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2011年 07月 31日

果実・その後ー弓張月(12)

昨日「ふたつの果実」をブログに打ち込んですぐ、有山さんからコメントがある。
そして夕方居酒屋「ゆかり:の宇田川洋さんが来て、その後にドーナツ持参で
有山さんが来る。珈琲を淹れていると、音もなく山田航さんが入って来た。
満面笑みの有山さんは、余程先日の円山北町コンサートに私が行った事と
その感想が嬉しかったと思える。
山田さんはこの日行けなかった事を詫びていた。
それから有山さん持参のアフリカ・セネガル共和国の民族打楽器のヴィデオ
を見た。女性たちが杵で穀物を打つ行為から発したというこの打楽器の音は、
全身を使った、正に五体五感の音楽である。
音楽はリズムだ、自然の中には、至る所にそのリズムがある。
そう主張し、やがて女性たちも含めた大編成の打楽器演奏団が組織される。
そして最後はそのフランス公演で熱狂的な聴衆の拍手を受け終わる。
ドラム奏者である有山さんは、きっとこの打楽器の原点ともいうべきこの
自然と労働と祈りの打楽器誕生の映像を、見て欲しかったに違いない。
私は映像の中で太鼓のリズムと共に躍動する人間の肌・衣装・風土の
一体感に感動していた。
先日福島から五感で捉えられない計測航行のような毎日という話を聞いた
ばかりだったので、なお一層この五体五感の躍動するリズムの音に感動
した。リズムが体の内外と呼応し湧き起こり、その頂点の音は天からのもの、
五感を超えたものとなるという意味のメッセージがあったが、これこそが
五体五感の一体化の上にファインとして顕われる、第六感ならぬ第六体・
作品といいい得るものと思われた。
ファインアートならぬファインサウンドである。
このファインなる世界は、五体五感の白熱する界(さかい)に立ち現れる。
穀物を臼に杵で打つ、その日常の労働の体のリズムが白熱して、
リズムとして音楽として自立していく。
それがファイン・サウンド・音楽になる。
その結晶過程が、この記録映像には定着されていた気がする。
五感が消え、やがて五体が蝕まれるような文明社会とは、一体何なのか。
ファインといい得る芸術・音楽・詩・・これら文化の根幹には、必ずこの日常的
な五体五感がベースにある事を、あらためて思い至ったのである。

数字の量のみが踊る計測社会。
それは被爆地の放射能測定だけの話ではない。
五体五感に関係なく、数字の計測が私たちの生きる社会の尺度にある。
その意味では私たちは、日々日常を計測航行する社会環境に生きている。
五体五感を少しづつ蝕まれるように。

*「海に沿って」-7月26日(火)-8月14日(日)am11時ーpm7時
 月曜定休。
*及川恒平フォークライブ「まだあたたかい悲しみー其のⅣ」
 8月21日(日)午後5時半~予約2500円当日3000円。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2011-07-31 13:09 | Comments(0)
2011年 07月 30日

ふたつの果実ー弓張月(11)

午後も大分過ぎた時間、ゆうパックが届く。
沖縄のさとまんさんからだった。
チルドと印刷されたその小荷物は、触ると冷たく少し濡れていた。
午後2時から4時までの時間指定である。
中を開けると真っ赤に熟れたマンゴーだ。
思わず見惚れて手にとり、冷えた果実に包丁を入れ一片口にする。
美味い!こんなのは初めてである。
甘い南国の香りが漂い、口の中を甘味が駆ける。
午後の一番蒸し暑い時、この時間を指定して届いた冷えたマンゴー。
さとまんさんの心が篭もった贈り物に、感激する。
その後ちょうど見えた山里稔さん、有山睦さんにも食してもらう。
なんと良い時に・・と、ふたりは歓声を上げる。
程良く冷えた南の真っ赤な甘い果実を口に、声もない。
ちょうど来合わせたふたり。
これも今は亡きMの繋ぐ縁か・・と、ふと思った。

そう思いさとまんさん、有山さんたちの演奏したMの遺作「撓む指は羽根」を
マンゴーを食べた後に3人で聞きました。
そしてMにも、あなたの心の篭もったマンゴーを供えたつもりです。
マンゴーサイコー!サンキュー!

真っ赤な南国の果実が、眼も舌も鼻も心も豊かに潤してくれた午後が過ぎ、
閉廊後円山北町にある某ライブハウスへと向かう。
この日は今村しずかさん、有山睦さん、井雲真里さん、佐竹まどかさんの
sheepsの演奏会でゲストに古館賢治さんを加えたライブがある。
是非にとお誘いを受けていたので、今回は重い腰を上げ伺う事にした。
何故腰が重かったかといえば、このライブハウスのある界隈には
個人的な想い出がたくさん詰まっているからである。
「燃える街角 器の浪漫」と旗を掲げて、現在のテンポラリーの前身が
在った界隈だからである。
もうすぐ6回忌の来るMと出会ったのも、この界隈にいた時だった。
苦い記憶のあるこの地域を去って、その後特に夜訪れる事はなかった。
特に馴染んだ居酒屋やライブハウスは避けていたともいえる。
そのライブハウスも経営者が変わり店名も変わっていたが、
地下の店内は変わらずそのままであった。
懐かしさと同時にこの界隈で過ごした遠い記憶がすっと駆けめぐった。
この日のライブは井雲さんのヴォーカルが主役で、曲は今村しずかさん
のオリジナルがメインであった。
今回グスト出演の古館賢治さんとも久し振りで挨拶を交わしふと見ると、
同じテンポラリーのTシャツを着ているのに気付いた。
これでどこかそれまで引き篭もっていた気持がすっと消えて、楽になる。
演奏が始まり、初めて聞く井雲さんの声の張りに驚く。
声の中心に芯がある。
パーンと外へ向かう、直向(ひたむき)な快い強さがある。
聞いている内に熱く溶けるような、真っ赤な果実が心に転がるような気がした。
この時、来て良かった・・と思っていた。
来て良かった、の前に小さく小文字の<i>を置きたい気がした。
生きて良かった、そう唄の心が呟いていた気がする。
自分自身の辛い思い出が詰まるこの界隈。
どこか避けていた場所に来て、<来て良かった>と思わせてくれたのは
この唄の力である。
だから<来て>の前に小さく息を吐くように<i>が入ったと思える。
<ikiteyokatuta>
今村さんの曲もまた、そうした心深い曲である。
私は私の個人的な思いで閉じていたひとつの場とこうして、もう一度心開く
勇気の果実を頂いた気がする。

沖縄から届いた真っ赤なマンゴーと夜の円山北町で聞いた真っ赤な唄声。
この五感に響いたふたつの果実に深く感謝する一日だった。

*「海に沿って」-7月26日(火)-8月14日(日)am11時ーpm7時
 月曜定休。
*及川恒平フォークライブ「まだあたたかい悲しみー其のⅣ」
 8月21日(日)午後5時半~予約2500円当日3000円。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-07-30 12:04 | Comments(2)
2011年 07月 29日

見えない現場ー弓張月(10)

五体五感が直接触れる環境のリアルさ。
森の中、山の中、海の傍にいると、普段眠っているこれらの感覚が
目覚めてくる。
身体と外界との相違が時に新鮮で、時に驚きでもあり、時に畏敬の念をも
与える。
私がそんな自然との触れ合いを最初に経験したのは、夏の南暑寒別岳山行
だった記憶がある。
広い湿原と植物たち、空と水と一体になった天空の別世界。
そして自然の大きさに畏怖したのは、冬山での真っ白で真っ青な天地にひとり
となった時だった。
自分の大きさを計測する物差しがすべて消えて、目の前の自分の腕・足だけ
しかなかったからだ。
遠近感も狂い、遠い筈の大きな山が近くなり、等身大の基準が消失した。
尾根に私を探す友の人影が見えた時、急に世界は身体の秩序を回復した。
この時人間の大きさを基準にした環境に慣れきっていた自分に気付いたのだ。
大きな困難に直面した時信ずるに足るのは、この五体五感の保つリアルから
発した現場の人間の行為である。その行為には、心打たれる事が多い。
大津波による泥濘に塗れた被災地の写真を洗浄するイチゴ農家の人の話。
塩害の大地に生き残った一本の松を守ろうとする人の話。
あるいは中国の高速鉄道事故で上からの終結の指示に抗い、捜索を続けて
2歳の女の子を発見した現場の判断。
これらはみなそれぞれの現場の人たちの五体五感が生んだ、意思的行為
と思う。
第一線の現場の感覚、リアルさを喪失した時、人間は時として観念的怪物に
なり得る。
五体五感を他の増幅機能に置き換えて代行する時、何かがずれてくる。
そのズレがさらなる拡幅増大する構造を、人は時としてあたかも文明の進歩、
権力構造のように盲信するのではないだろうか。
<より大きく、より早く、より豊かに>の社会構造が、等身大のリアルさを喪失
させ、第一線の現場感覚を麻痺させていく。
そうした社会構造の逆に位置する話が、先にあげたような困難な環境の中で
の極めて人間的行為の逸話であると思える。

福島県の川村龍俊さんから届いた第三信の中にそんな現場の五体五感すら
喪失するような現状が語られていた。
大震災当初の現実の作業の中で感じていたリアルさが何とか落ち着いてきた今
新たに放射線との戦いがあり、

 五感がすべて使えないという現実にこの身体がまるで潜水艦や宇宙船の様に
 計器航行をしているような妙な感覚

と記してある。
目に見える風景は昨年と少しも変わらず、しかしその風景は<絵に描いた餅>
で、正に食べられない、どころか食べてはいけない餅である。
ここには放射能汚染という、究極の現場喪失・五体五感の喪失がある。
人類の進歩と発展と信じられてきた、五体五感の部分的増幅装置・文明の
インフラが、電気的機械の増幅でありそれを支える社会構造であるものが、
ついには等身大の五体五感をも超え、計器航行へと現場が透明化し空洞化
してきている現実がある。
<これは決して第六感などでは無い。>
と、五感の通じない現実を川村さんは書く。
我々は多くの困難に立ち向かう現場の人の等身大の第一線のリアリテイを
まるで宝石のように美しく、心打たれて見聞してきたが、その立ち向かう現場
から等身大のリアリテイが消去される現在を迎えている。
そういえば、以前見たNHKスペシアル「飯館村」の最後のシーンは、計測器を
持った白い防御服の人が、無人の緑濃い風景の中で放射能を計測している
シーンだった。
<五感がすべて使えないという現実>とは、現場という位相からの五感の
喪失という事である。
そしてその後には身体という五体の喪失が来る。
山や海や野から五体五感の解放の喜びが喪われたら、人間はもう人間
ではない。
学校のグランドで土に手を付けずにスタートダッシュを練習する学童の姿
が放映されているのを見た時、それはもう現実の生活の一部だと知る。

*「海に沿って」展ー7月26日(火)-8月14日(日)am11時ーpm7時
 月曜定休。
*及川恒平フォークライブ「まだあたたかい悲しみー其のⅣ」
 8月21日(日)午後5時半~予約2500円当日3000円。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-07-29 15:46 | Comments(0)
2011年 07月 28日

ふたつの力ー弓張月(9)

中国の高速鉄道衝突事故で、事故撤去後見つかった2歳の子供の事が
報じられていた。現場の強い意志で当局の事故終了宣言後も続けられた
捜索で見つかったという。
両親は亡くなったが、幼い子供はその事実を知らず、看護士の人を親と
思っているそうだ。
もうひとつは日本で今回の大震災・大津波により全滅した海岸の松林原
に一本だけ奇跡的に残った松の樹を懸命に塩害から守っている人たち
の報道があった。
たまたま保存されていた松の実も別の場所で栽培し苗木にして育てている
という。いつの日か、美しい松原の再生を願う話である。
残された一本の松の樹。残された2歳の子供。
どちらも大きな力の犠牲者である。
一方は高速鉄道という機械的増幅に、国家という権力構造が絡んだ人為的
巨大事故。
一方は大津波という人間の力を超えた巨大災害。
また同時期に起きた北欧の無差別テロは、国粋主義的動機に基づく
銃器による大量殺人である。
人間は時として、大津波や大地震のような巨大観念のモンスターになる。
銃器や国家権力構造は、一個人をまるで大津波のように平気で飲み込む。
巨大国家の面子の為には、事故処理を人命救助を二の次にして早期収拾を
計る。
純粋国家主義の観念の為には、虫けらのように手当たり次第に人を殺す。
この傲慢な暴力的行為は、まるで人間が台風や地震・津波になったかのよう
にある。
この人間の尺度を超える超観念とでもいうべき、モンスター的暴力に対し、
生き残った一本の松の木のように、個の命の側からこの災厄的暴力と闘う
思想が真に生まれるのだろうか。
大きな力を蓄え、有し、その力を目的化し暴走する国家的権力構造は
産業経済構造にもシンクロして、中国の高速鉄道事業はあると思える。
北欧の個人による無差別テロも同じ国家意識構造による力の行使であると思う。
一本の松の命の連鎖による類としての広がり、その喪われた松原を再生する
試み・闘いの思想は、その根底において最もラデイカルに対国家・産業経済の
巨大化思想と対峙するものと思う。
残された一本の松、残された小さな命。
そこを基底として、これら人間の尺度を凌駕する巨大観念化モンスターを
原子力も同様に制御しなければならない。
大きな力と小さな力の対峙は、人間が手にした大きな増幅装置力と小さい
けれど人間尺度に基づく思想の力の対峙でもある。
文化・芸術の真の存在は、この対峙の切迫の一点にこそ在る。


*「海に沿って」展ー7月26日(火)-8月14日(日)am11時-pm7時
 月曜定休。:上野憲男「along out side of the sea」戸谷成雄「雷神」
 藤谷康晴「常温で狂乱・別篇」佐々木徹「ゴム布・ドローイング」佐佐木方斎
 「シーリングボード」藤倉翼「石狩 河口」アキタヒデキ「石狩新港・座礁船」
 +アンモナイト化石。
*及川恒平フォークライブ「まだあたたかい悲しみー其のⅣ」
 8月21日(日)午後5時半~予約2500円当日3000円。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-07-28 12:58 | Comments(0)
2011年 07月 27日

蒸し暑く・・-弓張月(8)

朝蒸し暑く、体の切れが悪い。
ずるずるとベッドから起き上がるのが遅れる。
そしてやっといつものように、エ~イと足を蹴り上げて反動をつけ起きる。
その前に朝何を食べるかを考える。
その食欲が足の反動の力を生む。
今日はトマトの酸味を想起した。
オリーブオイルと胡椒を塗し、冷えたやつ。
それに茹でたソーセージとフランスパン。
頂いた人参の甘辛キンピラ煮付。
熱い紅茶を砂糖抜きで、グビリ。
あっ、納豆もあった。
なんだか訳の分からぬおかずを考えている内に、
むくりと起き上がる気力が生まれる。
そこで足を上げ、反動をつけてベッドの外へ出る。
蒸し暑さは、昼頃雨になる。
屋根に久し振りに雨音が響き、それだけで涼しさ倍増。
雨が降る前に、少し遅れてギヤラリーに到着。
自転車を寄せていると、お茶のペッボトルが入り口脇に在る。
名刺が底にあって、Mさんからの差し入れだった。
近くに寄ったので置いていきます。お茶、とメモ。
汗に濡れた体に冷えたイエ~モンが、ぐびり、ぐびり。
感謝である。

大分体調が回復して、9割方回復か・・。
捻挫に始まり、風邪・胃弱・無気力と惨々な7月である。
映像作家の大木裕之さんが東北被災地を回るという。
天才大木裕之の優れた感性が、何を感じ、何を伝えてくれるか。
大きな転機となる予感もする。
その波動をいつの日か、私も小さく大きな呼吸として受け止めたい。
呼気と吸気の間、息を詰めて受け止めたい。
大木ギヤラリーと私ギヤラリーの交感。
いつの日かその交感空間は、展示という容(かたち)になる事を思う。

夕立のようなどしゃ降りが来た。

*「海に沿って」-7月26日(火)-8月14日(日)am11時ーpm7時
 月曜定休。
*及川恒平フォークライブ「まだあたたかい悲しみー其のⅣ」
 8月21日(日)午後5時半~予約2500円当日3000円。
*藤谷康晴展ー9月13日(火)-25日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-07-27 13:14 | Comments(0)
2011年 07月 26日

海に沿ってー弓張月(7)

予定した作家が順延になり、急遽収蔵品から「海」を主題に展示する。
やはり今回の大震災・原発事故の影響は、作家の作品制作過程にも
心の奥底で大きな影響を与えていると思える。
それがグループ展ではなく、個展であればなおの事、顕著である。
誰もが自分に今何が出来得るかと、問う現在がある。
特に普段の風景の中で日々進行している非日常。
それが日々新たな様相で現在進行形で現出しているからだ。
最近は食肉の問題が被爆地からはるか離れた場所に発生している。
見えない放射能汚染の忍び寄る影。
この影は、私たちの何の変哲も無い日常風景を視覚的にはそのままに
しながら、反転するネガ・非日常として現実を炙(あぶ)り出す。
見えない真実を表現しようとする作家たちが、先行する日常現実に実生活に
おいても、表現上においてもある焦燥感をもつとしたら、その事を批判する
事などとても今はできないと思える。
逆にそういう時だからこそ己の表現の根拠を見詰め、現実と自己との回路を
再構築すべき時と考える。
その立場は、画廊としても同じである。
展示する事で凝縮し放たれてゆく場は、ただ陳列するだけの空間・箱(box)
ではない。
作家とともに一種のトランス(函)空間として、共鳴し変化してゆく。
それが、temporary(一時の、仮の、しばらくの)空間が、con(ともに、全く)
としてconーtemporary(同時代)への志を共有するトランス(函)となる場へ
の意思なのだ。
画廊は、時に身体のようにして在る。
身体とは呼気と吸気の間を繋ぎ、生きる存在である。
人は、おぎやあ~と肺呼吸に切り替わる<呼気>で生まれ、息を引き取る
<吸気>で人生を終える。
小さな一瞬一瞬の呼気と吸気の間は、大きな生から死の間・人生でもある。
一時の空間はその小さな呼気吸気の間のように存在し、大きくはその呼気
吸気の間がひとつの人生であるように、ひとつの時代を生きる。
作家の展示とともに空間は束の間存在し、呼吸する。
その一時の時間は、小さな呼吸の時・身体の時間でもある筈なのだ。

今回展示の「海に沿って」は、上野憲男氏の作品「海の外側に沿って」
をメインにして、戸谷成雄の雷神一部、佐佐木方斎のシーリングボード、
佐々木徹のゴム布コラージュ、アキタヒデキの写真座礁船・石狩河口を
組み合わせ展示した。
上野憲男の優しい海の版画の周縁には、どうしてもあの被災地の津波の
海が重なる。
その心象を、それぞれ異なる時代の作家の所蔵作品を重ねて、現在を意思し
展示表現した積りである。
ここに縁あって収蔵品として残されたこれらの作品が、当初の展示とは別に、
新たなコンセプトで甦り、現在に発語する。
そのことを信じて展示した次第だ。

*「海に沿って」-7月26日(火)-8月14日(日)1m11時ーpm7時。
 月曜定休。
*及川恒平フォークライブ「まだあたたかい悲しみー其のⅣ」
 8月21日(日)午後5時半~予約2500円当日3000円。
*藤谷康晴展ー9月13日(火)-25日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-07-26 13:03 | Comments(0)
2011年 07月 24日

飯館村ー弓張月(6)

NHKのドキュメント「飯館村」を昨日見た。
美しい日本の故里そのもののような山村風景の中で、野菜畑が、水田が、
牛たちが次第に荒廃してゆく。
冬の白い風景から、山桜咲く春、緑滴る夏へと季節は移っていく。
だがそこに生きる人の表情は、時間の推移とともに、皺を深く刻み苦悩の色
を濃くさせていく。
背景の山村の美しい風景は一貫して変わらない。
放射能計測計の数字だけがその見えない悲劇の所在を伝える。
家族が離散し、村から次第に人の姿が消える。
自然に寄り添うように生きてきた人たちの川との別れ、里山との別れ、
祭りとの別れ、畑や牛との別れが、それぞれの固有の生活との別れとなって、
最後は無人の村の風景で終る。
津波や地震のように、被災が目に見えるわけではない。
何も変わらぬ自然の風景の中で、被災が進行してゆく。
ヒロシマ・ナガサキの被爆よりも、被爆が見えない分だけその非日常が
日常的である。
原子力発電という電気の日常性が、爆弾という戦争兵器核利用と電気という
生活核燃料の差異として、その被害風景を変えている。
しかし<核>が<核>である事に変わりはない。
人類史上初めて2度の核被害を受け、さらに今国家間の戦争というハードで
はなく、電気という文明のソフトで核被害を受けている。
ノーモアヒロシマ・ナガサキという非日常性から、飯館村に象徴される日常の
顔をした核被害。
核という巨大な魔力を通して、人はその欲望の悪無限的な増幅力を
「人間尺度」の観点から見直す根本的な次元に今いる、としか思われないのだ。
畑を耕し、米を植え、牛を飼い、祭りをし、子を育て、魚をとり、笑い、眠る。
そんな極めて人間的尺度を保っていた人々の村の名前が、飯の館の村という
のも、なんとも哀しいアイロニーではないか。

*「海に沿って」アーカイブスス展ー7月26日(火)-8月14日(日)
*及川恒平フォークライブ「まだあたたかい悲しみー其のⅣ」
 8月21日(日)午後5時半~予約2500円当日3000円。
*西田卓司展延期。
*藤谷康晴展ー9月13日(火)-25日(日)

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by kakiten | 2011-07-24 14:35 | Comments(0)
2011年 07月 23日

冗談を言える事ー弓張月(5)

先日のブログを読んで、当の本人からの感想が来た。
冗談で明るい笑いのお返しが来た事に、ある種の逞しさとしたたかを感じ
感じ入った次第である。

 ブログ拝読しました。私の書いた手紙がかくも立派な奉られ方をしているの
 を見て、いったいこの川村龍俊さんってどんな方だろうと思いました。(笑)
 いえ何か中森様にとっていいものを拾っていただけたのなら、それに尽きる
 喜びはありません。・・・・
 まあ月とか火星とかに移民第一号に選ばれたとでも仮定して、そこでの生活
 様式に入ったと考えれば、むしろかっこいいかも(笑)

他の多くの被災した人たちが、公的機関に関係なく県外の多くの著名人を招き、
活発な活動を持続している事も記されていた。
今も続く原発・震災・津波という困難な非日常を、月や火星への移民一号として
<かっこいいかも>と笑い飛ばし、私が引用した本人自身をどこの立派な人とし
て笑い飛ばすこの明るさは、正にそこで生きる当事者の真摯な直向(ひたむき)
からしか生まれない。
一方一見安全平和な日常の中で、日々愚図愚図と不満を湛えている自分の
優柔不断な胡散臭さを省みて、今改めて忸怩たる思いがするのである。
困難の大小を比較する時ではない。
困難に如何に立ち向かっているか、その行動を問うのだ。
状況論に振り回されず、個的困難を闘え、そして笑い飛ばせ。
あらためて自らを省みて、感じ入った次第である。
不機嫌な胃腸よ、まだ絶えぬ咳よ、高めの血圧よ、
しょぼつく眼よ、ひび割れた声帯よ、
こんにゃろ~う!

*「海に沿って」アーカイブス展ー7月26日(火)-8月7日(日)
 :上野憲男・戸谷成雄・佐佐木方斎・アキタヒデキ外。
*西田卓司展ー予定
*及川恒平フォークライブ「まだあたたかい悲しみー其のⅣ」
 8月21日(日)午後5時半~予約2500円当日3000円。

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by kakiten | 2011-07-23 17:08 | Comments(0)
2011年 07月 22日

撫子の事ー弓張月(4)

植物に詳しいK氏からメールがある。
昨日書いた撫子(なでしこ)は正式名称をカワラナデシコといい、
北海道にもあるそうだ。北海道ではエゾカワラナデシコが正式名称と
いう。そう聞いて植物図鑑を調べると確かに載っていた。
普通の辞典には「なでしこ」で載っていて、カワラもエゾも付いていない。
エゾやカワラは学名という事だろうか。
野草にエゾが付く植物が多いのは知っていた。
エゾエンゴサク、エゾニュウ、エゾマツ等々、本州のものと比べて
全体に大きいのが、エゾと付く特色であると聞いた事がある。
反対にヒメが付くと全体に小さいものが多いと聞く。
そうするとさしずめ、スイーツ・アートの方は、織姫たちという事なので、
エゾではなく、小振りのヒメ系ということになる。
気候・風土によって同じ植生でも、その形態が違う。
蕗などはその代表的な例で、大体が北海道の蕗は本州のものに比べて
大きいのである。ラワン蕗は例外としても全体に大ぶりである。
逆に竹の子は、こちらでは笹竹の子が主で小さく細い。
植物や昆虫は風土に適応して生きているが、人間は必ずしもその点で正直
ではない。
現代の都市は特にそういう傾向にある。
本来風土は、そこに住む人間にも影響を与えて、芸術にも民芸として独自に
発達していたが、電気的増幅の情報社会では、そこに風土の影響は寡少に
なってきている。
それは流通の利便性も生むが、同時に物の画一化も増幅している。
それを風景としてみれば、街の佇まいが何処も同じ顔をしているのが現代の
都市である。
そこに固有の街の佇まい・香りが消えてきている。
文化とは固有の風土を土壌として生まれるのが、王道と思うが、
スイーツ・アートのような位相には、この固有性は消えてどこでも共通の
甘い生クリームのような香りがする。
一般的受けを狙い、それを芸術の本質的普遍性へとスライドする。
そこで言えることは、筍と笹竹の子とは植生と風土の相違という前提を
無視して、美食で括る流通の安直性である。
これは作り手、生産者の側の意識ではない。あくまで流通の利便性に
基づく意識だ。
なでしこにしても、これも植生というよりはある形容詞の流通として
冠された流通語でもあるのだろう。
男はサムライジャパン、女はナデシコジャパンで、かってのフジヤマ・
ゲイシャと似たようなものである。
流通言語として言葉もスイーツのように個々の固有の風土を離れて、
ひとり歩きをしていく。
それも言語が保つ流通の側面だろうが、それとはまた別次元で固有の
ものを追求していくのが、真の文化の源泉であり真摯さである。
従ってなでしこが正式にはカワラナデシコであり、北海道ではエゾカワラ
ナデシコであるという固有性の厳密化に、学問や文化の基盤がある。
多分その相違が、植物辞典には「ナデシコ」では載らず、普通の言語
辞典では、ただの<なでしこ>で載る根拠と思う。
職人という芸(アート)の特化・専門化が、芸術(ファインアート)を生む
ように、芸術家も本来その個々の固有性の特化にこそ価値が生まれる。
決して<スイーツ>美食一般や、<なでしこ>美化一般で自己満足し
て良い筈が無い。

*「海に沿って」アーカイブス展ー7月26日(火)-8月7日(日)
 am11時ーpm7時。:戸谷成雄・佐佐木方斎・上野憲男・佐々木徹外。
*西田卓司展ー予定
*及川恒平フォークライブ「まだあたたかい悲しみー其のⅣ」
 8月21日(日)午後5時半~予約2500円当日3000円。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2011-07-22 14:26 | Comments(0)
2011年 07月 21日

なでしこアートー弓張月(3)

なでしこジャパンが世界一になった。
PK戦前の笑顔が良かった。
これまで一度も勝った事の無いアメリカ戦。
その国との決勝戦のさらなる最終PK戦。
本当にぎりぎりの際(きわ)の戦い。
そんなぎりぎりの時に出た笑顔は、澄んでいた。
サッカーはスポーツだが、これもある意味で第一次産業的である。
勝負という自然の運命と向き合う。
今回の大震災でみる第一次産業の人たちの凛々しさに似ている。
荒々しい台風の中心に静謐な台風の目があるように、荒れ狂う炎にも中心に
も、白熱した火芯がある。
多分濁流にもその中心には、澄んだ水深がある。
先日届いた福島の川村龍俊さんの文章の中にも、そんな澄んだ言葉が
きらりと光っていた。
川村さんは第一次産業に従事している方ではないのだが、この大災厄
と正面から向き合っている時、自然と第一次産業の人やスポーツの世界
の人たちと同じように、心の芯が澄んでいる。

 新しく何かを創ることは、まだやりたくないし、泣くに泣けない。
 泣いても何も変わらないし、始らない。
 ・・・・助けて欲しいけど、ほっといても欲しい。
 過剰な情報の中では、基準を見つけられないでいます。
 自分のそれまでの歴史以外には。
                      (平成23年5月6日 福島県須賀川市にて)

<自分のそれまでの歴史>を基準にする時とは、素裸の自分と目の前の現実
が何も介せず向き合う時である。
この瞬間とは、スポーツの勝負の瞬間に似ている。
あるいは第一次産業の人たちが、自然の中で生活する現実との向き合い方に
も通じていると思えるのだ。
この個に貫流し透徹する軸芯こそが、澄んだ眼を感じさせる基底と思える。
真にラデイカルな精神の在り様が、大きな困難の前でこそ光を発している。
この光の発する処は人間が深い精神的な生き物である事の証であり、同時に
その光の発する精神こそが、本来芸術・文化の根源的フィールド・源泉でも
あると思う。
ファイン・アート(芸術)が<ファイン>足る所以である。
昨今このファインを喪失したアートが蔓延しているのは、<自分のそれまで
の歴史>以外の他の基準に依存している現状が多いからではないのか。
なでしこという秋の七草に数えられる野草は、北海道の植物図鑑には載って
いない。きっと本州の野草なのだろう。
その所為か北海道の女性たちは、なでしこと呼ばれず<楽しい現代美術
入門ー織姫たちのスイーツ・アート>と、呼ばれているらしい。

 夏の日のひととき、織姫たちが心を込めた、眼にもおいしいアートの数々、
 どうぞ心ゆくまでお召しあがり下さい。
                    (織姫たちのスイーツ・アート展案内文から)

この織姫13人に比し、なでしこ11人の方が余程ラデイカルで、ファイン
ではないのか。
<自分のそれまでの歴史>ともっと向き合い、個として透徹して欲しい。
スイーツや姫などと、自分以外の緩い<基準>に甘える事無くで、ある。

*西田卓司展ー次回予定
*及川恒平フォークライブ「まだあたたかい悲しみー其のⅣ」
 8月21日(日)午後5時半~予約2500円当日3000円。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
                      
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by kakiten | 2011-07-21 12:40 | Comments(0)