テンポラリー通信

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2017年 07月 04日

過ぎてゆくものー泉=メム(18)

なにかで読んだ事がある。
人は何時人となったのか。
人類以前のふたつ猿人の化石を調べ、そのひとつに
添えられた花の化石が見つかったという。
弔う気持ち、それが人類の先祖の証(あかし)と
書かれていたように思う。
事実かどうかは別にして、なんとなく納得した記憶
が残っていた。

過ぎゆくものを惜しみ悼む気持ちは、人特有の精神
と思うからだ。
人は人だけではなく共に過ごす日常のさまざまなモノ
たちにも、そうした愛情を抱いてきた。
そこに新旧の過激な差別・区別はない。
新しいモノは新しいものとして、古くなったモノは
古くなったものとしてそれを愛おしんだのだ。
きっと人は人と同じ命をそこに見ていたからだろう。
絹の衣装にも木の箱ひとつにも、人の手が重なり人の
手が触れ創っている。
その過程の記憶が、モノに命を宿らせるのだと思う。
ある時代まで人は、間違いなくそうして自らの生の
日常と重ねてものと接してきた気がする。

先日終わった三人展「なんのためにあるのか」のひとり
桑原菜穂さんは、群馬の出身で生家の実家にはかって
お蚕(かいこ)さんの棚が在ったという。
絹の故郷だ。
日本近代初期唯一の輸出産業が絹織物である。
絹の道を経て横浜へ。
それこそ異人さんのもとへ海を渡ったのだ。
やがて安価で大量生産の化学繊維に押され廃れるが
、絹織物を培った女工さん、織姫たちの手の命は、
桑原さんの展示した百余年前の打ち掛けに間違いもなく
宿っていた気がする。
蚕と人の手が糸で繋いだ絹の纏いもの。
その過程こそがきっとモノに命を宿らすのだろう。

森羅万象、すべてが過ぎゆくモノである。
しかし過ぎゆく<時間>すら、記憶の炎となって
時空の小宇宙に命を宿すのだ。
白い空き函の中で、ふっとそんな事を思っていた。

*5人展「脈」ー7月25日(火)ー30日(日)
 正午ー午後8時。:鼓代弥生・チQ・岡田綾子・藤川弘毅
 ・酒井博史。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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# by kakiten | 2017-07-04 15:28 | Comments(0)
2017年 07月 02日

纏うものー泉=メム(17)

二本足となったか弱い動物・人間は、時代・時代
なにかを纏い進化してきたと思う。
前足が両手となり脳が発達して知的意識が深化
し、<纏う>という第二の皮膚を創ったと思う。
この世に生を受け赤子が最初に纏うのは産着という
衣である。
それから成長と共に、幾つもの衣を纏う。
七五三、入学、成人、結婚と社会的衣も変化する。
袖を通す、身に纏うと、体を基本に衣はあったが、
身体より外形に比重を置いた偏重化も、社会的
現象として見られる場合もある。
コスプレや独裁国家の制服、会社人間の背広一辺
倒等々の社会現象だ。

捨て去られた廃品、部品などをあるものの片鱗と
して、その物のかっての全体・実体を復元ではなく
再生として創った作品が千葉栄さんの廃品造形である。
ものの断片ではなく、片鱗として彼は柔らかなイメージ
を膨らませ造形する。
それはユーモアに満ちた彼の心が託したモノの片鱗・
再生なのだ。

桑原奈穂さんは実家に残された百余年前の着物をテー
マにそのボロボロになってなお美しい着物から、その
エッセンスを再生する絵画を着物とともに展示している。
これも断片ではなく、片鱗として本来の美と衣を纏う身
体性の回復がテーマと思う。

五十嵐阿実さんは拾ってきた小石や野草と、その周りの
空気・空等を撮影した写真が展示されている。
コンセプトを記した文章も含めて、今展示に一番意志的
に関わっている存在だ。

本来主体となる身体や用途目的が空となって、断片的に
見捨てられつつあるものを、断片ではなく片鱗として再生
する試み・志向こそが今展示の主題だ。
喪われ見捨てられつつある身体・主体を、自らの心・魂
としてその中に再生する。
もう一度、ものの片鱗の内部に<袖を通す>行為・魂を
<纏う>行為・・・。
人は身体だけでなく、心という魂にも芸術・文化という
衣を纏い作品として顕す生き物だ。
そして素裸・素魂では生きられない、哀しくも愛すべき
生き物なのだと思う。

巨大で強力な社会構造・メガロポリス化、電子構造化が
深化する人間社会で、身体性は断片化し、形が先行して
内なる容(かたち)の形骸化が進む。
断片から片鱗へ、片鱗から実体の再生へ。

この三人展はそうした想いを磁場としながら、今日終わる。
「なんのためにあるのか」
この問いは三人だけでなく、見た人すべてに発せられた
次なる、明日への呼びかけでもあるだろう。

*三人展「なんのためにあるのか」ー7月2日午後7時まで。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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# by kakiten | 2017-07-02 12:49 | Comments(0)
2017年 07月 01日

三人の気合いー泉=メム(16)

三人展「なんのためにあるのか」。
このタイトルの通り、展覧会をするという三人の
気合いが凄い。
展示物は百余年前という古い着物や日常見捨てられた様々な
道具、部品、そして路傍や岸辺の石や貝殻が主体だが、この
三人には展覧会が同時に自己の<なんのためにあるのか>と
いう生の行動体として位置している気がする。
仕事の合間を繋いで会場に立ち、訪れる人とそれぞれの作品
を通して語り合う姿は、真剣、かつ楽しそうだ。
日常の合間に培い築き上げてきた表現体。
時代に見捨てられたものに託した己の存在の証(あかし)。
そこを拠点に、純粋な生の命を紡いでいる。
そのテンションの高さ故か、ひとりがダウンする。
展示に託する力より、自らが参加し感じる力の方が勝っていた
結果とも思える。
今展示の場合、日常と深い関係のある物たちが主役である。
その分見る人も素(ス)で多くの反応を見せるのだ。
例えばその内のひとりCadbunnyさんこと、桑原菜穂さん
の場合、百余年前の古着物が展示の主役である。
この古着物そのものが保つ用を喪った後もなお語りかける感動が
展示のキーともなっている。
従って作家は、訪れる他者とともにこの古衣装を通して、対話を
続ける事ができるのだ。
素の刃が素の自分に直接刺さることは少ない。
元々作品という物はそういうものである。
人は素で生きてはいけない。
純粋な魂は作品という容れ物に封印されてこそ純粋に
息付く。

その作品へ入魂する回路が不十分だと、人は素と素で
向き合い著しく消耗する場合がある。
三人のひとりは、そのダメージを受けたのだ。
人は色んな容れ物の中で生きている。
心は肉体を纏い、身体は衣を纏い、人は社会を纏う。
素の心は、芸術・文化という容れ物を得て、その内に
こそ呼吸する。
作品は、魂が着こなしてこそ価値がある。
その境界を逸脱すると、素の魂は傷つきボロボロになる
瞬間もあるのだ。

展示の場もまた、ひとつの衣でもあるだろう。
そこに素の魂は、作品を媒介とせず素となり傷つき臥した
と思える。
心の衣を着直して、また立ち上がって下さい・・・ね。
Iさん・・。

*三人展「なんのためにあるのか」ー7月2日(日)まで。
 :本日予定の「街歩きワークショップ」は都合により中止致します。
  
 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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# by kakiten | 2017-07-01 13:34 | Comments(0)
2017年 06月 29日

時を超え纏うものー泉=メム(15)

今回江戸末期のものという着物が展示されている。
3人展のひとりCadbunnyさんのものだ。
彼女の曾祖母のものという。
裏地はすでにぼろぼろに傷んで、展示時その絹の
一部が剥落し、床に散っている。
しかしその内側の赤と外側の黒の対比は鮮烈で、絹の
保つ存在感は少しも損なわれていない。
背中の黒地に拡がる刺繍も黒地に映え見事なものである。
もう用としての役割は果たせないだろうが、この着物を
創った匠の技は劣るどころか、時と傷みを経て益々輝いて
さえ見えるのだ。
かって纏っていた人の身体は無くても、どこかその身体
の温かみが宿っている。
着物という物は不思議なものである。
身体に添って身体を包む。
先に衣装という形が、あるのではない。
人という身体の容(かたち)が纏うのである。
帯や袖丈はその身体に合わせて調えられる。
そしてその美は、纏う事で全身で感受される。
掌全体で、体全体で、人の生活の風景のように美がある。
特化した額縁の内、非日常の美ではない。

そんな事を考えていて、ふっとレトロスペース館長の坂
一敬さんを思い出した。
そして電話する。
するとすぐこれから行くよ、と応えてくれ、間もなく
副館長の中本さんとともに来てくれた。
恒例の坂ビスケット一箱土産に・・・。
今回の三人展、様々な置き忘れられ、見捨てられたもの
の再生・再発見を、それぞれの三人の目線から再構成され
た展示に、坂さんも共通する眼があって感慨深げであった。
着物に触れ、2階回廊に座り込み、長時間見ていた。
その後懸案の私とのトーク資料「’89アートイヴェント
界川遊行」のヴィデオを見せる。
札幌円山地区をかって流れていた界川。
都市化と共に暗渠化され見えない川となったこの川をその
かっての流域にアートで繋ぎ流れを再現した1989年の
イヴェントだ。
ありとあらゆる一時代の物品を蒐集し展示しているレトロ
スペース。
マニアックな一部の物ではない、その根底的ともいえる激し
い全方位目線は時代に対峙する後衛の保つラデイカルさと
いえる。
レトロスペースはその意味で、坂さんの個的<全>共闘
なのだと思える。
現代の物質文明がその先端志向で切り捨て消費し捨て去る
物たちを、徹底し受け止め問い続ける。
背後に消え去る時代を背中に背負いつつ、眼は前方の移ろ
う今を睨みつけている。
最前列にして最後尾のラデイカルな精神である。

今は消えつつある界川・円山の、空・建物・路・川。
ものだけではなく、風景もまた消去されて今がある。
懐古ではなく、同時代の事としてふたりで語り合えたらと
感じていた。、

20代若い表現者たちと坂さんの同じ視座の眼差し、
その邂逅が、束の間訪れていた時間だった。

*三人展「なんのためにあるのか」ー7月2日(日)まで。
 am11時ーpm7時
 :7月1日(土)午後2時~「街歩きのワークショップ」
  参加費1500円お茶・お土産付き

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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# by kakiten | 2017-06-29 11:59 | Comments(0)
2017年 06月 24日

宿るものー泉=泉(14)

廃材と装置ー千葉栄、絵と着物ーcadbunny、
写真とひろいものー五十嵐阿実。
三人がそれぞれの目線で見捨てられた物、古びたもの
を再構成して、微笑み、時に笑いの弾ける暖かい空間
にしている。
千葉栄さんは廃材で祭壇のようなものを造り、ブルー
シートで覆い、その棚に小さな拾い物を置いている。
これらは持ち帰り自由となっている。
そしてその祭壇の上部に手製のネオンサインが飾られ、
前のスイッチを押すとloveが点灯し、hateと
いう文字と重なる。
愛憎一重というユーモラスな仕掛けだ。
その左側には萎んだポリ袋が項垂れていて、スイッチを
押すと、モコモコと立ち上がって笑いを誘う。
祭壇のような空間構成に本来の生真面目な性格が感じられ
、お化け人形に柔らかくユーモアのある批評精神が感じら
れる。

その右側会場正面には、古びボロボロに傷んだ黒と赤の
着物が着物掛けに掛けられ、もうひとつの着物は等身大
で佇んでいる。
その間正面に亀甲形の木製の額にふたつの着物を象徴する
ような絵画作品が浮かんでいる。
cadbunnyさんの着る物への愛着を感じさせる作品。
人が身に纏うという、人の体温と共に時代を生きてきた着物
の時空間を象徴させる作品だ。

2階回廊には写真と路傍のひろいもので構成された五十嵐
阿美さんの展示が拡がる。
時折路傍や岸辺で拾った小石や木片のような、何でもない
小物が人の手に触られ、石温や木温を伝え語りかける。
そんな会話の仲介を、撰び並べた眼の写真とともに語り部
となっているのが、五十嵐阿美さんだ。
今回の展示のリーダー的存在。
テンポラリースペースのある時代の日常、そして2階吹き
抜け化した非日常的空間を、熟知し心から楽しんでいるか
のようだ。
その五十嵐さんが、多くの訪れる人を2階に招き上げ楽し
ませている。
もうここではお馴染みの、”こわ~い”という嬌声は、やがて
”おちつく~・・”に変わり、子供は喜々として走り廻る。
秘密と冒険と発見のワンダーランドなのだ。

上と下で声の多重合奏が続いている。
古び、使いこなされ、どこか体温を残したものたち、
道端に吹き寄せらられ、そっと人の生活の際(キワ)に佇ん
でいたものたち。
それらの忘れられていた呼気・吸気が、日常の裾野から
息を取り戻している。
最新・最速・最短の先端万能時代に見捨てられ、取り残されて
いくものたち。
今、時代の低い長い裾野として、同時代の呼吸をしている。
そんな暖かい柔らかな視線こそが、この三人の<conー
ともに>のラデイカルな視座なのだろう。

*三人展「なんのためにあるのか」ー7月2日(日)まで。
 am11時ーpm7時:月曜定休。
 :7月1日(土)14時ー15時半「街歩きのワークショップ」
 この界隈で一緒に歩いてひろいもの・・。
 お茶・お土産付きー1500円。
*及川恒平×古館賢治ライブー7月中旬予定
*5人展ー7月25日ー30日:鼓代弥生・チQ・岡田綾子・藤川
 弘毅・酒井博史

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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# by kakiten | 2017-06-24 14:38 | Comments(0)
2017年 06月 23日

三人展「なんのためにあるのか」ー泉=メム(13)

廃品アート、写真・衣装の3人が見捨てられた物品を
主題に3人展を開いている。
見捨てられた古い着物や物、そして路傍に蹲っている
石や木片、見捨てられた風景の断片の写真。
それらが気持ちよく展がっている。
1階会場北側には千葉栄さんの廃品利用のネオン、気に
入って拾ってきた様々な物、お化けビニール風船人形等
が並ぶ。
正面にはぼろぼろになった黒と赤の着物が衣装掛けに
立っていて、その横にこれも古い着物が等身大の姿で
立っている。
その二つの衣装の奥壁に亀甲形のオリジナル額に入った
ふたつの衣装を逢わせて象徴するようなコラージュ作品
が架けられている。
南窓際には折に触れ色んな処で拾った石・貝等が人懐こ
い表情を見せて微笑んでいる。
2階吹き抜け回廊には写真家の五十嵐阿美さんの写真と
路傍や岸辺で拾った石や貝や木片が陽光の中で呼吸して
いる。


レトロともジャンクとも言えない、懐かしく暖かいもの
の存在感が満ちあふれているのだ。
その底流には三人の優しく柔らかな感性の、ラデイカルな
視線を感じる。
三人の<×1>は、見捨てられ、消費され、消去される
風景・物へのともに生きた時代への懐古に流れぬ静かな
愛着・ともに呼吸した同時代の地場への想いだろうか。
三人の同じ想いが三様の眼となって、ひとつの時代・世界
をコンテンポラリー(同じ時代)な世界を呼吸させている。

これから月を超えた7月2日まで、この三人の醸し出す
柔らかでラデイカルな<×1>は、深く息付き三人の共有す
る空間世界を拡げ浸透していくだろう。

*三人展「なんのためにあるのか」ー6月23日(金)ー7月2日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。
*及川恒平×古館賢治ライブー7月中旬予定。
*5人展ー7月25日ー30日:鼓代弥生・岡田綾子・チQ・藤川弘毅
 ・酒井博史。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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# by kakiten | 2017-06-23 12:33 | Comments(0)
2017年 06月 22日

巡り手「歌・光・花」ー泉=メム(12)

山葡萄の蔓が北壁を這い、吹き抜けの梁からも下へ。
そこに透明なガラス盤冬光が光を溜め浮いている。
窓から見える外壁の蔦の緑と陽光が内と外で呼応する
ように空間が浮き上がってきた。
田野崎文「巡り手 歌・光・花」会場。
当初田野崎文さんのライブという事だったが、一日
限りの3人展となった。
仕事を休み、洞爺から作品を用意し展示した高臣大介
さん、そして山に行き、市場に行き、納得のいく素材
を集め現場で構成した村上仁美さん。
午後7時開演前にリハーサルも兼ね早めに会場に来た
田野崎文さんも暫し息を飲み目を見張った。
歌・田野崎文 光・高臣大介 花・村上仁美3人揃う。
リハーサルももう本番さながらに気合いが入っている。
私や高臣大介さんが6年前彼女の歌を知った「この道」
と「逢いたくて」。
その「逢いたくて」を私と大介さんが思いがけず最初に
生で聴く事になる。
思わずふたりで、聴き終わり握手。
この後解ったのだが、本人はこの2曲の事はもう忘れ
ていたという。
「この道」は深夜時計台の前でひとりギター片手に歌い、
音源の事も定かではないらしい。
もうひとつの「逢いたい」も忘れかけていたという。
この2曲をダビングして呉れたF・翼君、それを聴き
心に沁みた私と高臣大介さん。
その幻の2曲が村上さんと田野崎さんの縁を繋ぎ、この
ライブとなった。
作品というものの不思議。
作者を離れてひとり歩きし、見知らぬ心に住んでいる。

来月以降海外に行く予定の田野崎さんの事情もあぅて
急遽組まれた今回の3人展ライブ。
田野崎さんは自身が忘れかけていたかも知れない心の
原点をふたたび見詰める機会ともなった。
東京での歌手活動に自信を失いかけていた時、故郷に
戻り歌の故郷時計台の前でひとり唄った「この道」。
今回のライブで最後に楽器なしで歌詞を思い起こしな
がら唄っていた。
そして「逢いたくて」はお客さんが帰った後、キャンド
ルだけとなった会場でリハーサル、本番を含め三度も
唄っていた。

歌を唄う心の故郷。
その土壌には、人を想う心の耕土と風景という心の耕土
がある。
「逢いたくて」は人を想う原点、「この道」は石狩生ま
れの田野崎さんの北の唄う原風景なのだろう。
東京の音楽芸能で疲れ切った心が求めた故郷・原点。
その思いがこの二曲には籠められている。
そして時と共に忘れられていた2曲。
それが何故か見も知らぬ私と大介の心に居着いていた。
その意味では不思議な3人展、不思議なライブ空間だった。

*3人展「なんのためにあるのか」ー6月23日(金)ー7月2日(日)
 あm11時ーpm7時:月曜定休。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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# by kakiten | 2017-06-22 12:45 | Comments(0)
2017年 06月 17日

晴れ間ー泉=メム(11)

今週は蔦井美枝子ー着尺展「纏う」、斉藤周展「片鱗」
そして3日後の田野崎文ライブ「歌・光・花」予告と
ジャンルは違うが心に沁みる出来事が続いた。
10年間ここで培ってきた人間尺度の多様性が、表現の
ジャンルを超えた多様性として、超人間的尺度先導の現代
社会と対峙し確実に芽吹いていると感じる。
<纏う>という身体で感じる織物の美。
<片鱗>という作者の記憶に触れる絵画。
故郷(ふるさと)という風景に立つ、声の身体。
個々の表現者の身体から発する多様性として、独自の表現
があり、そこにショートカットされた超人間的尺度はない。

10年の時を経て、建物は今蔦葉を毬藻のように纏っている。
冬の寒さと無人の冷えた時間が蔦の成長を阻害し、その後人
の居る暖気がこの緑の衣を生き返らせたのだろう。
家もまた、固有に<纏う>のだ。
ショートカットの量利追求の多重パック住居建築が立ち並ぶ
中、春夏、緑の蔦が茂り、秋、緋の衣となり、冬は白い衣に
氷柱の睫毛の古民家は、一軒という存在感を保っている。
強力エンジンの為のアスファルト道路。
排水の為の直線化された河川。
そうしたショートカットされた風景の中で人間もまたショー
トカットされた価値観の中に生きているのかも知れない。

個から発して、個に繋がる。
その波及の磁場・地場。
対峙するのは、量利という超人間尺度の世界。
私がこの一週間心沁みて感じていたのは、纏うという織る
行為の身体性、父の記憶という身体から湧いた表現、そして
唄うという声が欲した原点と思う風景の身体性。
家も町も風景も人と同じように固有の身体を保っている。
その固有の多様性の彼方に、<CON>という共有・共感の
<ともに・・・>がある。
人も家も町も社会も時代も、本来そうして個を超える。
人も家も町も社会も時代も、ある特定の目的の速度とか量数
とかの為に、膨大な強力エネルギーを駆使する結果優先が、
<超える>全てではない。

文化・芸術の地場・磁場を耕土のように保つ事。
そんな勇気を貰い、今日の晴れ間のように感じていた。

*3人展「なんのためにあるのか」ー6月23日(金)ー7月2日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。
*田野崎文ライブ「巡り手ー歌・光・花」ー6月20日(火)午後7時~
 入場料2000円
 :唄 田野崎文・ガラス 高臣大介・花 村上仁美
*及川恒平×古館賢治ライブー7月中旬予定。
*5人展ー7月25日ー30日

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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# by kakiten | 2017-06-17 18:08 | Comments(0)
2017年 06月 15日

唄・光・花ー泉=メム(10)

急遽田野崎文さんのライブが決まる。
歌・田野崎文、会場構成:ガラス・高臣大介、挿花・村上仁美。
6月20日(火)午後7時~2000円。

田野崎文さんは5,6年前だったか、彼女のCDを藤倉
翼さんよりダビングして貰い、その時からフアンだった。
翼君曰く、東京の商業主義の世界に疲れ果て、自分の原点
を見詰めるために、この歌をこの場所で唄ったんだよ。
と言って最初に唄っている「この道」を聴かせてくれた。
この場所とは札幌の時計台である。
詩はかの北原白秋である。

 この道はいつか来た道
 ああ そうだよ
 あかしやの花が咲いてる

 この丘はいっか見た丘
 ああ そうだよ
 ほら 白い時計台だよ

田野崎さんが自分の唄う原点をこの風景の内に見詰めた事が、
その切ない歌声とともに私は惹かれた。
ギターひとつ片手に外部の騒音も聞こえる中、切々と声を出し
唄っていた。
そしてオリジナル曲の逢いたいという恋の歌も胸に迫る迫真力
に溢れていた。
それから多くの人に機会あれば聴かせた。
その内のひとりがガラス作家の高臣大介さんだった。
彼もすっかり気に入ってスマホに録音して持ち歩いていた。
そして何度目かの彼の個展の時この歌を酒井博史さんに唄って
貰いたいという彼の希望で、私のCDを貸したのだが、そのCD
は貸したまま行方不明となった。
そんな折、偶然あるワインレストランで、村上さんと田野崎文
さんが知り合いとなり、村上さんは、え~あの時計台であの歌を
唄った人!と仰天し、今回急なライブ実現となったのだ。

故郷という存在がどんどん希薄になってきている時代。
日本三大ガッカリ風景のひとつと云われる時計台で、白秋のあの
曲とともに自己の原点を見詰めるという彼女の真摯な歌唱力に、
私は心打たれていたのだ。
時計台が創建された時、北原白秋があの詩を書いた時、に在った
だろう近代のモダニズムロマンが、蘇って息付いている。
そんな風にあの時計台を真摯に風景として見詰めれる人が、今どれ
だけいるだろうか・・・。
田野崎さんの世代、2,30代の人には現在のビルの谷間に埋め立
てられた時計台風景しか見えないはずである。
彼女の歌を思う心はその時を超えて、白秋の詩を透し、見えない故郷
を、自分の唄う原点を、見詰めている。
その想いがこの詩曲を唄う歌唱力に顕れている。
80余歳を過ぎた画家八木伸子さんが晩年描いた絵「札幌大通り」
もまた現実にない大通り風景だった。
何故なら大通り公園は、八木伸子さんの生家に近い原風景だったから
である。
しかし田野崎さんも同じように時計台を見詰めている。
故郷とは夢のまた夢、夢の中でのみ凜として存在するものなのか。
彼女の歌声には、そんな切ない哀しい故郷(ふるさと)が恋歌として
も在り続けている気がする。

*田野崎文ライブ「巡り手ー歌/光/花」ー6月20日(火)午後7時~
 歌 田野崎文 ガラス・高臣大介 花・村上仁美 入場料2000円
*3人展「なんのためにあるのか」ー6月23日(金)ー7月2日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2017-06-15 17:01 | Comments(0)
2017年 06月 13日

日曜逍遙ー泉=メム(9)

思い立って吉増剛造さんに電話する。
そろそろオランダから帰国と思ったのだ。
通じなかったがすぐ折り返し電話が来る。
昨日薄いヴェールの丘撤去で展示終了の報告
と会期中浪江出身H氏の訪問の報告、余位氏、
酒井君、村上さん、山田君アフンルパル探訪
等の話をした。
浪江のH氏号泣の話には吉増さんも一緒に泣き
そうだ、と心溢れていた。
さらに4人のアフンルパル探訪には、1980
年代自分も訪れた事に触れ、再度の訪問意欲に
火が付いたようだ。
1994年「石狩河口/坐ル」ー2011年「石狩
河口/坐ル ふたたび」の、さらなる<ふたたび>
が動き出している気がした。
次回札幌国際芸術祭の「火ノ刺繍ー「石狩シーツ」
の先へ」と繋がる深い決意が沸々と感じられる。
エネルギー溜めて置いてね・・と告げられ電話は
終わる。

その後見ておきたい展覧会ふたつ廻る。
ひとつは「纏う」ー蔦井美枝子の着尺。
もうひとつは最終日の「片鱗」ー斉藤周展。
蔦井さんの絹に草木染めの着尺は、誠に見事だった。
会場に入った瞬間、その織りの淡い質感、色調すべて
に心打たれた。
「纏う」という言葉の通り、手に触れ、身に纏う、
身体全体を包み感じる美があった。
柔らかく強靱な絹、そして優しく凜とした彩(いろ)
の輝き。
それが五体五感を包む<体・感>として存在した。
こんな風に私は織物を、着物を見た事はない。
美術だ、芸術だとは、一体何なのか。
こうして言葉も無く、見とれ、触れて、肌に添わせた
くなるものは。只の衣装などではない。
作品が身体を包み込むのだ。
先ず目を、そして五体五感全体を抱擁する。
着たいという欲望は、ずっと後から慎ましく追い付いて
くる。
<纏う>という言葉通り、ドレスではなく全身で感受し
た、織りの美の淡い虹だった。

次に斉藤周展「片鱗」に向かう。
通院の病院近くで見落としていた古民家アパートを改造
したギャラリーだ。
斉藤周さんの転機とも思える作品群だ。
昔父上と一緒に滑ったニセコ比羅夫のスキー場で久し振り
にスキーを滑った時なにかが心中で弾けたのが制作の切っ
掛けと書かれている。
ここでも作品たちは大小を問わず、ポロ、ポロと語りかけ
肌を寄せてくる。
棒のような物や短冊形、四方形と形・大小は様々だが、
その形象どれもが何故か人懐(なっ)こく、触れて、
語りかけてくる。
「片鱗」というタイトルは、もっと柔らかく<ポロ、ポロ>
で、作者の心の独り言の断片に触れているような気がした。
絵画が見るだけでなく、聞く・触わる、そして見る流れの
回路の内に在る。
展示も古民家の木の柱や調度家具の至る処に置かれ飾られ、
身体尺度の内に、ポロポロと棲み着いている。
衣(ころも)脱いだなあ・・。
斉藤周さんの新しいスタートである。

ふたつの展覧会で共通していたのは、<着尺>という言葉に
象徴される身体の身体尺の宙ー空間が基底に在った事である。
人が<纏う>織物も、思い出のゲレンデから体内に蘇った記憶
の<片鱗>も、そこに身体という尺度が具体的な感覚として
溢れ出てきていた。
この身体が応える感覚の場・状況を、蔦井美枝子さんは織りを
着物という着尺の形で、斉藤周さんは古民家の木造建築の内にと、
心を包み活きる場を、身体尺の世界に選択している、
尺度とか寸法という言葉が内実を喪い、一坪は3・3㎡、一升
は1・8リットルと私たちの身体尺はその尺度を忘却しつつある。
それは日本の近代化の前のめりの現象結果でもある。
このふたりの作品宇宙は、人間尺度が活き活きとしている。
その人間尺度は、開かれ閉じていない。
窮屈でもだぶだぶでもない。
政治や経済が閉じた観念の陥穽に落ち込んだ近代前期、そして
ふたたびその陥穽の兆しの見えつつある現代という近代後期。
そこに閉ざさず、固有の身体宇宙を基底とする身体感覚が生きた
<纏う>美が<片鱗=ポロポロ>と溢れ出て語りかけてくる。

明治以降の近代化の流れに生まれた北海道札幌という都市の中で
ふたりの創る作品たちに出逢え得た事は、幸せな時間だった。

*3人展「なんのために」ー6月23日{金)ー7月2日(日)
 am11時ーpm7時;月曜定休。
*田ノ崎文ライブー6月末予定
*及川恒平×古館賢治ライブー7月中旬予定
*5人展ー7月25日ー30日

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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# by kakiten | 2017-06-13 14:18 | Comments(2)