・
3.11、近代から現代への時の川150年余の橋上の人の声の
ように聞こえる。

*花小屋ー9月30日まで。

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# by kakiten | 2019-09-25 14:26 | Comments(0)
2019年 09月 12日

東北から。東北へ。ー子の近代(5)

札幌にほぼ月一度ℍ大学出版の指導で来ている元東大出版会代表の
竹中英俊さん。
今月も仕事で来て今日寄ると連絡があった。
夕刻2階事務所にいると、入口で声がある。
あっ、来たなと思い階下に降りると、背の高い別人だ。
なんと、秋田の民芸・海青舎の三浦正宏さんではないか・・・。
1990年代円山北町に今のテンポラリーや器のギャラリーが
あった時、毎年全国の民芸作品を展示していた人である。
北海道工業大学で橋梁工学を専攻し、建築会社に一時務めたが
橋を自然の中に多く構築する事は自然破壊と感じて退社し、故郷
秋田市で民芸の店を立ち上げた。
北海道工業大学の恩師菱川善夫先生に相談し、私の所を紹介され
訪ねて来たのが縁の始まりだった。
菱川先生が名付け親となり、彼の民芸の店は「海青舎」として出発
し、その後毎年器のギャラリーで秋田民芸の展示を催す事となる。
秋田の民芸を基本に後年は全国の民芸品を、主題を定め蒐集し展示した。
例えば<祈り>を主題に各地に遺る民芸の造形とか、時に秋田の駄菓子
展や地酒の展示とかも企画した。
それらが好評で、毎年初日オープン前に人が待っている事も出現した。
その後私は現在の北18条に移転し、関係が途絶えていたが、一昨年
北海道近代文学館で民芸の祖柳宗悦展があり、柳が推進した民芸運動の実物
として三浦さんの蒐集した民芸品の多くが同時に出品された。
かって展示で記憶されていた多くの優れた各地の民芸名品が会場に
展示されたのだ。
そのオープニングで十数年ぶりに私は三浦さんと再会した。
最初に発した言葉・・・。
”ほとんど、円山の器のギャラリーに展示したものですよ・・・。”
彼は時にこのブログを読んでいたらしく、昨日意を決して今回訪ね
て来た。
来年ここで展示をしたい、その気持ちを伝える為である。

再会の話をしていると、竹中氏も訪ねてきて三浦氏を紹介する。
竹中さんにも何度か彼の話はしていたので、直ぐに打ち解ける。
竹中氏は宮城県の出身、同じ東北地方の出だ。
竹中氏の古書蒐集の話と書物への愛は、どこか三浦さんの民具蒐集と
民芸への愛と共通する。
掌(てのひら)を通した人と物の関係性として共通する。
そんな事もあって、とても初対面とは思えないふたりだった。
和紙の書物は本来人の掌を通して紙が馴染み、掌の脂が紙を丈夫にし、
風合いを増し長持ちさせるという。
民芸もまた人の掌(てのひら)を通して使われ、掌(たなごころ)に
磨かれ存在する。
根本的にはある時代まで人と物とはそうした掌の関係性に於いて繋がり
存在したのだ。
ふたりの今回の偶然の遭遇は、人と物の深い関係がそのまま人間関係
として実現した必然のようだった。

吉増剛造さんが、宮城県石巻市北上河口鮎川に滞在し制作している。
遺された古い商店の民家に住み込み、写真で見るとまるで商店主の
ように座り訪れる人を迎えている。
客は吉増さんの制作を見、話し、食を共にし、一泊して一日を
共に過ごすという。
全身詩人吉増剛造ならではの、3・11の爪痕が今だ遺るという
北上河口での全身試行・生業(なりわい)の行である。
3・11以降戦後吉本隆明の処女詩集「日時計篇」に真摯に向き合い、
自己の戦後近代を見詰め直してきた吉増さんの全力投球の現在なのだ。
re born art festival 2019と名されたこのイヴェントは、中沢新一はじめ
7か所の地域に7人のキュレーターが企画し作家が制作し作品展開されて
いる。
その内の鮎川という牡鹿半島の先端地域が吉増さんの滞在地だ。
地域全体のパスポートが送られて来た。
吉増さんからの招待だ。
女坑夫さん記載の夕張「北上坑」看板出現以来、北上河口へは行かねば
ならぬと心に決めていた。
1991年秋「石狩の鼻曲がり」大野一雄石狩河口公演。
1994年初夏「石狩シーツ」吉増剛造夕張行「女坑夫」遭遇。
山奥の夕張石炭坑道口に記された「北上坑」の名と共に在った女坑夫の
記載。
石炭という近代エネルギーの産炭地から、現代のエネルギー石油と原子力
貯蔵の河口へ、女坑夫さんと共に、私も行かねばならぬ・・・。
そんな気持ちがしていた。
亀井文夫監督「女ひとり大地を行く」では、主人公の女坑夫さんは
東北出身と設定されていた。
「北上坑」と名付けられた坑道の被害者の中に北上川流域の出身者も
いたかもしれない。
そんな想いで吉増剛造の「石狩シーツ」のコア<女坑夫>さんとともに
北上川河口へ、吉増剛造を尋ねよう、と想い立っている。

近代以前の深い物と人の回路、古書と民芸。
それが東北秋田と宮城の人の姿をして訪れて来た。
そして宮城の北上川河口3・11が、現代の根のように呼んでいる。
私にはそんな気がするのだ。

*花小屋ー9月末まで。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503






# by kakiten | 2019-09-12 15:47 | Comments(2)