テンポラリー通信

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2006年 08月 05日

伏流水のようにー界を生きる(37)

藤谷康晴さんが個展最終日余ったDMに1日描きつづけた作品を2メートル弱の
四角い塔のようにして持って来た。四十枚近くある葉書大のデッサンが貼り合わ
されて一本の柱のようになっている。会場の中央に置くとまるで先週まで在った
村岸さんの白樺のようだった。”これは藤谷さんの白樺だなあ”と思わず声にした。
モノクロームで抽象的な線だけで描かれた躍動的な絵がひとつの立体となって
立っている。これが4、5本並ぶともうそれだけで個展が出来そうな位だ。藤谷さ
んの新たな展開が予感された。明年2月の個展が楽しみになる。
過日田中綾さんが菱川善夫著作集第二回配本の「火の言葉」を持参してくれた。
菱川先生(私の高校の恩師でもある)の’80年代を中心にした現代文化論である
。今美術批評が主たる仕事の柴橋伴夫と私と菱川先生と三人で創った「ゆいまあ
る」という文化団体の軌跡もひとつの柱として収録されているのだった。漁師が山
に木を植えるようにあるジャンルからのそのジャンルの為の越境、オーバーフエン
スが熱く実践された’80年代の伏流水がここにも今溢れているのを感じる。佐佐木
方斎さんの’80年代と呼応するかのように菱川先生の’80年代もまたこうして今立
ち顕われてきた。美術ノートに初出された深井克美論石狩河口の大野一雄の舞踏
論等現代短歌論の範疇をより根源的な同時代の目線で越境し熱く語った一冊であ
る。不思議だよなあ、私が佐佐木方斎さんと会い次なる展示の企画を進めている
その最中に同じ’80年代に関る菱川先生の一冊が纏められ田中さんの手を通して
届くのだから。この本が届いた日は大丸の高臣大介ガラス展の初日でもあり酒井
博史さんと田中綾さんとお祝いに出かけた。着くとsichihukuさんこと佐藤久美子
さんもいてしばらくぶりの再会に軽口を叩いた。その後旧仔羊亭のあった三条美
松ビルのモーリーとかいう店に行きボクシングの世界戦亀田の疑惑の判定勝ちに
気分悪くなり先にひとり帰った。翌日高臣さんのブログは2日酔い、酒井さんのブ
ログは憤懣溢れるものと亀田戦の影響はどちらも多大だった。四次元に近い電波
業界のいい加減さと二十年近い時間を経た伏流水の新鮮さとその日1日に起きた
ふたつの出来事は何を意味するのだろうか。ともに目の前にありながら幻のようで
ありしかも紛れもない現実の出来事だった。昨日持って来た藤谷さんの白樺の幻。
村岸さんの展示との不思議な呼応。佐佐木方斉と菱川善夫の不思議な’80年代
の呼応。電波業界の仕組まれたようなインチキな呼応より余程リアリテイがあるぜ
。とあの夜のお酒がまだゴロついて、呟いている。
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# by kakiten | 2006-08-05 12:24 | Comments(0)
2006年 08月 04日

軸心を保つー界を生きる(36)

佐佐木方斎さんの軌跡を見ていると’80年代の軸心が’90年代にギヤラリーT
を開きカフエも併設したその事自体がひとつの発信拠点として考えた節がある。
その試みはいろんな事情で頓挫するのだけれども彼が試みた’80年代の軸心
は「美術ノート」も含め一画家としてだけでなく広く美術の側からの果敢なオーバ
ーフエンスを同時代の視点から試みた軌跡として今少しも錆び付いてはいない。
「美術ノート」が特集した「駅裏8号倉庫」の記録湊谷夢吉を中心とする銀河画報
社の記録等は美術館中心に偏りがちな記録と一線を画し同時代の記録を見事に
掬い取っている。また美術館を会場として使用しながら現在の道外国外の招請作
家の基礎となっている九州、韓国の作家を初めて招き内向きに固まりがちな美術
の世界をより外に向けて開き交流し刺激を与え続けた現代作家展の企画も形を変
え名を変え今に繋がっている仕事である。’83年川俣正のテトラハウスプロジェクト
に始まり’89の界川游行でひとつの場との関りの集大成を見た後テンポラリースペ
ースを拠点として私の’90年代はあったがこの間佐佐木さんとはほとんど交差する
事もなくただ一度夭折の作家深井克美の特集で美術ノートに拙詩を書かせて頂い
たのが唯一の接点だった。それも当時深井克美を発掘した正木基さんの編集によ
る「オリオン通信」からの誘いによるもので佐佐木さん直接ではなかった。だから今
こうして佐佐木方斎を熱く語る自分がいるのは不思議といえば不思議な事だ。
’80年代の軸心と’90年代の軸心が今この2000年代の拡散状況の中でひとつ
の軸心のようにして出会っているという事なのだろうと思う。
資料を出来るだけシンプルに揃え2006年の作品と共にきりっと展示したいと思っ
ている。現在賀村順治さんの家にお預けしてある数々の資料もお盆前には整理し
なければならないので展覧会はお盆過ぎに予定している。乞うご期待!
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# by kakiten | 2006-08-04 12:11 | Comments(0)
2006年 08月 02日

’80年代の疾走ー界を生きる(35)

次の展示の打ち合わせに東区本町の佐佐木方斎宅を訪ねる。現在栗沢町の
スクラップアート美術館で彼の個展が開かれている。今年花田和治さんと初めて
訪ねて以来三度目の訪問である。どちらも雪の多かった時期の記憶がある。裏か
ら入る入り口なので扉を開けるのに苦労したからだ。今回は雪も無くスムースに
扉を叩き中に入った。部屋が片付いている。本人も元気そうだった。私が2月4月と
二度訪れた後セリグラフ工房の佐藤浩司さんの所で新作の版を刷り個展をする
までに気力を回復したと聞いた。さらにあちこちに電話し彼の関った北海道現代作
家展の資料を纏めて近代美術館に提供するなどいろんな方面から彼の動きが聞
こえてきた。私は今年二月初めてと彼の所を訪れた時1984年から隔月で10巻
継続して出版された「美術ノート」全巻を初めて目の当たりにし彼が志した’80年
代のコンテンポラリーな業績を改めて深く感じていたのだ。そして1977年から始っ
た北海道現代作家展の十年間の軌跡と併せて、その道外及海外の作家の招請が
その後の作家交流の基本となっている事にも感心したのだった。今回初めて見せ
て頂いたギヤラリーTとカフエスペースもがっしりとした構造の優れた空間だった。
古いタイプのパソコンも四台ほど在って1990年代初めまで佐佐木方斎さんが
突っ走った時間のある面で早過ぎた豊穣な濃い匂いが今も漂っていた。今回
私は今から約20年前のこの作家の記録を出来る限り率直に提示し新作の版
も展示したいと思い本人の了解を得るために訪れたのだった。以前と同じように
ベットに寝たきりに姿ではあったが時に起き上がり資料を探しに別室のギヤラリ
ーまで案内し動きは身軽で軽やかであった。そしてよく喋った。学生運動の事
美術を志した時の事、そして専門の数学の事。早口と専門用語で不明な事も
沢山あったが私の訪問、個展の依頼については快くむしろ嬉しそうにさえ思え
た。ふたりで会って話しているのは今日で二回目その前は花田さんとさらにその
前は不愉快でキザな方斎さんしかないのである。その間に20年以上の歳月
が詰まっている。今日で四回目なのだ。でも今は共に私の現在と彼の現在が
どこかで深くクロスしているのを感じている。その一点だけでもう充分だった。
秘蔵の数学ノートもコピーさせてくれ(これは実は彼の制作ノートなのだ)「美術
ノート」全巻北海道現代作家展図録「art document1990」の図録等ずっしり
と資料を預かって佐佐木宅を辞したのはもう午後9時を超えていた。「格子群」と
名づけられた作品はすでに佐藤浩司さんからお預かりしていて後は本人の承諾
次第だった。冬の二月に対峙する夏の八月ともに別の意味で厳しい時期に佐佐
木方斎展「格子群」を開きたいと思う。七月若い20代の人たちの活躍その彼等が
生まれた頃の二十年前がどう彼らに映るのか問いかけたい気もする。そしてそ
れは勿論自分自身のこの二十年への問いでもあるのだが。
 
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# by kakiten | 2006-08-02 15:35 | Comments(0)
2006年 08月 01日

心と体のあいだー界を生きる(34)

疾走する七月だった。藤谷康晴展の静謐なペン画その都市への眼差しの奥底に
たたえられた熱い殺意にも似た凝視。スタテイックな激情の張り詰めた表面張力
。そして名づけられた「常温で狂乱」。一転して山中の一本の倒木によるインスタレ
ーシヨン、幹を抱き耳を澄ます、触覚聴覚視覚の直接性がトータルに作品世界と
関る村岸宏昭展「木は水を運んでいる」。素材も表現も対照的なふたつの個展で
あったがなぜかここではクロスしていた。日曜日の搬出の時も藤谷さんが来て手
伝ってくれた。村岸さんの<運ぶ>は私の函に近いのかもしれないなあ。作品も
またひとつの函かもしれない。久し振りに休日は何もせずひたすら寝た。ごろごろ
と顔も剃らず洗わずバカTVを何も考えずぼんやりみてまたそのまま眠った。それ
で疲れが取れたわけでもない。かえって疲労素が篭もったくらいだ。山に行くとか
せめて軽いトレッキングするとかして心身ともに疲れぐっすりがいいのだ。安易な
休日だった。今日酒井博史さんのブログを見たらギックリ腰という。ありやありゃあ
。ヒロシさんバランスですよ。あんたが疲れてどうするの。同じ20代のふたりがガン
ガン飛ばしたので20代最年長のヒロシは大分煽られたのかもしれないね。その心
と体がバラバラになって腰にきたのかも知れない。それだけふたりの個展は身近
なテーマ性を孕んでいたという事でもある。私に次いで一番身近に作品に立ち会っ
たのは酒井さんだったかもしれない。最後に白樺が外され会場が何も無くなって
白い無表情な空間に戻った時見えない時間の蓄積がう~んと濃くなってくる。それ
が疲れを生むのだ。私にはいつもの事だがそれは未練とも違う、作品が遺した
深部の火照りと目の前の日常の散文的な時間とのギヤップが生む嚥下パワー、
その知恵熱疲労みたいなものが心身のバランスをときたま狂わすのだ。慣れてい
ない酒井さんは多分それにやられたのだと勝手に思っている。まあ普段の不摂生
もあると思いますが・・。<界を生きる>が段々<酒井を生きる>になりそうなので
次回からそろそろタイトルを変えようかと思うのです。はい。
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# by kakiten | 2006-08-01 12:32 | Comments(3)
2006年 07月 30日

函となって溢れるー界を生きる(33)

とうとう今日搬出。村岸さんの白樺、どなたかが欲しいと言っているそう。その場所
に合わせてまた立ちつづけてほしいと思っている。復元はできないがその木の心
を再生する事は出来る。人の心の作用として。そんな不可能を可能にするかのよう
な六番目の身体、幻想の物体が人の五感を刺激し解放してくれる。日々の現象に
潜んでいる本質のコアへと触れさせてくれる。個々の感受性が様々な虹を架けて
くれた。人それぞれが鏡のように光を反射する。その光の中に作品が存在した。
只の倒木の幹がある本質的な存在となるのはその光が在るからだ。作品にとっ
てその光を発する万華鏡のような装置、函、それがギヤラリーという空間である。
箱ではない。集まり、溢れる函なのだ。大函、小函と川の水の集まり溜まり溢れる
その函だ。閉じてはいけない。exhibitionのEXは外へ前にであってINではない。
私が出来る事はその函にひとつひとつ立ち会うこと、そのことだ。一回一回がかけ
換えの無い時間である。テンポラリーと名づけたのはそういう意味である。歩行の
ように一歩一歩である。急に頂上に至るのではない。下りもある。急に海に出るの
ではない。谷もある、平野もある。トータルでコンという頂きを保つ。トータルでコン
という海を保つ。contemporaryは結果なのだ。無目的な恣意的なtemporaryで
はなく根には時代がある。それぞれのtemporaryがあってそれぞれの時代があ
る。その時間を函が共有する。そこに同時代がある。同じ時代を生きる。その本質
の時間を絶やしてはいけないのだ。少し独白的になった。搬出前のふっと感傷かも
ね。次回は1980年代を駆け抜けたある作家の近作展を是非実現したい。
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# by kakiten | 2006-07-30 12:29 | Comments(3)
2006年 07月 29日

白樺の夜ー界を生きる(32)

夕暮れが濃くなり行き交う車のライトが光を増すころ、白樺の傍で村岸さんのギ
ター演奏が始った。低く音を確かめるようにギターに耳を寄せ最初の音が弾き出
される。車の音が気になる。金曜日の夜どこかへ出かけるのかひっきり無しにエ
ンジン音が響く。ちよっとやりにくそうだった。最後バッハの曲を弾き終わり休憩
に入る。後半は二階吹き抜けの窓際ベンチに演奏のステージを移動する。聞き
手は下の床に座布団を敷き座る。途中二階の窓を閉めに梁を渡ろうとして白樺
を吊っているワイヤーを引っ掛け一瞬危なかった。木もろとも落下するところだ
った。幸い木も私も無事。なにか昨日の自転車事故といい続いたね。
暗闇でうっかりワイヤーのこと忘れて梁を渡ったのだ。そんなハプニングを経て
吹き抜けの上から演奏が始る。音が格段にいい。窓を閉めて車の音も薄まる。
白樺にスポットが一灯だけ当たり上部の村岸さんには蝋燭の灯が灯された。
心地よくギターの音色が響き渡る。そして夜の空気に溶け込む。終演後前回
展示した藤谷康晴さんほかふたりが残った。そして程なく酒井博史さんが遅れ
て来た。酒井さんのためにと村岸さんがもう一度上に上がり演奏しだした。激し
い弦捌き、あっという間に彼は全身の力を振り絞りやがてベンチにうつ伏せに
倒れこんだ。その後酒井さんがお返しに一曲朗々と歌い、村岸宏昭展最後の
白樺の夜は終わった。展示は一応30日まで延長しビデオ撮影その他の記録
をする。まだご覧になっていない方是非見てあげて下さい。作家も夕方には
在廊しています。「木は水を運ぶ」この<運ぶ>は<porte>で入口という意味
を持つと会場にパネルで掲示されている。アイヌ語のイパル、イフツのようで
興味深かった。テンポラリースペースその入口を飾るに相応しい白樺の木の
<porte>。村岸さんありがとうございました。昨夜のコンサート十分に言葉
に置き換えることは出来ません。また敢えてしたいとも思ってはいません。
特に最後の演奏は言葉になりません。あの激しさは多分村岸さんにとっても
初めてのことだったのではないでしょうか。あなたも<porte>-(ある分野へ
の)入り口、扉ーを、昨夜開いたのでしょう。この白樺の木とともに。
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# by kakiten | 2006-07-29 12:49 | Comments(0)
2006年 07月 28日

人、自転車、自動車ー界を生きる(31)

昨夜も自転車で帰る。途中ランドクルーザー系の車が舗道を塞ぎ止まったので
後ろを通り抜けようとしたら急にバックしてきて引っ掛けられた。転倒したが大丈
夫でそのまま帰ったが夜右の肩が痛んだ。倒れた時咄嗟に右腕で受けたのが
肩に負担をかけたのかも知れない。柔道の受身のし損ないだな。昨日の道具と
機械でも書いたが人、自転車、自動車とパワーの違いが事故の損傷力の違い
にも出てくる。最近自転車に乗るようになって思うことだが歩く人には自転車も
横柄である。そして自転車にとつて自動車は横柄である。特に自動車はその
種類によって性格がでる。要注意は先程のランクル系で特に黒っぽい色のそれ
だ。砂漠か荒野を走る類の車に乗り街を走るような人はきっとどこか傲慢になっ
ているのだ。軽乗用車のチヨロチヨロ急に曲がってくる自己本位な車も怖い。小
ずるいというか小生意気というか油断ならないのだ。尊大なランクル系はもう避
けるに越した事はない。自動車という機械の力が人の心の増幅を直に反映して
いる。車に乗ることは人がある権力を得たことに等しく小さな権力者が沢山巷に
徘徊している事に等しい。自転車もまた舗道を走る時普通の歩行者にとっては
子育て時期のカラスみたいで急に横から襲ってくるのだ。やはりこつこつと歩く
のが一番性に合っている。速さ、利便さとこのコンピユーターに象徴される現代
社会のリズムとどこか対峙するリズムを鍛えなくてはいけない。
有本紀、ゆかり夫妻が来た。ゆかりさんの小樽の個展は見に行けず残念だった。
ふたりはゆっくりと会場にいて村岸さんとも会って話していた。見ていただきたか
った人たちである。今日の村岸さんのギターコンサートには来れないそうで代わり
にチラッと村岸さんが演奏を聞かせた。同じミユージシアンの有本紀さんがじっと
聞いていたのが印象的だった。十日間に渡った展覧会も今日で終わる。
村岸さん、白樺さん、ありがとう!今夜のコンサートきっと最高でしょうね。
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# by kakiten | 2006-07-28 12:05 | Comments(0)
2006年 07月 27日

機械と道具のあいだー界を生きる(31)

今朝の気功講習会は中止となる。熊谷透さんの弟さんが危篤との事で急遽そう
なったのである。昨夜自転車を置きに熊谷宅に寄り危ないんだという話しを聞いた
ばかりで私はその時勘でいつも当別に帰る木曜日の気功の日は気を付けた方が
いい弟さんはその日を知っているだろうから何か安心して気が緩んだりするよと
言ったのだ。それが現実となって今日は最初のここでの気功講習は中止となった
。村岸さんの白樺の作品の前で気功を体験したかったので残念である。
先日中川潤さんが来て左手に包帯を巻いているのでどうしたのと聞くと電動鋸で
切ったという。40針縫ったと言うから相当の怪我である。幸い指の腱も神経も切れ
ていなくて指の動きには支障ないという。後日包帯を取った傷跡を見たがそれは椎
茸のように黒くデコボコに脹れ上がっていた。村岸さんは今回展示した白樺の倒木
を1日半かけて鋸で切ったというがこれは手動の鋸でもし怪我をしても電動とは違
って40針も縫うような怪我にはならないだろう。電動と手動の違いは道具と機械の
差でもあり便利さが増すだけその反動も大きい。森が恐ろしい勢いで消えているの
は勿論機械に拠る所が大いにあるのだ。ただ道具や機械はその使い方という技術
の要素もあるがその技術的な面をもっとシンプルにして最も一般的な人間に近い
道具はお金だろうと思う。この人間に最も近い存在である金銭、銭かねという道具
は先程の電動鋸とは違った牙のむき方をする。心を干上がらせ人間関係を疎遠
にする。今年1月末から当面無職無収入になりさっぽろを漂流していた頃ポケット
に5円玉と一円玉しかないときもあって惨めだった。そんな時喫茶店でコーヒーを
飲むのも人からお金を借りる始末でその後なにかその人とも疎遠になった。自分
では気にしない積もりだったが人の目は違ってきたように思う。お金のない裸の王
様状態でお金と言う道具が人の評価まで変えてしまうのである。何かを得るため
の道具が逆転して人の志、想いまでその多少で計られてくる。何もなくなって今も
四苦八苦の経済状態だがひたすらさっぽろを歩き廻っていた冬の2月3月4月は
特にそうだった。お金がどんどん入ってくる道具立て、そういう環境も知っていた
から機械ではないがそういう環境構造を切り捨てる生き方を選んだ自分に自覚
的であってもそれは自分の問題で決して他者はそんな風に見てくれる訳ではな
い。今現在の結果を先ず見るのだ。そしてそれはそれでひとつの正解なのだ。
ただお金は軽んずる物では決してないけれど、道具は道具でありその道具立てと
いう社会構造が機械のように化けて大きな逆転をしてこちらの心の身体さえも獲り
こむようになったらそれもひとつの構造的貧困死だと思う。お金がない貧困死もい
やだけれどこちらも嫌だね。中川さんの松笠のようになった傷跡を見ながら思った
こと、道具と機械の違いが痛々しく連想した事である。
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# by kakiten | 2006-07-27 16:48 | Comments(0)
2006年 07月 26日

ナウシカの木ー界を生きる(30)

四、五日前に来て二階吹き抜けのベンチがすっかりお気に入りの真下沙恵子さ
んが村岸さんの留守中待つている間今日もベンチでお昼寝をしていた。風が通り
ポカポカと暖かな陽射しのなかうつ伏せになって眠っている姿は下から見上げる
と円山のようだった。そのうち土田彩織さんが来た。彼女は医大の学生で感受性
豊かな人である。吹き抜けの円山に気づき静かに会場で話もせずゆっくりと座っ
ていた。小1時間ほどして帰った後彼女が書いた芳名録の感想を見てああと思っ
た。<ナウシカの「フカイ」の地下の美しい水を浄化している木を想い出しました、
耳を傾けると心に水がしみわたってくる気がしました。>そうだよなあ。あのフカイ
の下で必死で荒廃した世界を浄化している木の根たち。その近未来的な映像は
今も何処かで悲鳴のようにこの地球の地下で日常的に繰り返されている光景な
のかもしれないから。そう思って夜、床に寝っ転がって仰向けになって見てみた。
絹糸で吊られた筒型の金属の鳴子竹の鳴子が揺らめき、木の幹が立つて見る
時とは違って天に浮いている。暗い上部に本来の立ち姿のように立っている。絹
糸の線が水の滴りのように尾を引いて筒状の鳴子が水滴のようだった。夕刻午
後の光の中で昼寝をしていた真下さん、下から見上げナウシカの「フカイ」を感じ
取った土田さんと若い女性たちの深い豊かな感受性には脱帽である。後刻村岸
さんと話したが男性陣は概してこの木は何処から持って来たか、音はどういう装
置で出てくるのかといった探求する質問や捉え方が多く、女性たちはもっとすっと
作品と同化しそこからの感想や行動が直接的なのだ。この両方の感性を持った
時人は初めて人間という本質的存在に至るのだろう。男女という現象がトランスペ
アレントし人という本質的存在に至るまでその過程が生きるという行為そのもので
あるのかもしれない。
今日はフアイバーアートの作家田村陽子さんが来て村岸さんの足型を取っている。
踝から下の素足を太目の藁のような糸で編んでいるのだ。写真で見せて頂いた
門馬ギヤラリーでした彼女の個展は足型が会場の細長い空間の壁にベンチの
ように並びキノコの森のようだった。なにかこの直接性具体性そしてその抽象力
女性たちはすごいなあと思う。
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# by kakiten | 2006-07-26 13:19 | Comments(2)
2006年 07月 25日

来る人、来ない人ー界を生きる(29)

定休日溜まっている色んな事あってギヤラリーに出る。留守録音ある。九州の阿部
守さんからだ。程なくまた電話が鳴り阿部さんだった。9月の個展の打ち合わせで
13日来廊の事と会場の広さ等の問い合わせが主な用事だった。阿部さんは5月
プレオープンの時ニユージーランドの銘酒ラフロイグをお祝いに送ってくれ、同時に
新作のカタログも併せて送ってくれた。「火焔鉄」というタイトルで彼の鉄の作品を陶
芸の窯で炎に晒し再焼成した過程を記録したものである。彼が3年前のテンポラリ
ースペースの個展で「もう一度鉄という素材そのものと向き合う」と言っていた事を
思い出した。さらに彼は作品を炎にかけ、鉄その物の出生にまで遡ろうとしている
ように思える。阿部さんのこの極めてラデイカルな方向性は素材そのものからもう
一度自分の作品を見直していこうとする真摯な姿勢から来ているのだ。現在福岡
教育大学で美術の教鞭をとりながらも北への熱い想いは今も変らずあって9月の
滞在制作は彼にとってとても大切な事である。今回は川と水をテーマにするという。
思えば遠い近いに関りなく遠くても来る人は来るし近くても来ない人は来ない。その
差は何処から来るのか個別な問題もあって一概には言えないが詰まるところは問
題意識の差、共有する意識の現場の違いとでも言えるのかもしれない。以前の空
間との違いから来なくなる人もいるし関係なくさっぽろを第一義に真っ直ぐ来てくれ
る人もいる。私にしても作家の大事な転換点に今回立ち会う事が出来ればこの場
所を立ち上げた労苦も報われるのである。前のスペースでは出来たが今の場では
できないなどと決して言わせはしない。

*28日(金)まで。村岸宏昭展「木は水を運んでいる」
*28日午後7時から村岸宏昭コンサート
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# by kakiten | 2006-07-25 15:13 | Comments(0)