テンポラリー通信

kakiten.exblog.jp
ブログトップ
2006年 07月 16日

歩きそして人と逢うー界を生きる(21)

児玉文暁さんの徒歩世界旅行旅の話とスライドの集まりが昨夜あった。連休初日
の夜という事もあるのかそんなに沢山の人は集まらなかった。それでもどこか緊張
気味の感じで児玉さんの話が始まった。ヨーロッパ、南米、ニユージーランド、オー
ストラリアそこで出会った生き物、人、風景、徒歩ならではの出逢いである話が
淡々と時にユーモラスに語られる。アポリジニの楽器デイジュリドウの演奏も交えな
がら約2時間半の話だった。散会後もう一人の自転車で北海道一周中の伊祁(い
き)宏将さんと児玉さん三人で軽い打ち上げをした。ふたりとも四国の徳島県出身
で徒歩と自転車の違いもあるがやはりタイプも違う。伊祁さんは将来故郷の徳島
でギヤラリーや宿泊所レストランと多くの人が集まるスペースを夢見ているようで
四国四県を繋ぐセンターを創りたいと話していた。児玉さんも歩く事で見知らぬ人
と出会いそのネットワークがなによりの旅の醍醐味だと話していてその人との出会
いという点でふたりの旅は共通していた。生まれ育った場所の衣を脱ぎ裸となって
一対一で未知の人間と出会う、その為に歩き、自転車をこぎできるだけ人力に近
い手段で旅をする。そして自分自身の目で世界に触れる。旅とは裸の一個人にな
る事そして肌で世界に触れる事それに尽きるのかも知れない。学校を出て会社に
勤め、社会の枠組みに繰り込まれる前にもう一度自分自身を生まれたままの裸に
意識的に曝け出してみる試み、その心の衣装を脱ぐ行為がきっと旅なのだ。三人
三様の旅の話しを語っている内に共通の場所が人がポツリポツリと出てきて面白
かった。岩手県の土澤という町はそこに住んでいる彫刻家の菅沼緑(ロク)さんが
関ってアートイベントを仕掛けているがその土澤が児玉さんの日本を歩こうと思っ
た原点となった町であったりして私は今年4月さっぽろを訪ねて来たロクさんを通
して土澤を知っていたからそのアートイベントのカタログを見せると児玉さんもすっ
かり驚いたり納得したりで喜んでいた。伊祁さんも土澤に行くと場所をメモしていた
。なにかこうしてまた人が繋がっていく。今尾道に居る野上裕之さんもきっと何処か
で繋がっていくに違いない。旅の範囲や場所は違うがさっぽろはさっぽろのここで
しかきっと会えなかっただろうと思う。心の溜まり宿を発見するのも旅ならではのこ
とである。
[PR]

# by kakiten | 2006-07-16 12:38 | Comments(0)
2006年 07月 15日

真夏日の夕方ー界を生きる(20)

炎天、蒸し暑い日。夕刻ふらりとフリーでデザインの仕事をしている山内慶さん
がウオッカとジンジャーエールを持って現われた。以前に南米の蝶の羽を飾った
装飾品の額のガラスが壊れ蝶が好きだというので彼に差し上げた事があったが
その蝶の羽を丁寧にアレンジして西条八十の詩と組み合わせ新たに額装して
届けてくれたのだ。さらにロープシンの蒼ざめた馬の一節ともうひとつ三部作を
仕上げたといって持って来た。どれも繊細で美しい蝶の羽とぴったりの力作だ
った。この南米の蝶はモルフオといって蝶の中でも最も美しいものだそうである。
絹か真珠のような艶があり角度光の具合で幾重にも色彩が交差する。その蝶の
一片に文章が添えられてある。西条八十の詩は「蝶」というタイトルで次のような
ものだった。

   やがて地獄へ下るとき
  そこに待つ父母や友人に
   私は何を持っていかう

    たぶん私は懐から蒼白め、
     壊れた蝶の死骸をとり出すだろう。

    そうして渡しながら言ふだろう。
   一生を子供のやうに、さみしく、
 これを追ってゐました、と。

蝶の羽の妖しい美しい色とこの詩はピッタリと合って不思議な世界を創りだしてい
た。ウオッカとジンジャーで割った何とかという飲み物がほどよく酔いとなって話し
ている。田中綾さんもみえて一気に座が華やいできた。綾さんは花火大会へ行く
とか言う事で先に帰ったがその後男四人でしばし何かを話し込んだが今記憶には
もうない。蝶と西条八十の詩の保つ妖しくどこか切ない世界に呑みこまれたのかも
しれない。そんな真夏日の夜だった。今朝の机にはウオッカの空き瓶と空のグラス
が白い顔をして転がっていた。

*本日15日午後7時から児玉文暁「歩き人ふみの徒歩世界旅行」旅の話とスライド
 ワンドリンク付き1000円
*村岸宏昭展「木は水を運んでいる」18日(火)~28日(金)
[PR]

# by kakiten | 2006-07-15 14:25 | Comments(0)
2006年 07月 14日

風吹く人たちー界を生きる(19)

ピアノ奏者の有本紀さん夫妻が来た。奥さんのゆかりさんは今天然絵の具を
使った水彩画の個展をしている。いまだ見に行けていないが小樽の最上「菜
はな」という所で22日までである。ゆかりさんはアトピーを患い今は薬をすべ
て断って自力で食事療法で病気と闘っているのだ。そして大分回復し今度の
個展となった。私はご主人の有本紀さんと以前のスペースで月一回のライブ
で親しくなっていたが、その折いつもそっと夫君をサポートするゆかりさんが
印象的だった。有本さんはその後ギター弾き語りの古舘賢治さんとデユオを
組み前の店舗のラストコンサートも彼らが演奏してくれた。また古館さんもソ
ロで月一回ライブをしていてその彼の歌声に東区の熊谷直樹さんが惚れ込
み先月「アマとホップのフラワーロード」のイメージソング「アップ・ザ・ウィンド
ウ」をCD化している。亜麻の花の美しい青をテーマにかってあった札幌の風
景を唄った古館さんのオリジナル曲で私の前のスペースで初めてお披露目さ
れたものである。熊谷直樹さんと古舘さんの出会いのきっかけとなった縁で短
い文をそのCDに書かせて頂いた。そんな話やら有本夫妻としていると昨年写
真展をしてくれた森美千代さんが引越し時お預けしてあった中川幸夫の本「華」
を戻しに現われた。彼女は以前のスペースの引越し時のドキユメントと現在の
スペースの出来上がる過程のドキユメントもしっかり記録していていずれ展覧
会を期待しているのだがまだ迷いがあるようだった。被写体がもつ現実感が従
来撮影してきた素材と隔たりがあって自分の位置が計りかねているようだった。
にもかかわらず私が見た彼女の写真は引越しという日常の非日常の緊迫した
空気感を人物と共に見事に捉えていると思うのだが。有本夫妻も見たいといって
そんな話しをしている内に藤谷康晴さんが来た。今度は彼の作品の話になりそ
れぞれがまた話の輪を作っていった。ゆかりさんの優しく凛とした性格そのまま
風にそよぐ亜麻の青い花のような<アップ・ザ・ウィンドウ(風上に向かって)>の
時間だった。その場には不在だったが古舘さんにもご報告です。そうそうCD早く
持って来て下さいね。

*明日15日(土)児玉文暁「歩き人ふみの徒歩世界旅行」旅の話とスライド
 ワンドリンク付き1000円午後7時から
*16日(日)まで藤谷康弘展「常温で狂乱」午前11時ー午後7時
*18日ー28日村岸宏昭展「木は水を運んでいる」18日(火)‐20日(木)は
 展示ライブ
[PR]

# by kakiten | 2006-07-14 12:18 | Comments(5)
2006年 07月 12日

白樺の記憶ー界を生きる(17)

昨夜の雨の影響か今日は曇天。少し蒸し暑い。何日か前のことMさんが来て
以前の私の店舗が美容室になると教えてくれた。中にも入って撮影もしてきたと
言う。南側のテンポラリースペースのあった場所は取り壊され駐車場、花器店の
あった二階建て建物はそのまま改装して美容室に内装、配管を整えている。外観
はそのまま生かして入り口も東側一箇所にするようだと事細かに説明してくれた。
彼女ならではの行動力というか、感謝しつつ感心していた。姉歯とか浅沼とか経済
設計が世間で取りざたされとりあえず建物の良さを生かし壊されなくて良かったな
あと思う。あの建物と空間はあの地域の顔でもあるのだから。
来週から展示をする村岸宏昭さんが来る。以前一緒に行った円山川源流域の風倒
木白樺を上から目の高さに吊ると言う。太い大きな白樺の木が会場の中心に居る
事になるのだ。以前の店舗の象徴ともいえる白樺がかってそこを流れていた川の
ひとつ円山川の源流域から運ばれここにくる事になるのはなんとも不思議な気が
する。そういう事を考えた村岸さんにはどこかでこっそり手を合わせたい心境である
。今年1月の高臣大介展の初日の翌朝太田ヒロさんが見た髪の長めのパンタロン
姿の女性の話をまた思い出す。俯き加減で南窓側に座っていたという彼女は結局
当時白樺の精だろうと言う事になっていたのだった。25年一緒にあそこの空気を
吸ってきた。建物と一緒に植樹されたあの木は今や大木となってあの場所の目
印のようにある。マンシヨンにされたら今頃は切り倒されていただろう。その白樺と
別れて今年2月から一時的に無職無収入になりさっぽろを歩き回った。そして今こ
の場所で同じ川の流域で倒れた白樺の木が主役となって展示される。なにか同じ
木ではないにせよ白樺が繋がってくる縁というか友というか”やあ!”と言う気持ち
がするのだった。「木は水を運んでいる」というテーマで来週から若い村岸さんが
どんな展示を見せてくれるのか今から友人白樺に逢える事も含めて楽しみである。

*藤谷康晴展「常温で狂乱」16日まで。
*児玉文暁「歩き人ふみの徒歩世界旅行」旅の話とスライド15日PM7時から
 1000円ワンドリンク付き
*村岸宏昭展「木は水を運ぶ」18日~28日(18‐20日は展示ライブ)
[PR]

# by kakiten | 2006-07-12 14:42 | Comments(0)
2006年 07月 11日

道具と機械ー界を生きる(16)

熊谷透さんの自称39歳の誕生日「55(gogo)透」に呼ばれて顔を出した。
歩き人児玉文暁さんはじめバイクで日本一周中の人自転車で日本を周って
いる人等いろんな人が集まっていた。讃岐ソーメンを使ったゴーヤチャンプル
炊き込み御飯と美味しい手料理が作られていた。話を重ねている内にそれぞ
れの個性というか違いが見えて面白かった。同じ日本一周でもバイクを使う人
と自転車の人と歩く人では違っている。どう違うかというとそれは道具の違いに
関係しているように思われた。バイクの人が一番如才ない。次に自転車の人
最後が歩く人である。それぞれが人と接する時あるいは人を紹介する時にそれ
が表れた。バイクの人が一番世間を見てそれに合わせた話をするのだ。その
人の個性もあるから一概に決め付けられないが昨日の三人はそうだった。
ちようど道具と人間について考えていた時だったのでなおさらそう感じたのかも
しれない。道具は人間の身体能力を増幅してくれる。機械に至ってはさらに飛
躍的に増幅してくれる。その結果道具や機械に拠って生じた身体の部分増幅が
その人間の考え方にも影響を与えている。本来は足なら足の代行である物が
代行のほうが本体を引っ張り込んで本体を希薄にする。現実の実体がある転倒
を来たす。かってオーデイオ装置に凝って部屋まで改造し自慢する人がいたが
彼は耳の代行装置をいくら整えても肝心の何を聞くために何を聞かせたいのか
という所ではさっぱり要を得ない人だった。あれもいい、これもいいと聞かされる
のだが結局は機械の自慢で肝心の音楽の誰かが見えてこないのである。まあ
それはそれで機械オタクといって笑えるが本体である身体や現実の風景を忘れ
るこの種のオタクは今多いのではないかと思う。道具という素朴な身体の延長が
機械となって飛躍的にそれ自体の性能が高まっている現在本体はますます忘
れられる本末転倒が増えている。五体五感が捉えた現実を優れた道具、機械の
機能であたかも自分の所有物のように錯覚し自分の外にある対象に不遜である
のは外界にある対象物に謙虚さが欠如しているからだ。機械や道具はある面簡
単に外在するものに触れる事を容易にしてくれたが自分の外に在る存在は本当
はそう簡単ではないのだ。眼の代わりのカメラ、ヴィデオ、耳の代わりのオーデイ
オ足の代わりの車その他諸々の五体五感に代わる機械、道具たちに謙虚さが
失われ不遜となった時人は大事な身体性、自らを喪失する危機に遭うと思える。
その事に関連してもうひとつ思い出すのはかってこのブログにも一度書いたが
何代目かの環境庁長官がパフオーマンスだと思うが大雪山のお花畑をヘリコプ
ターで視察に出かけ舞い降りて「お花畑は何処?」と聞いたという話である。高山
に咲く小さな可憐な花は国会議事堂前の花壇とは違う。歩いて下から花と同じ目
線で出会うものである。また花壇とは構成され作られた花の色の増幅強調であり
その人工的なお花畑と自然のお花畑とを混同しているのは外界の存在に対する
不遜そのものなのだ。足の代わりにヘリコプターを使い、自分の眼の代わりに眼に
刷り込まれた花壇をお花畑と錯覚している。道具・機械の増幅した機能で到達した
現実を自分の目自分の足で見たと錯覚している典型的な例である。それって一叢
の花たちが厳しい環境で生きている現実に対し、謙虚さもなにもない不遜そのも
のじゃありませんか?
[PR]

# by kakiten | 2006-07-11 12:49 | Comments(2)
2006年 07月 09日

電脳社会ー界を生きる(15)

電脳社会という言葉がある。なにかドキッとした。そういえばよく街でみかける
携帯電話につききりの姿や耳にイアーホーンを付け歩く人を見ているとそんな
電脳人間を見るような気がする。<頭と手の間に機械が割り込み分断してしま
った。>(アン・モロウ・リンドバーグ)時代はさらに進化して頭と手どころか脳の
中まで機械が入ってきているのが現実だ。そしてその時脳はどう分断されるの
だろう。ブログを書きながら勿論手段としてはコンピユーターを使いながらも日
記という古典的な手法を書く方は基本としている。ただ普通の日記と違うのは
半公開を前提としている事である。そこに自分だけの世界に陥りがちな非公開
の日記とは違う緊張感がある。また同時に基本的に日録である為日々の時間
に埋もれがちなキラキラした出来事をその日の内に記録でき後々非常に大き
な貢献をする事がある。書く方は公開を前提としてある為日常の事実であって
もある普遍性を意識してその事実を取り上げ他者へ開こうとする。だから時と
して私信であるメールや手紙をその決意、判断で開いたものとして取り上げる
のである。その事は暴露や揚げ足取りでする訳ではないが時としてその私信
に対して非礼をする場合もあるかもしれない。またその逆に公開性を前提とし
ている為自分の名を出してくれないと不満を訴える人もいる。しかし私はブロ
グを自分なりの一種のエッセイのように書いているのでただの日常の記録と
は位置付けていない。日々の出来事から受けたその日心にノックされた印象
をあるテーマに向かって収斂していく過程がブログの文章となっている。だから
事実の捨象もある。その捨象の事実をを問題にするより収斂された主題で反
論するならその指摘はとても生産性があるが誰それがどうと矮小化されても
困るのだ。書くほうも読む方も共に悪意があってしている事ではないが翻って
自戒する事でもある。これも古典的日記であれば起きない事でインターネッ
トという電脳社会の日記ゆえの憂鬱なジレンマかもしれない。

*藤谷康晴展「常温で狂乱」16日(日)まで
*児玉文暁「歩き人ふみの徒歩世界旅行」旅の話とスライド
 7月15日(土)午後7時~ワンドリンク付き1000円
*村岸宏昭展「木は水を運ぶ」7月18日(火)-28日(金)
[PR]

# by kakiten | 2006-07-09 13:03 | Comments(0)
2006年 07月 08日

普通人と詩人ー界を生きる(14)

久し振りに快晴。光溢れる。二階の窓も開ける。風が通る。気温も上がっている。
及川恒平のCDをかける。<世界が完全に晴れた日飛んだ~>透明な声が響く。
昨日高橋秀明さんから彼が書いた石川啄木についての小論文の私の感想の返事
がきた。硬質な高橋さんらしい文章としばらくぶりに向き合い緊張した。彼の論旨
は「詩人」とは何かと問い掛け、ひとというのをふたつの存在として提起している。
1ー社会の中でなんらかの役割をこなすことで自らがなにものかであると得心する
2-自分が意識をもちなんらかの奇態な考えを抱いているからなにものかであると
得心するこのふたつのパターンを措定して詩人とはなにかを問い掛けている。その
上で(2)を(1)に紛れ込ませ同一化する事の迷妄を指弾しているのだ。啄木の「弓
町より」の引用から<詩人はまず第一に「人」でなければならぬ。・・・そうして実に
普通人の有っている凡ての物を有っているところの人でなければならぬ。>をとり
あげこれを社会的役割としての詩人実は知識人によった考えであるとその不備を
指摘する。2の奇態な考えを抱いている人が1の社会的役割を果たす為の人へと
一元化される現代の知識社会の迷妄に繋がるという指摘でもある。高橋さん独特
の鋭い切開であまりブログ向きではないのかも知れないが私にはこういう硬質な
文章とは久し振りで面白かった。早い話が昨今流行のパブリックアートとかレジ
デンスとか<社会的役割>の装いをもって芸術家とカン違いするなとも読めるの
である。啄木のいう詩人を彫刻家や画家つまり芸術家と読み替えればそこで啄木
のいう<普通人>とはなんらかの社会的役割を果たしている人でありそこを同一
化するある強制、統制を不備と指摘するのだ。つまり詩人や芸術家は人の内なる
<奇態な考え抱いているなにか>であってそこに社会性を密入国させるなという
事とも読める。私は啄木もまたその事はどこか充分に承知していてだからこそ
敢えて「普通人」と言う言葉を使ったと思う。社会的役割を密輸入させた文化人
知識人という詩人でなく普通人という言葉で。先の「弓町よりー食うべき詩」の
引用の冒頭に啄木は書いている。<・・・私は詩人という特殊なる人間の存在を
否定する。>現在の知識社会ではこの<特殊なる存在>がすでに認知され社
会的役割を果たしている。しかしいつも本当のところで詩人も芸術家も高橋さん
のいう(2)の存在なのだと思う。なんらかの奇態な考えをもちその奇態な考えを
表現し様ともがきつつ得心している存在。啄木のいう<普通人の有っている凡て
のもの>とは本当はそのことをも指しているようにも思うのだ。その奇態な考えが
例えお金であれ恋であれその他諸々の事であれだ。

いつか小説家宇野千代さんの闘病後の文章を読んだことがある。男性遍歴も
多かった彼女が長い入院生活から外界へ出てその暑い夏の日初めに眼にした
道路工夫さんの裸の背中の汗と筋肉を美しいと感じたという文章だったと思う。
女性としてその時感じた逞しい異性の筋肉と汗は、虹のようにその状況一回の
限りの美だったと思える。その道路工夫さんは筋肉美の仕事をしていた訳では
ない。宇野千代さんも長い病院生活が在った後だからこそそう感じたのだ。
その虹が固定したらそれはネオンサインである。その虹は高橋さんのいう奇態な
心から発し社会的な役割からは発しないのだ。詩人も芸術家もその虹のような
想念の発生装置を社会的役割に明渡し一元化するならそれはもう迷妄というより
ある種の堕落なのだ。
[PR]

# by kakiten | 2006-07-08 15:44 | Comments(0)
2006年 07月 07日

走る人走る世界ー界を生きる(13)

昨晩は雨だったので久し振りに地下鉄で帰る。さっぽろ駅に着くとどっと人が
乗り込んでくる。この辺から乗客の種類が変ってくる。大通り駅で東西線に乗り
換える。すると走る、走る、男も女も走る。もう午後8時も近いのに朝の通勤時
のように忙しそうに走るのだ。なにか遅い事ゆっくりする事は悪い事のように前
屈みで早足そして走るのだ。宮の沢円山方面に乗る。先程まで早足の人たち
の顔を見る。なにか一日の疲労が出ている。かって自分もいた世界だがあまり
そんな風に意識した事がなかった。だから思い出すように今見るので二重にこ
っちのほうが疲れる。嫌なのだ。大通り駅は。さっぽろ駅を境にローカル線と新
幹線くらい人の質が違うのだ。速さが売り物のコンピユーターの光回線に振り回
され5月13日から一ヶ月不通だった旧ADSLメタル回線に入っていたメールが
失われてその犠牲者のひとりから今日連絡があった。5月16日の仮オープン時
に送ったお祝いのメールが届いていない理由がやっと再開されたブログを見て
分りましたという内容だった。まだ何人もそういう人がいるかも知れない。改めて
失礼お詫びします。どうもあの大通り駅の乗り換えで走る人とコンピユーターの
速さと欠陥がダブってくる。否応なくそういう世界に身を置いているのがしかし現
実なのだ。歩く世界と走る世界そして走る速さの為の増幅する数々の装置。その
狭間を生きている。そういえば自転車すら走る道具であってやはり車道が一番走
リ易いことに気づく。当り前といってしまえば当り前だがもっともっと歩く事の意味
を深めたいと思う。だから雨の日も傘さして歩こうっと。

*児玉文暁「歩き人ふみの徒歩世界旅行」旅の話とスライド15日(土)pm7時
 ワンドリンク付き1000円
[PR]

# by kakiten | 2006-07-07 12:34 | Comments(2)
2006年 07月 06日

歩くふたりー界を生きる(12)

久し振りの雨。車の音が水音を立てて過ぎていく。雨の中前の仮事務所所に預け
てあったカタログ類を歩き人児玉文暁さんと熊谷透さんが車で運んでくれた。これ
で資料が少し整ってきた。しかし依然として賀村順治さんの所の圧倒的な量の資
料はまだ手付かずだ。賀村さんには申し訳ないが折をみて運ばなければならない
。それが揃うと二階はちよっとしたさっぽろのアートシーンの宝庫となるだろう。コ
ーヒーをいれしばし三人で話す。児玉さんは市内三ヶ所くらいでスライドと語りで
歩いてきた世界中の話をレクチャーしている。ここでも15日の土曜日午後7時か
らスライドレクチヤーをしてもらう事にした。藤谷康晴さんの描く街の光景の中歩く
を主題にふたつの光景が交差し、ふたりの等身大の歩く視線をそれぞれのベクト
ルで同時に会場で見る事になる。歩く視線で切り取り構成された藤谷さんの街の
姿と足を基準に旅で切り取られた世界の風景と対象は違うが共に歩行が基準に
置かれている。突き詰めた言い方をすれば共に歩くという足の復権から世界を
取り戻す行為なのだ。かって1960年代に小田実がなんでもみてやろう的に世
界を歩き海外に出て行ったがそこにまだあった未知への興味という歩きとは少し
今は違ってきているように思う。もっと日常の行為に近いのだ。歩く事そのものに
主眼があるように思われる。道具から機械への著しい進歩によって眼も耳も足も
手も恐ろしい位部分増幅が進んでいる時代に不可避的に顕在化したシンドラー
のエレベーターに象徴される機械への反動というかゆり戻しのように歩くという
行為が今あるように思うのだ。かってリンドバーグ夫人が「海からの贈り物」に
<頭と手の間に機械が割り込み分断してしまった>と記した情況がさらに凄い
勢いでどんどん進んでいる時代へのアンチの姿勢が歩くと言う行為にあると思う。
さまざなハイテクの蓄積の高層のビル街色々な情報手段で手に取るように見える
世界の姿をもう一度自分の歩く行為によって取り戻す行為、それが<歩き>なの
だ。児玉さんが世界の国を、藤谷さんが街を歩きその視線でもう一度自分大で外
界を再構成して提示し語りあるいは見せるという行為はその基本に共通する時代
に対するある衝動のようなものが存在すると私には思える。そしてその衝動とは
目で触れ耳で触れ手で触れたいという身体性の回帰への切なる現実への少なか
らぬ実践のように思える。

*藤谷康晴展「常温で狂乱」7月16日(日)まで
*児玉文暁「歩き人ふみの徒歩世界旅行」旅の話とスライドー7月15日(土)
 pm7時からワンドリンク付き1000円
[PR]

# by kakiten | 2006-07-06 14:58 | Comments(0)
2006年 07月 05日

静かな初日ー界を生きる(11)

藤谷康晴展の初日夕刻燦々と夏の西日が射し込む。そして光が変化していく。
画廊全体が白い光のかたまりのように反射光で満たされて他の光源は不要だ。
ちようど来ていた森美千代さんがデジカメで撮影していて声をあげる。カメラに
ガラスに貼られたtemporaryspaceの文字が板張りの床に映っている。まるで
焼き付けたようだ。すぐデジカメで撮影する。ショップカードに使うつもり。夕闇が
増してきた頃次回の個展予定の村岸宏昭さんが来た。自転車に何かを積んで
息を切らしている。見ると大きな白樺の幹だった。以前一緒に歩いた円山川の
源流域に朽ちて倒れていた白樺の木を切ってきたと言う。四時間かかったという。
今度の展示「木は水を運ぶ」に使う為だ。村岸さんは現在北大の四年に在学中だ
が卒業を前にある区切りとして個展を決めた。川の傍に立つ木を通してその木の
内側を流れる水をテーマに音と造形で展示を考えている。なにか私自身のモチー
フとも合うので最初話を聞いた時は不思議な感じをもった。そして一緒に歩いた時
も不動の滝の傍で大きな白樺の木を見つけ関心を示していたのだ。私にはまだ
円山北町で一緒に過ごした前のスペースの白樺の木への想いもあったからなお
さら不思議な気がしたのだった。今展示している藤谷さんの絵は自分の生まれた
場所の傍でもありそして続いて山岸さんが展示する白樺の木は25年いた円山北
町の象徴的な木でもあってこの連続も不思議だ。別に私が意図してふたりを選ん
だ訳でもないのだから。なにか集まってきたのだった。自然と。そのうちに酒井博史
さんが来た。焼酎を1本お祝いに差し入れてくれたのでみんなで飲みだす。暗くなり
吹き抜けの裸電球だけを点しいつかヒロシの歌になった。男だけ四人の焼酎を囲
んだ裸電球の下のささやかなオープニングの宴だった。サカイヒロシの歌声が心
に沁みるようにゆっくりと時間を濾していった。

*藤谷康晴展「常温で狂乱」4日ー16日am11時ーpm7時
*山岸宏昭展「木は水を運ぶ」18日ー28日am11時ーpm7時
[PR]

# by kakiten | 2006-07-05 12:40 | Comments(0)