テンポラリー通信

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2006年 03月 09日

岸辺の表情(2)-さっぽろ川を歩く

さっぽろ漂流の原点となった鴨々川の旧水門幌平橋デルタゾーンからもう一度
歩く。道議会議長公宅、連合事務所、宗教団体の建物、空き倉庫、マンシヨン
と5棟の建物がこのデルタゾーンのすべてである。東に豊平川と堤防南西に鴨々
川、北には幌平橋の中の島への道路と囲まれ三角地帯となっていて閉じられた
空間である。この豊平川と鴨々川の接点こそが幻の大河さっぽろ川の多分唯一
の痕跡である。ここから都心の市街地は、地質図上扇状地堆積物の樺茶色と
自然堤防堆積物の薄緑色が北東部に拡がる。再び白く蛇行する旧さっぽろ川
が現れるのは東区の伏古の地図の上だ。アイヌ語の古いを表すフシコが伏古
あるいは伏篭となってその下のさっぽろは省略され伏古川となっているが、地質
図に彩られている薄緑の自然堤防の厚さは正しくかっての大河を想起させるの
に充分のものだ。現在の豊平川の比ではない。さっぽろ川が氾濫し支流の豊平
川が主流になったのは1800年頃と言われている。しかしその伏流水はサッポロ
ビールや帝国製麻等で使う道庁の東前方に設営された官営工場の為に大量の
水を地下から常時提供したに違いない。川は見えなくても流れていたのだ。
今都心の市街地にその面影をみることは不可能だが、鴨々川の流れの始まる
重要なポイントに<官>の象徴である道議会議長公邸があるのは象徴的な事だ
。今なら考えられない場所の設定である。開拓初期からきっとここは重要な場所だ
ったのだろう。そして鴨々川の流れる流域は当時の国家神道の治める場所でも
った。そこからあらためて東区の本竜寺まで直線に切り換えられた人工の堀創
成川沿いを経て歩く。創成川はその名の通り創ー新しく創った川、新川である
。ここは今アンダーパス化事業とかで水源の鴨々川をせき止め工事中でさらに
殺風景になっていた。おまけにこの日はミゾレ交じりの雪風でなんとも侘しかった
。創成川ルネッサンスという文化運動があってその提案がこのアンダーパス化
につながっているが本当のルネッサンスは伏古川でしょうと思う。文化が政治と
経済に寄り添って公共事業の手助けをしている札幌ドームのアートグローブと
同じ系統のパブリック文化がここにもある。パブリックワーク内アートとか文化
といった方が正確である。古いものが蘇えるのがルネッサンスで新川がなぜ
ルネッサンスなのだろう。言葉が仰々しく創成だからでしょうか。その創成川の
元を創った大友亀太郎のお寺本竜寺とその役宅跡札幌村郷土資料館まで歩き
再度のさっぽろ川歩きを終えた。深く閉じた根っこのデルタゾーン。直線の市街地
の原点でもある創成川。そして再びパラトー石狩へと開かれる伏篭川の岸辺は
湿った春の雪風の中にあった。
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# by kakiten | 2006-03-09 14:16 | Comments(0)
2006年 03月 07日

岸辺の表情ー岩手からロクさんが来た

岩手県在住の木工の作家菅沼緑(ろく)さんが来た。何年ぶりだろう、10年以上は
経っている。鎌倉の人だったが一時音威音府に移住しその後岩手県に引越した。
より自分の木工に適した場所を求めてひたむきな生き方をしている純粋な人である
。今回は萬鉄五郎の出生地岩手の土澤町で昨年行われたアートイベント「土澤の
30日間ー街角美術館」の新たな展開と私への陣中見舞いが目的で訪れた。車に
犬と猫を乗せてやってきた。土澤のアートイベントは立派なドキユメントを兼ねたカ
ログになっていて二月に送られてきていたから自然とその話が主になった。空き店
舗や空き地低い家並みの商店街、公園や駅の構内ありとあらゆる場所が展示スペ
ースになっている。その地域と人のアートを通した一体感の高揚した気持ちがろくさ
んの新しい生き方の可能性を充実したものにしているようであった。都会を離れ自
分の場を追い求めてきた彼にとって、そこに他のジャンルの作家そして町の人が
参加し町自体が変容していく体験はきっと新鮮な経験だったに違いない。単なる
工芸家として閉じることなく常に生き方を場とともに考え生きてきたろくさんに今作
品上でも新たな地平が見えているのかもしれない。生まれた池袋から鎌倉そして
北海道岩手とその場の追究の仕方は異なるが根本のどこかに共通するものが私
には感じられた。三時間ほど話して彼の犬と猫を乗せた車は函館ー青森へと去っ
ていった。さっぽろ漂流をつづけていると遠い近いではなく人とひょっこりという感じ
で会う。付き合いの時間の長短でもない。それは一種の侠気のように思える。男女
でもない。侠気(おとこぎ)とでも表したくなる心の様子である。年齢でもない。10何
年ぶりにわざわざ尋ねてきてくれたろくさんもそうだがここのところ会う人たちがみ
んなそういう人たちだ。実名は挙げないが心の奥底で深く感謝し友情の泉が溢れ
る自分がいる。そのことはさっぽろの見えない岸辺に触れている今の自分の実感
でもあり、与えられた勇気でもある。
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# by kakiten | 2006-03-07 17:52 | Comments(4)
2006年 03月 05日

道の表情ーふかぶかとさっぽろ漂流(10)

歩き回る道が枝道、路地が多い性か雪と泥と氷が一緒くたになっている道がほと
んどだ。山岳画家の熊谷榧(かや)さんに連れられ冬山登山を覚えた頃真っ白で
真っ青な世界を山スキーで歩き山の麓まで降りてきた時の道を思い出す。
腐れ雪云ったっけ。そんな腐れ雪の道は足元だけでない。歩いていて歩くほうが悪
いような道もある。何でこんなとにこいるの?邪魔だ邪魔だと声はないけどそう感じ
る道もある。別に車道の真中を歩いていた訳ではない。周りが高いビルで出入りす
る車しか通らない、おまけに雪泥で歩く所が車の轍にどうしても近づくそんな場所だ
。時々そういう道に紛れ込むともうひたすら足元だけを見て脱出を願う。でも今頃は
そういう道が多いな。市街地の舗道のように買い物や通勤の目的では歩いて良し
それ以外は車が主役で人間はチヨロチヨロするなみたいな感じの道が増えていた。
そんな時樹があるとほっとする。おまけに鳥が鳴いていて時に沢山の小鳥が群れ
ている。しばし立ち止まる。傍にぽっかりと木造の古い家屋があって荒れた庭があ
る。そんな光景をたまに見る。それが時々飲食の店だったりする。北大界隈や山鼻
界隈には数件それがあった。もう少し郊外だと石山軟石の倉庫がそうだった。
個人の屋敷だったような家には庭と樹があって歩いているとそれに救われる。そこ
に正直なもので鳥もいる。カラスは少ない。カラスの声は人間的で人を小馬鹿にし
ているように聞こえる。時に威嚇的で様々な小鳥の声とカラスの声とは違う。大体
カラスはビルの道に多いのだ。食い物も含めてカラスが人間化したのはカラスに
とっても不幸かも知れない。今のカラスは夕焼けよりも市街地に似合う。
腐れ雪と腐れ人間がカラスと車に追い立てられるように街を歩く。格好悪いねえ。
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# by kakiten | 2006-03-05 12:43 | Comments(0)
2006年 03月 04日

岸が見えてきたーふかぶかとさっぽろ漂流(9)

河田雅文さんと一緒に廻る。彼は優れたセンスのアーテイストだ。以前プラハの企
画で九州と札幌を結んだ交換シンポジュームがあり私は講演はせずパラト街道を
参加者と歩きその行為の中で各自が感受した事をテーマにした。その時参加し総
括を書いたのが彼だった。その後英国の美術家ロジャーアックリングの石狩望来プ
ロジェクトで作品記録を編集した時も一緒だった。3年程前マンシヨンのチラシだけ
で構成した展覧会「本日堂々完成」もワサビの効いたいい個展だった。前のギヤラ
リーの入口前にできたマンシヨンの完成を皮肉った批評精神あふれる展示だった。
また最近はビデオ作品を手がけていて携帯自転車で川に入り川の中を走りながら
撮影した未完のいい作品がある。彼の家はちようど界川と琴似川の合流点に近く
川の話でも私と気が合った。そんな彼が半日付き合ってくれた。自分以外の目線
が入るとまた少し見え方が変ってくる。見落としていた物がふっと見えてくる。この
日は狸小路の新しいスペース「スンクガーデン」にちらっと寄った後山鼻、北大付近
中心に廻る。道すがら河田さんの興味がやはり琴似川水系にあるのが分かる。水
源をさっぽろの西の山並みにもつ琴似川は現在のそれよりもはるかに広い範囲で
さっぽろの西南部から北東部を網羅した川である。札幌を造った三つの扇状地の
ひとつ<FK>のKは琴似川の頭文字。ちなみに<FT>のTは豊平川(旧札幌川
)<FH>のHは発寒川である。河田さんと話しているとすでに見た建物、新たな
ゾーンが別のふくらみをもって見えてきた。これでひとつ絞られてきたと思う。
一緒に歩く事の多い酒井さんも実は琴似川の枝に店がある。サカイだ、カワダと
私の原点の界川(さかいがわ)がいるみたいだった。まあこれはただのオジンギヤ
ル?ですがね。夜河田さんと別れた後事務所に帰ると村尾香妃さんからメールで
私が初めて見た夕張が中学の修学旅行で釧路で向かう途中の深夜だった話の
返事だった。真っ暗な夜汽車の窓に忽然として顕われた眩い光と機械音の渦。駅
の周りを覆うその光の空中都市は今もはっきりと脳裏に残っている。村尾さんは
釧路にも幼時期いて夕張と釧路が故郷という。たまたま私の夕張の記憶が釧路行
きの汽車だった事の不思議さを恒平さんの育った釧路との縁と共に語っていた。
彼女はこのブログに夕張の沼田さんを記した時コメントをくれた方である。及川恒平
時計台コンサートの主催者のひとりでもある。及川ー釧路、沼田ー夕張の線がまた
新たな出会いを生む。これも人の伏流水だな。私の中学時代の修学旅行がねえ。
記憶の伏流水が人に触れて、心の列車を走らせている。人の記憶の駅を巡るさっ
ぽろーその入口を思う。
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# by kakiten | 2006-03-04 13:52 | Comments(0)
2006年 03月 03日

徒労感と閉塞の狭間にーふかぶかとさっぽろ漂流(8)

2、3日ぼんやりすることが多かった。なにか緊張の糸が緩んだみたいだ。昨今の
お天気みたい。やはり3月、2月とは違う。3月1日千年鶴酒ミユージアムの高臣大
介展に顔を出す。キリリと眼を張った大介さんがいた。髪が伸びて横に束ね兵馬傭
に似ていた。秦の始皇帝のあれだ。試飲のお酒を昼から飲んで酔いが早い。つい
もう一杯今度は百円出して吟醸酒を頼む。これは溢れるようにお姉さんが注いでく
れたので思わず”3月3日みたいなお顔ですね”と言ったら笑っていた。白い台に透
明なガラスの作品が並び少し単調に見える。本人もそう思っていたと見えて、吊る
作品を増やすと言っていた。それからパラト街道斜め通りタマネギ倉庫ともう一軒
を見る。どちらも大き過ぎて私のイメージとは違う。ついでに同じ街道沿いにあるぷ
ー横丁で海鮮カレーを食べる。美味しかった。夜石田善彦さんと会う。田中綾さん
酒井博史さんも来て先日の石田宅のお返しである。高臣さんも誘ったが来なかっ
た。初日の晩いろいろあるのだろう。田中さん先に帰った後3人で小説家東直巳の
姉の店「小太郎」に行く。寿郎社の関係の人の誕生会とかで満員。でもなんとか入
れ石田さんからいつも聞いていた店に初めて腰を下ろした。ほどなくパーテイの人
が帰り3人だけになりママのマラソンの話(サロマ湖百キロマラソン参加)の96キロ
時点の最後の辛さと達成感が印象的だった。そういえば及川恒平さんも参加して
たなあ。南の沢まで酒井さんが石田さんを送って帰ったら3時過ぎていた。こういう
漂流はあまりねえ。ススキノは何年振りだろうか、でもやはりススキノはススキノ。
疲れたのが正直な感想。
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# by kakiten | 2006-03-03 14:06 | Comments(0)
2006年 03月 01日

鉄橋のように生きるーふかぶかとさっぽろ漂流(7)

2月が過ぎた。地図を片手に意識的に幻の大河さっぽろ川を辿った。そこで
見えたのは中心部の市街地化がどんどん侵食している事だった。琴似は琴似
円山は円山山鼻は山鼻という場の固有性が界隈性を喪失して同一の空を頂き
つつある現実だった。地域のグローバル化ともいえる。以前琴似街道や茨戸街
道を歩いた時道とともに風景も変化があった。三角山のゾーンが円山に変り円
山のゾーンは藻岩山のゾーンへと変化していった。古い街道には等身大の軸が
あった。茨戸街道には石狩へと向かう海への低い目線が転じて反対側の山並み
を迫り上げていた。風景と場所がキヤッチボールしながら呼吸していた。その呼
吸が今喪失しつつある。その事実を嘆いているのではない。街がたった一つのチ
ヤンネルの風景になってそれが豊かさと錯覚して街を改造する事に邁進して一体
なにがいいんだという怒りを感じている自分がいるだけである。私は私の呼吸を
他者の呼吸で代行する事はできない。他者の呼吸を私の呼吸で代行する事も
勿論できない。そんな当り前の事が街の風景には起こっている。それを誰もおか
しいと思わず発展と錯覚しているならそれはもっとおかしい。それぞれの街角が
亜流のいじけた名称と建物で埋まっている。公共の場所も民間のビルもマンシヨン
も駅名もふざけたネーミングがまかり通っている。ダジャレにもならないぜ。
一ヶ月が過ぎ見えない川の漂流はある輪郭を結びつつある。それは琴似川水系
と伏篭川水系の選択である。あの鴨々川の入り口に始まる南ゾーンから東北部
へそして円山北町の琴似川から源流南西部と北大と桑園の北東ゾーンである。
このふたつのゾーンを囲むようにジグザグと歩き呼吸する街角を探している。
そして3月4月そう、<鉄橋のようにわたしは生きるのだ辛い3月4月を終えて>
ー福島泰樹
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# by kakiten | 2006-03-01 12:51 | Comments(0)
2006年 02月 28日

風のように友が来たーふかぶかとさっぽろ漂流(6)

一日出歩いて外から帰って夕刻電話が鳴った。東京沼田康弘さんからだ。
今札幌です。近くです。外に出ると目印のタワーマンシヨン向かいに真っ赤
なヤッケを着た沼田さんがいた。仮事務所まで案内し一応中を見てもらう。
<いや~なんか学生時代の下宿の部屋みたいだなあ、>と第一声。いや
はや、ここは早々にして円山公園口の喫茶店へとりあえず向かう。歩きなが
らも話は止まらない。その後西28丁目の居酒屋楽屋へ行く。店主の松崎軍夏
(いさか)さんと同じ1957年生まれと分かりそちらも話が弾んでいた。
沼田康弘さんは現在役者としてまた脚本家として昨年は九州天草、東北青森
ドイツベルギーと活躍しているが、最初に会った時は「風の旅団」のテント公演
で札幌に来て夕張出身と分かりそこから話が合い友人となった。私が夕張の
廃墟から持ってきた書類を見て<親父の会社だあ!>といって触ってくれた人
である。今回は弟さんの病状悪化で夕張に帰っていたがとりあえず病状は危機
を脱したという事だった。天草の博物館で夕張のアンモナイトが沢山展示されて
いた話、夕張の錦沢でそのかって汽車がスウイッチバックした場所で母と弟
が立っている夢を見てそこを舞台に公演したいという話、また東京である公演を
企画して及川恒平さんと2時間近く話し恒平さんが出演を断念した話は世間の
狭さに吃驚した。沼田さんもなんで及川さんと私が繋がるのか知らず驚いていた。
これも人の伏流水の泉だなあ。沼田さんと会うといつもお互いの今をわんわんと
語りあいほとんど収拾がつかない。でも不思議と根っこの部分は一致しているの
だった。及川さんもそのいい例だったが、昨日は最後に楽屋で沼田さんが持って
いたCDを聞かせたいといって聴いた曲もそうだった。グレングールドのバッハ「平
均率グラビアー集」で、グールドのこの曲は私の座右の曲のひとつだったから。
時にジョンルイスの晩年のソロもバッハの「平均律」でどちらの演奏もあの店で
よく聞いていた。グールドは私が演奏者を選んで聞いた最初のバッハだったし
ジャズ出身で黒人のジョンルイスもピアノでバッハを弾き続けたグールドもともに
黒人がクラシックそれもバッハをとかチエンバロでなくピアノはバッハの時代にない
とか当時の常識をオーバーフエンスして自分のバッハを追究した演奏家であった。
なぜこの曲が沼田さんから昨夜顕われ、私に聞かせたいと思ったのか、なにも
決めた事ではなかった。他の居酒屋では出来なかっただろうし沼田さんがCD
ファイルから最後にグールドのこの曲を選んだのもただ彼の気持ちだったろうと
思う。楽屋を出てまた歩きながら話し続けじゃあと別れた。飲み代は引越し祝い
だった。収入ゼロの漂流者にはあり難かった。さっぽろ流れもの~の今の自分に
は。
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# by kakiten | 2006-02-28 12:39 | Comments(0)
2006年 02月 27日

東奔そして南友ーふかぶかとさっぽろ漂流(5)

地下鉄東豊線栄町まで行く。あまり乗った事の無い地下鉄なので一度終点
迄いってみようと思った。ここはなにもないと思った。烈々布神社のほうまで歩く。
アイヌ語のREP(れップ)ー川の中心からきたことばと思われる。地下鉄駅
周辺も見て回る。川のど真中のせいか<その入口>はない。諦めてふっと
思い出し昨年暮れ美術家の花田和治さんと訪ねた元町の佐々木芳斉さん
を訪ねた。暗い部屋にひとりTVをみてベットに横たわって佐々木さんがいた。
彼が出版していた1980年代後半の「美術ノート」の話やら1990年代初め
にもうすでに4回線を使ってインターネットでチャットをしていた話などを聞いた。
ほんとうになんでも早かったんだなあと改めて思った。もう癌で春か夏までだよ
とさして落ちこんでいる様子もみせず語っていた。元気な時はキザで歯に衣きせ
ず何度か頭のきた事もあったのにこうして今淡々とお互いの事をはなしあってい
る、不思議といえば不思議だった。人間の間にも伏流水のような付き合いがある
よなあと云ったら肯いていた。時間もたち暗くなったのでじゃあまたと辞した。
翌日南の沢の翻訳家石田善彦さんの家に向かう。以前から訪ねる約束をして
いて今回はあの店の引越し作業中知り合った酒井博史さんと田中綾さんも一
諸だ。気功の熊谷透さんも同行。酒井さんと田中さんは国民歌謡ラヂオ歌謡に
共通の関心が接点にあり、熊谷さんと酒井さんはいつかの洞爺大介さんのガラス
工房訪問以来である。石田さんの家に着きみんなで湯豆腐を囲み話は8時間以
上深夜に及んだ。しかしまあみんなどこかで繋がるものだ。話は多岐に渡り一度
には記せない。ただやはり酒井さんの歌声<そうだ!友よ夢を叫べ!>が石田
宅に朗々と響きみんな頭を垂れて聴き入ったことはいつものとおりだった。
20代30代40代あとは、ウン10代と年齢も生い立ちも違う5人が濃い時間の内に
いた。
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# by kakiten | 2006-02-27 17:00 | Comments(0)
2006年 02月 25日

ちよっと休息かな?-ふかぶかとさっぽろ漂流(4)

そろそろ人恋しくなってきたのかここのところ会おうという機会が増えてきた。
先日の平岸もそんな感じ。もう何年もまえ初めて下沢トシヤさんの工房を訪
ねて近くの居酒屋さんで飲んだことがあった。いいお店でなにより食材も店主
も品格があった。そう、家でいえば軒も庇も屋根もきちっとあるという感じだ。
その頃の私には薄野を中心にしたイメージが飲むところにはあって、ビルの間
をハシゴしていたせいかあまり屋根も庇(ひさし)も感じてはいなかったのだ。
それがビルの内、外でも同じだった。夜だけでなく昼もお店は屋根も庇もない
コーナーの連続のようにあった。大きな建物と地下へと続く通路に嵌め込まれ
るように店があった。そこを出入りする出口入り口は均等にあって用を足す為
のその口はすぐ消えた。沢山の店が昼も夜もあるのだが全体としてのっぺりし
た空間だったのだ。昨日のブログに思わず<平岸村>と書いてしまったがその
場に根っこのある店の存在感がそう感じさせるのだ。一軒の店に入るという
微かな緊張感と期待の快感があった。だから入り口と出口は均等ではなかった。
人間の住む街にも自然と同じようにかって<その入口>が存在した。それは
決して出口と均等ではなく、出口は入り口の属性にしかすぎなかったのだ。いつ
のまにか出口が重く軽い入り口が増えてきた。中心部の市街地に慣れた眼には
この時平岸は新鮮でどこか懐かしいものだった。私の生まれた駅前通りもかって
はそういう街だった。私の東京の学生時代6年間で根こそぎ変った。その渦中で
父さんひとり苦労したんだろうなあ、父の死後戻った自分の今に続く闘いはそこに
原点をもつとふっと思った。さっぽろの街を漂流しながら<村>のようなそこ固有の
街角が喪失しつつある、恐ろしいほどの勢いで今もますます消えていくのをみる。
でもこの間、この今唯一の窓口ーその入口であるブログを通してすら毎日ノックし
て入ってくる人と人の数は減らない。その事実にインスパイヤーされてまた歩く。
下沢さん、中川さんとの平岸村そんな時間でしたね。ありがとう。
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# by kakiten | 2006-02-25 13:27 | Comments(0)
2006年 02月 24日

平岸の宴ーふかぶかとさっぽろ漂流(3)

中川潤さんから電話ある。明日沖縄へ立つ。陶芸の下沢トシヤさんも会いたがって
いるのでどうということだった。夕刻地下鉄大通り駅で待ち合わせ平岸へ向かう。
陶工房下沢前の居酒屋で下沢さんを待ちふたりで飲みだす。強制執行前3日間
泊り込みで引越し運搬を手伝ってくれた。それ以来久し振りだ。あの最後の朝モー
ニングセットの髭面、大介さんとふたり前にいてヤマアラシの頭をみながらトース
トと目玉焼きをつついていた。話は今まで書いたブログのこと、その反応に始まり
沖縄の美術家豊平ヨシオさん、詩人の与那覇幹夫さんのことなど話していた。
そのうち下沢さんが来た。下沢さんにも2回引越し荷物の運搬を手伝ってもらった。
それ以来である。中川さんと下沢さんは石狩望来の鯉江良二モニユメント以来特
に肝胆相照らす仲だ。そのうち酔ってきてふたりでジャレだす。後から来た下沢さ
んのスタッフの多田昌代さんが面白がってさかんにカメラで写していた。髭面ふた
りの愉快なショットが沢山撮れた事だろう。話は5月出羽三山に3人で行き、月山を
登ろうということでお開きになった。山形はお酒もお蕎麦もいいし好きな干し柿も食
べたい。地下鉄最終に間に合い中川さんと大通り駅で別れる。久し振りの平岸村
だった。翌朝東京沼田康弘さんから留守録。札幌に来ているという。熱い男で夕張
の話がきっかけで友人となった風の旅団の脚本家と役者をしている。会うのが楽し
み。昨日は月末近く動きが鈍る。半日ブログとメールの返事身辺整理に追われる。
円山市場のケーキ工房じゆ~んの小川さんに会い、お知り合いの山中歯科さんに
北15条方面の情報提供の為会うように勧められる。小川知子さんは多満屋という
三越まえの古いパン屋さんの生まれでケーキつくりのプロだ。登山も趣味で山岳画
家熊谷榧さんの個展で知り合った。今回はいろいろとお世話になる。別れて市場横
の食堂で天丼食べたがまずかった。遅い昼飯。それから平岸へ向かった。
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# by kakiten | 2006-02-24 13:32 | Comments(2)