テンポラリー通信

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2006年 04月 12日

旗の下にー燃える街角(4)

江別から中山茂樹さんが訪ねて来る。一月末の引越しの時黙々と手伝って頂いた
。私の4月4日のブログを読んで心配して尋ねてくれた。彼とはJAZZの碇昭一郎
のライブで知りあった。軽妙な司会で場を盛り上げてくれた。しかしその軽妙さとは
裏腹な地道なひたむきさを、彼の引越し作業の最中何度も私は感じた。2日間に
わたる彼の仕事振りは深く感謝の気持ちとともに印象に残っている。そんな彼が
心配してきてくれたのだった。これまでそんなに深い付き合いがあった訳ではない
。人はこうして何かあった時ふっと水位が繋がり心の運河に舟が走る、友情の舟
が。その晩は帰宅した熊谷透さんも交えてお酒が美味しかった。中山さんと熊谷さ
んは初対面ながらともに京都の大学でその点でも話が弾んでいた。翌日仮事務
所に戻り夕方、下の階からドヤドヤと人声がして呼ぶ声がした。下りると熊谷さん
中山さんがいる。昨夜はここに泊まり今日一日熊谷さんの気功の仕事を手伝った
と中山さんが言う。それからまた3人で話が始った。なんと結局は一緒に仕事をす
るかという所まで話が煮詰まってきた。中山さんが江別に帰ったあと熊谷さんはう
れしそうだった。5月の気功ライブを当別の実家の桜の木の下で及川恒平さんも
招きしたいと話していた。5月20日日曜日実現すればいいなあ。中山さんも私と
ともに汗をかき同じ方向を見詰めていい仕事ができればいいと思う。小さな旗の下
人が集まってくる、旗本退屈男かもしれないが・・・。たまに落ち込むのもいいもの
かも知れません。後は一瀉千里がむしゃらに行くだけ。新鮮な街角、開いた街角
を目指して。街角に心挿す。
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# by kakiten | 2006-04-12 13:24 | Comments(0)
2006年 04月 10日

続小さな旗ー燃える街角(3)

時間なく途中で昨日のブログは終えていた。今日はその続きです。T・nakamura
さんという方からコメントを戴いた。鷲田清一さんへの中身濃い批評と受け取った。
ただ私の意図した事は鷲田清一論ではなく堀田さんとの現状認識の差異が主たる
テーマで私自身の現在感じている共感度が基本にある。
落ち込んだ後遺症かブログの文章が固くなり、エッセイか小論文のようになってき
た。小さな旗として書きたかったのは<自分の本領をしっかり守っている>あるお
店の人の話。若いハンコ屋さん三代目の酒井博史さんは先日とうとうあのレトロス
ペースで待望の手刷り印刷機を使い名刺を印刷したのだ。3時間以上かかって刷
った。活字を自分の店から持ち込み館長坂一敬さんの名刺が刷り上った。印字さ
れインクの跡も瑞々しいその出来立ての名刺はインクが乾く前に触るとすぐに滲
んだ。今のハンコはコンピューターが主で活字を使った判はほとんど無いという。
印刷も然りである。彼は自分のブログに書いている。機械が古くなっててこずった
のではないない。機械は現役だった。現役でなかったのは使う側だったと。つまり
機械は今も<自分の本領をしっかり守って>いたのだ。使う人間がその技術を古く
錆びらせていた。レトロスペースに眠っていた機械はただの骨董展示ではなく本来
機能を発揮して館長の名刺として甦った。その事が私には小さな旗、現代文明へ
の小さな抵抗のように感じ思えた。大量印刷や時間の速度という点では勿論なん
の役にも立たない。経済的にも劣るのは自明だ。しかしそこには機械と職人の汗
がコラボレーシヨンのようにあった。対等に<本領>があった。現在の流通機構
が喪失してきた物と人間の濃い時間があった。そして機械が復活した。職人は手
の記憶を復活させた。今も活字で判を作る酒井さんの厳しい毎日は少しだけ報わ
れた。レトロという過激を保つ坂さんとまちの若いハンコ屋さんが手刷りの機械を通
し出会って出来たこの小さい名刺は、私にはやはりへんぽんとしてはためくふたり
の小さな旗に見えたのだ。
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# by kakiten | 2006-04-10 13:31 | Comments(1)
2006年 04月 09日

小さな旗ー燃える街角(2)

ー「この間のお店でまた飲もうね」と約束しても、そのお店はもうなくなっている
というのが、最近何度かあった。とにかくすごい勢いでお店が消えている。
                              (堀田真紀子「狭い土地から」)
ー都市はいまひどい空襲を受けている。空襲とはたいそうな言い草かもしれな
いが、わたしの想像力のなかではそうした言葉しか思いつかない。
                               (鷲田清一「夢のもつれ」)
昨日引用したふたつの文章の出だしである。ともに現実の街の様相から出発して
いる。<とにかくすごい勢いでお店が消えている><都市はいまひどい空襲を受け
ている>。現状の観察にそれほど大差があるわけではない。ただその後の展開は
空襲という想像力と自分の本領をしっかり守っているお店と目が転じていくことで結
論は随分と違ってくる。堀田さんはその後「私が通勤で利用する・・うなぎ一筋のう
なぎ屋さんだけだ。」とお店の区別化そして自分の本領という勤労の視線で自己完
結の方向に閉じていく。鷲巣さんは京都、東京を例に都市の構造上の障壁へと視
線を深めていく。それが商店街だけでなく住まいの問題とも関る都市の構造として
問題を提起する。堀田さんは札幌の街を鷲田さんは東京、京都を見ていて都市の
違いがあるようにも思えるがそれは私の経験上では関係ない事だ。同じなのだ。
首都古都それも現代という時代のうえでは関係ない事だ。地方も中央もない。<
顔の見えない暴力><ひどい空襲>は日常のなかにあるリアルな事実である。そ
の事実に気づきどう対峙するかどうかの問題である。このふたりの違いはそのまま
わたしたちの今を映し出している。個と個の問題に閉じていくか、個と他の問題に
開いていくか。
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# by kakiten | 2006-04-09 18:32 | Comments(4)
2006年 04月 08日

風と旗ー燃える街角(2)

小さなヒビが沁みる時がある、失速する時がある。風を見る。心の旗を立てる。
旗棹を射す丘を登る。そんな時25年も前の旗印が甦ってきたのだ。<燃える
街角器の浪漫since1897>。気恥ずかしいといえば気恥ずかしい文句。
ただ灰塵と志(こころざし)の<燃える街角>は今も変わらない私の風の旗だ。
この間sichihukuさん父娘から心励まされるコメントを戴く。また石狩のMさん
からも心暖まるメールを戴いた。感謝です。そんな時今週の水曜日と木曜日の
道新夕刊に掲載されたふたつの文章が心に残った。ひとつは「魚眼図」という
コラム欄に載った「狭い土地から」という文章。<とにかくすごい勢いでお店が消
えている。ただいつまでも残っているお店もあってそれには共通点がある(中略)
時流に媚びないで、自分の本領をしっかり守っているお店。>そして19世紀の
アメリカの思想家エマソンの言葉が引用される。<(先略)自分はわが身に与え
られたつとめとしてぜひとも耕さねばならぬその狭い土地で、みずから汗水たら
して働かねば、おのれを本当に養ってくれる穀物はただの一粒たりとも手に入ら
ぬことを確信するようになる>従って情報が溢れて<ついきょろきょろしてしまう
今のような時代こそこの言葉を肝に銘じる必要がるんじゃないだろうか>という主
旨である。もうひとつは「夢のもつれ」というエッセイ。<都市は今ひどい空襲を受
けている。(中略)古い木造のたたずまいが連なる中京に20年くらい前から高層
マンシヨンが家並みを押しのけるように建ちだした。(中略)陽射しは阻まれ薄暗
いなか湿気がつのってゆく。寒暖をしのぐ古くからの知恵がみな死んでしまう。<
中略>京都の河原町には昔から有名な書店が軒を並べていた。梶井基次郎の
「檸檬」の舞台となった書店も最近カラオケ・ビルに変った>そして料亭は焼肉
チエーン店に時計店はゲームセンターに変りこれがバブル期以降の見慣れた
光景であるが<が、見飽きる前にこれがやはり都市の脇腹に突き刺されたドス
であったことを忘れないでいたい>と書く。このふたつの文章の出だしはお店の
喪失という点では共通しているがその後の現実認識の展開は決定的に異なって
いる。前の文章は自分の領域をきちんと守って働けという勤労思想に帰着するが
後の文章は「まち」の瓦解を現代の構造的な視点から捉え抉っていく。そして「ま
ち」の瓦解を街の身体性の分断と捉え次のように指摘する。<コミユニテイの意
識というのはそれぞれの身体空間をあるいはまなざしを、日常的にゆるやかに
交差させるなかで生まれる。(中略)が、いま地域を見舞っているのは人びとの
過剰なまでの分断である。社会の近代化とともに「貧」という共通の定めに協同
してあたる「共同防貧」という力が殺がれてゆき「貧」が孤立化してくる、「貧」は
つねに「孤立貧」という形をとるようになる。><立つこと歩むことをも不安がらせ
人びとをついに「失立」「失歩」へと追い詰める恐怖感。気がつけばわたしたちの
身体はそうした損傷(ダメージ)に深くむしばまれ、うずくまるだけで何の抵抗も
できなくなっている。>そしてその前に<顔の見えないこれらの暴力を一つ一つ
推し戻してゆかねばならない。そうした「共同」の小さな抵抗のなかでこそ、身体
はいまいちど外に向かって開き><都市構造上の障壁をも乗り越えてゆく>と
書いている。私はこの鷲田清一さんの文章にひどく共感した。都市をひとつの身
体性として捉えその身体を分断する顔の見えない暴力とどう闘っていくかという
テーマは私自身の今現在のテーマでもある。この時の「共同」という小さな抵抗
が時に「孤立貧」という小さなヒビとなっても在ったからだ。情報の溢れる世界を
キヨロキヨロという視点で捉えるか、内側から構造として見据える視点から捉える
か、ふたつの文章は店の喪失という同じ切り口から入りながら対照的な読後感を
もつ。不漁の海を前にして山なんか行くな、己の領分を守れ情報にきよろきよろ
するなと説くか、海の不漁を構造的に捉え漁師が山に木を植える行為を小さな抵
抗として理解し支援するか、どちらが現代の海の漁師へのエールとなっているか
は自明の事だ。たとえそれが海でなく<まち>であっても情況は同じ事だ。海を
漁師から奪う構造的な暴力は都市の上にもある。<暴力は上から降ってくるば
かりではない。地上でも見えない暴力が街に巣くい、地域の文化を滅ぼしてゆく
。>そして「孤立貧」という「失歩」「失立」のうちに<頭を抱え込んでうつぶし、うず
くまる前に>自らの身体という旗を外に向かって今一度開かなければならない。
鷲田さんの文章は無言のエールとして、そう私には読めたのだった。
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# by kakiten | 2006-04-08 15:31 | Comments(0)
2006年 04月 04日

燃える街角

不意に落ち込む。もう少しまで来ているが自分の非力を痛感する。再び漂流か。
敢えて<燃える街角>を旗印に立てる。どこか自滅願望も芽生える。金の無い
のは罪か。公と私で攻め立てられる。無い事が甘えを生む。それが罪だ。そう実
感する。でも甘えが目的ではない。でも現実はそう断罪する。初めてだなこんな
こと。静かに目を閉じる。心の芯に近づく。ふっと浮かんだ懐かしい原点。<燃え
る街角>。灰塵に帰す燃えるなのか、天に向かって燃える志なのか。かってその
ふたつの意味を込めた。祖父の着いた札幌は明治24年の大火の時。私の帰郷
した札幌は経済の大火の時。ともに街が焼け、街が変わった。本当の火と経済
の火と。灰塵のそこへ入っていく、そこからまた街角を創る。それが<燃える>の
ふたつの意味。ず~っとそれが心の芯に在った。祖父と私、札幌とさっぽろ、出郷
と帰郷。ふたつの時代の違いを繋ぐ時空間に私のさっぽろ、燃える空間があった。
今はもう、祖父はさらに遠く、出郷も無く、帰郷もない。ただ退去があるだけ。
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# by kakiten | 2006-04-04 14:24 | Comments(4)
2006年 04月 03日

及川恒平さんのことー岸辺の風景(20)

ほぼ一年前の昨年3月18日「唄と歌」をテーマに初の及川恒平コンサートが
前の私の店で催された。それが及川さんとの初めての出会いだった。その後
6月の「絵と音」以来8回ほど札幌でお会いしている。この間歌人糸田ともよさ
んと会い、新たな唄が生まれ及川恒平の世界が広がり深まりつつある。美唄
生まれの釧路育ちと聞く及川さんは、大学時代を東京で過ごしすぐ六文銭の
小室等さん達とフオークソングのグループでスターとなっていった。「面影橋」
や「出発の唄」の作詞で有名である。私はその頃グレングールドのバッハとジ
ヤズに嵌っていてフオークとはあまり縁が無かった。従って最初お会いした時も
及川恒平という名前には無知だった。しかし頂いて初めて聞いた「緑の蝉」のCD
は心に沁みいつも朝店で流すのが恒例となっていた。今またこの仮事務所で熊
谷透さんが座右の音のように毎日聞いている。そしてこのCDが10年の音楽活
動中止のあと再開された第一作と知りまたその間の事情を初めて先日聞きなに
か不思議な共通の根のようなものを感じている。音楽活動を中止する動機は多
分早くからスターとなっていたから業界の商業主義と自身の創作とのギヤップだ
ろうと思われる。その頃<首から上で歌っていて決して首から下の音で歌わなか
った>と言う。逆に音楽活動を中止していた10年間はテニスのインストラクター
として首から上は意識せず喉も気にせず声を張上げ首から下を使っていたとい
う。天性の美声からくる商品性を自らの声として取り戻すその復帰する第一作が
「緑の蝉」だったのだ。喉は身体の全体性の内に解放され声もある強制から解放
されている。現代が有名無名を問わず私たちに与える増幅装置のような部分の
強化。それは時として身体という五体五感を一感一体に分離し分断するものだ。
及川さんの場合は早くしてスターとなり商業主義という増幅装置によって喉と声
という一体一感が身体という全体性から分断され宙に浮く時があったのだろうと
思う。その事がマラソンを通しテニスを通しもう一度喉を声を自分自身に回帰させ
回復し唄が生まれる。そんなドラマがCD「緑の蝉」にはあった。熊谷さんの気功
の持つ身体そのものの揺らぎに収斂していく波長がどこか及川さんの「緑の蝉」
と同じように感じられたのはその一部から全体への解放のリズム故かもしれない。
そのリズム、律動はあるがままの自分という身体性を回復させ解放していく身体
のルネッサンスのようにあって札幌ならさっぽろという自然の個々の身体性にも
繋がつて私には感じられる。グローバリズムという政治経済の部分増幅装置が
地球という自然の身体を歪(いびつ)にしていくように、ひとつの街角ひとうの声に
もその闘いはある。そんな内なるラデイカリズムが僕らの共通の根っこにあるの
かもしれない。
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# by kakiten | 2006-04-03 15:00 | Comments(0)
2006年 04月 01日

ふたりのランナーー岸辺の表情(19)

熊谷透さんが中国抗州から帰ってきた。及川恒平さんが尋ねて来た。そして、
ふたりが昨晩初めて会った。夕方から湯豆腐を囲み利尻の昆布を入れ中国土
産の老酒とワイン、ビールを飲みながらポッリポツリと、たくさん話が有り余って
いるのに何処から出すのかを確かめ合うようにふたりの話が始った。男3人の
モノクロームな出だし。来る予定だったtさん、mさん、maさん、iさんと女性陣
みなさん風邪や体調、所用でお見えになれずガラスの高臣大介さんも仕事で
見えなかった。しかし話の中身はキラキラと濃く、気功や山岳マラソンに京都と
ふたりの共通の話題満載だった。あっという間に4時間くらいが過ぎた。10時近
く途中で来た酒井博史さんの車で及川さんが帰りふたりの初対面は終わった。
及川さんが10年近く歌手活動を中止しその間テニスの指導員をして歌に復帰し
た第一作「緑の蝉」の誕生時の話が心に残っている。テニスの指導員時代は体
を鍛え走りいわば下半身の強化に勤めた。しかし歌手時代は首から上で歌う事
を心掛けていたが復帰のCD録音の時は体の中心から歌を唄うように感じていた
という話である。その頃ダウン症の少女のコラージュをみてその体の芯から表現
していく全身のオーラになにかを貰ったという。その少女は自分の部屋全体を身
近にある物で構成して飾り既成の千代紙とかは決して使わなかったという。身体
に障害があること、その事が逆に全身を使い表現するパワーを生む。歌う事も首
から上だけの美声に依ることなく全身で声を生む、そんな体験が10年の身体経
験と結びついて復帰第1作を支えたのだ。マラソンから気功へ、マラソンから唄
へとふたりの表現領域は異なってもその身体の律動、そのリズムは同じ方向を
見詰めているように私には思われた。それは自らの身体の部分に寄らない回復
身体のルネッサンスのようにあると思う。文明の商業主義という増幅作業が見失
わせたもの、健康や美容という名のもとに偏っていった身体、作られたイメージ
の清潔な美声への偏りそれらを経験した上でそれぞれの気功が唄が今あるの
だろう。今私が都市に感じている偏向そして今私が実践しようとしている街の
復権、その同じ想いの街角でふたりの声と気功に会いたい、聞きたいと思う。
それが一夜明けた今日の私の願いでもあった。
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# by kakiten | 2006-04-01 18:20 | Comments(0)
2006年 03月 31日

若い古本屋さんの夢ー岸辺の表情(18)

夕刻吉成秀夫さんが訪ねてくる。ビールとサッポロポテトを持って来た。彼は札幌
大学OBで今福龍太さんの教え子、ブラジルへ旅立った對馬さんや山口昌男文庫
の小山さん達と同じ仲間だ。今は古書店伊藤書房に勤めて将来自分の古本屋を
開きたいという希望をもっている青年である。退去した後の店を覗き、白樺の木を
見上げたとブログにコメントをくれた人だ。久し振りで逢い熊谷さん留守中の下の茶
の間でビールを飲みながら話が弾んだ。彼の為にある人から本が何十箱も送られ
てきたという話は凄いなあと思った。その人の気持ちの濃さに応える為どう本屋を
創っていくか、彼はどこかで悩んでいた。私は古本という言葉が良くないと思って
いたのだ。newとoldという対立概念は捨てた方がいい。いい本というのは装丁も
大きさも中身も含めて貴重な存在で、時代のオブジエでもありそれを絵に置き換
ればそれを古絵とは言わないのだ。印刷物で複製ではあってもそういう物がもう出
来ない時代になりつつある訳でこれからの古書店は<古>という概念を変えてもっ
と別の観点から店作りを考えたらいいと話した。それがどういう物かを分かっている
訳では無論ない。ただ本それ自体がもっている厚み手触りデザイン等は文庫本や
パソコンのフラットさとは決定的に異質なものだからその貴重性はこれから重要に
なっていくと思われるのだ。開かれた明るい光のなかで美しい古書店は在り得ない
だろうか。古い本もまたレトロではあるが過激なキラキラした本の為の本屋があっ
もいいと思う。いつか一緒にゾーンを創りたいねと話した。そういえばあのレトロス
ペースにあった古い手押しの印刷機械を若いハンコ屋の酒井博史さんがとうとう
館長の坂さんの許可を受け名刺を刷るようになるかも知れない。印字とか印刷と
いう<印>のプレスもまた現在消えつつある技術である。それが甦る時なにかキ
ラキラした新鮮さを感じる、それが本にもあっていいと思う。そんなハンコ屋さんや
本屋さんが並んだらいい街角ができるなあ、とひとり密かに思っている。
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# by kakiten | 2006-03-31 16:48 | Comments(0)
2006年 03月 29日

都市というワイルドサイドー岸辺の表情(17)

建築家の梶田清尚さんが来る。ほどなく脚本家の斉藤千穂さんも来て3人で北へ
向かう。以前見た一軒家の内部を建築家の目で見てもらう為だ。梶田さん、斎藤さ
んは‘80年代後半雑誌「パルス」で一緒に編集をした仲間である。梶田さんが中心
となって様々な分野の状況をラデイカルに表出しようとした雑誌で演劇の飯塚優子
さんや創文社の桑名正和さんアイヌ研究家の中川潤さんら8人が編集委員だった
。この頃毎週水曜日に編集会議があり夕張にも一泊で取材に出掛けた。ふたりに
見て貰い内部改装の色々な指摘を指示され参考になる。その後斎藤さんが治療
に通っている札幌華僑会館へ向かう。治療時間までまだ間があるというので周囲
を歩く。ここは以前歩いた所で東屯田通りの東側、新通り市場も近く昭和20年代
の札幌が黒澤明監督の映画「白痴」のシーンのように残っている所だ。柾板の家
、棟続きの長屋、石炭小屋などが一角にかたまっている。一ヶ月ほど前に来た時
は雪が屋根に三段位積もって垂れていたがもう何も無く替わりに立ち入り禁止と立
ち退きを促す看板が貼られていた。まだ何軒かは住んでいるようだったがここも間
もなく更地になりマンシヨンでも建つのだろうかと思う。一軒ではなくここはゾーンと
してひとつの界隈を保っていただけにとても惜しい気持ちがする。8軒から9軒の家
に囲まれた内側に入るとそこはもうレトロな札幌だった。生きたレトロスペースだ。
先日の坂さんの蒐集の過激さをふっと思い出す。現実を阻止する事は出来ない。
その現実に対峙する情熱があの蒐集を支えている。喪われ壊されていく時間と空
間への怒りがその根底にはあるのだろう。治療する斎藤さんと別れ梶田さんとも別
れ事務所に帰ると程なく、玄関で大きな声がして元歯科技工士の上木章一さんが
来た。シンクガーデンで酒井さんに会いここを聞いて尋ねて来たという。二ヶ月ぶり
だ。ギヤラリー巡りの達人で、用としての歯の技術者のキヤリヤは大変なものだが
用でないものの技術、美術へと傾倒している人だ。いつか歯を彫刻で造形した美
術作品を見て、こんな歯は口に入らない、いやあ!と感激していた人である。技術
が自分の積み重ねてきたものと違う世界を創りだす事に素直に感激し驚き感心し
いる。それが今ギヤラリー巡りを支えている一番の情熱だろうと思う。外に出て喫
茶店に入り私の近況や3種類の地図を見せると上木さんの青少年時の記憶が甦
り色んな時間がここでも流れだした。私の生家の二軒先でアルバイトしていたとい
う。案外擦れ違っていたかもしれない。この方も侠気の人である。わざわざ心配し
探し尋ねて頂いた。感謝である。そして地盤地質図や大正、昭和の地図を見なが
らふたりで見えない札幌の時空をしばし旅した。今に残る東屯田通り界隈のレトロ
ゾーンから今は見えないさっぽろへと現実のワイルドサイドを潜り往還した日だった。
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# by kakiten | 2006-03-29 16:36 | Comments(0)
2006年 03月 28日

レトロという過激ー岸辺の表情(16)

心挿すと志(こころざし)を読み替えた時内向きになった自分がいた。ふっと内側
に入っていった。そんな時酒井博史さんから電話。山鼻地区のメール便の配達
のバイト付き合ってという事だった。久し振りに彼の車に便乗して東屯田通り界隈
を廻る。60軒位軽快に配達していく。こんなに軽やかな身の動きのヒロシを見る
のは初めてだ。私は地図片手に現在位置を確認しつつ周りをの建物を見る。前に
歩いた時とはまた違う角度で街が見える。小1時間程で配達は終了し「桜庭」とい
う靴を脱いで中に入る喫茶店にいく。本当個人の家がカフエになっている。初老の
婦人がひとり店主だった。そこで酒井さんと話してふっと思い出し坂ビスケットの
レトロスペースにその後向かった。以前館長の坂さんが前の店閉店の折訪ねてき
てくれたのだ。1時間以上も居ただろうかいろんな話をした。内向きに強く濃い人
という印象を受けた。現実に対して鋭い人である。それが前向きの批判という形
をとらず内向きのレトロという形をとって今の現実を厳しく峻別する。そういうタイプ
の人という印象をもった。初めて入ったレトロスペースはその峻別する激しさ強さ
そのままに圧倒的な数と種類の収蔵品が分類され展示されていた。これは只の
懐古趣味だけではない。‘60年代の学生運動のヘルメット、パンフレット、遺稿
集もあって、喪われ去っていったものたちへの痛切な想いと挽歌がトニカとしてあ
る。勿論それが湯たんぽであったりカストリ雑誌であったりもするのだがその個々
の蒐収品については見る人それぞれの分野があるだろう。酒井さんはハンコ屋さ
んだけに活字の印刷機械に嵌っていた。名刺を活字でする小さな機械を小さい頃
扱った事があるという。今度ここの館長の坂さんの名刺を刷るといいなあと思う。
スタッフの女性の方は友川かづきのフアンでご主人は笛の演奏家でもあり酒井さ
んと話が合っていた。館長の坂さんは留守だったがスタッフの方もユニークな人
だった。かって永井荷風が浅草の踊り子やその劇場の巷を飄々と彷徨いながら
戦争一色の世間から一見超越しているように見えながら反権力の視線を貫いて
いたようにこのレトロスペースにも同じ匂いがある。そういえば館長の坂一敬さんの
風貌も永井荷風に似ているなあと思う。心残す酒井さんと閉館時間を過ぎ濃い夕
暮れのなか、又の来館を約して帰路についた。なにか急にビールが飲みたくなる。
そんな濃密な時間の住む館だった。
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# by kakiten | 2006-03-28 11:56 | Comments(0)