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2010年 06月 30日

汗と泥のボールー木霊(こだま)する(25)

0対0で最後はPK戦だった。
昨夜のワールドカップ、日本対パラグアイ戦である。
最後は送り手と受け手ふたりだけの究極の構造となる。
純粋抽象となったボールが、美しい孤を描く。
ボール自体はただの球であるのだが、このボールが飛ぶ状況総体に
人は心を踊らす。
勿論これはスポーツだから、そこには勝ち負けの結果がその球の行方に
待ち受けている。
勝負という劇によって、球はただの球ではない。
球はこの劇を支える人間の情念によって、ただの球ではなく
純粋抽象そのものともなるのだ。
物流の経済価値に置き換えれば、この球は何でも鑑定団的にいえば、
高額な貨幣価値の物にもなるだろう。
その経済価値を吊り上げる要因は、この劇的な人間のスポーツドラマ状況が
付加価値となる。
球自体がいかに職人技の技術を凝らした優れた物であっても、球自体は
あくまで球でしかない。
問題は球自体が美化され、いわば球至上主義化した場合、肝心の送り手と
受け手のドラマの土壌を喪失する事である。
ただの一個の球が俗的には高値を呼んだり、ただの一個の球が美至上主義
でそのもの自体を美化したりする高踏的工藝と化する場合もある。
本質はこの球が純粋抽象と化して、送り手と受け手の磁場、その現場そのもの
を凝縮する結晶化にある。
人間の一番純粋な行為、自己と他者の間を繋ぐ象徴が
この一個の球に凝縮された事である。
この時この一個の球とは、非常に芸術作品の在り様に似ている。
しかし球それ自体を持ち上げ固定化する事は、ある種の芸術至上主義という
陥穽に陥る事でもある。
そこにあの厄介な美という概念が纏いつく。
問題は芸術・美術作品の産まれる現場が、スポーツのように単純化された
現場の様相を保ってはいないという事だ。
生きる日常という現場はもっともっと多様で多種な状況の中に在る。
しかし究極のところは、送り手と受け手の織り成す同時代というグランド
での出来事であるのだ。
その同時代のグランドを忘却して、球という純粋抽象もまた存在しない
のである
美術家・芸術家は球の工藝職人ではない。
工藝を下に見るという事では勿論なく、そのボールのドラマを生きるのが
同時代と呼ぶに相応しい芸術と言いたいだけである。
昨夜のワールドカップを見て、球の工藝的美しさに感動した訳ではなく、
その球の行方に受け手と送り手の間に広がる世界、その磁場の象徴に
球が存在した事を言いたいのだ。
あのボールはきっと選手たちの汗と泥にまみれていたはずだからである。
球はガラスケースに囲繞されピカピカに存在した訳ではない。
一個の球をある特権的存在にしたのは、無名の多くの送り手と受け手の
息を飲むような同時の呼吸の磁場の存在が、汗と泥だらけの球をして
球を囲繞し輝かせたからだ。


*写真家集団三角展「パラダイムシフト」-7月4日(日)まで。
 am11時ーpm7時。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2010-06-30 13:34 | Comments(0)
2010年 06月 29日

真摯なる過剰さー木霊(こだま)する(24)

最初見落としていた。
正面の左壁上に鴨居の跡があり、その裏側に石狩浜で座礁したヴェトナム船
の写真が隠されて展示されていた。
アキタヒデキさんの作品である。
横幅1m強、縦幅30cm程のこの作品は、左手壁の冬の石狩と
対をなすようにある。
なんとも心憎い展示で、正面から見ただけでは見過ごしてしまうものである。
正面の壁一面を埋めているヴェトナム放浪の写真に呼応するかのような、
この座礁した船とは、隠されたアキタヒデキの心の在り処でもあるのだろうか。

3人が3人に共通して私が感じるものとは、それぞれの内なる過剰性とでもいう
べきものである。
その心の突出した過剰性を一見前面に出して、その中で孤独を見据える
アキタヒデキの世界は、時としてそっと座礁した船のようにシャイである。
また都市の川を見据えるメタ佐藤の世界は、モノクロームで静謐でありながら、
息を溜めて境界を凝視する熱い過剰性を保つ。
日常を幻視化し、夢の記憶の一片のようにピンで留められた竹本英樹の
作品は、日常現象に対して非日常への過剰なる思い入れが窺える。
円ではなく、この3人展が三角として措定され企画されたのは、
それぞれの突出する過剰さゆえであると思う。
円(まる)ではなく、3人が3様であるゆえの三角なのだ。

会場竹本英樹さんの作品に異常が発生。
誰かが触ったのか、落としたのか、虫ピン4つで浮いて固定された作品に
皺のようなものがある。
生フイルムのような柔らかな表面が歪んでいるのだ。
日曜日朝少し遅れて会場に着くと、アキタさんも竹本さんも来ていた。
竹本さんはかなりショックだったようで、私が2階に上がり降りるともう
作品を撤収して帰った後だった。
その後連絡し、後から会場でも話したが、代替えの作品はもうなく、
同じ作品のファイルだけを展示し、再度の展示はしないという事だった。
繊細な作品でもあり、繊細な展示である。
展示としては残念ながら3人揃わず、二角展のように今週はなる。
止むを得ない事とはいえ、この出来事もまた真摯なる過剰さゆえでもある。

*写真家集団三角展「パラダイムシフト」-7月4日(日)まで。
 am11時ーpm7時

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2010-06-29 14:25 | Comments(3)
2010年 06月 27日

メタ佐藤の場合ー木霊(こだま)する(23)

メタ佐藤さんの映し出す世界は、都市の皮膜、粘膜のように見える。
都会の間を流れる川面のアップ。道路を繋ぐ橋の風景。
隙間なく物たちが行き交い、埋め立てられた都市を縫うように
流れている澱んだ水、川面。
そこをモノクロームな画像が、見据えるように切り取る。
もうあの渓流の清冽な勢いも、透明感もない。
空を地を直線で切り裂く構造物。
その間をすえたような、澱んだ水の面がある。
しかしそこだけにリンパ液のように、粘膜のぬめりのように
たゆたうものがある。
そこをじっと見詰める。
 
 橋は彼岸と此岸を媒介する。
 二つの間にある深遠な流れは、
 自己と他者の間にある境界のメタフアーである。

と、メタ佐藤は記しているが、ここでいう<境界>への意識こそが
彼の主要なる表現の関心事であるのだろう。
都市の内を流れる排水路のようにも見える、荒んだ水面。
もうあの渓流の透明な勢いもなく、川音すら聞こえない。
しかし音もなく、勢いもなく、澱みながらも、流れは存在する。
そのぬるっとした有機的な肌を、橋とビル群との対比において
作家は感傷を排してただじっと見据える。
アキタヒデキの過剰さの中の孤独、竹本英樹の夢幻なる浪漫への過剰さ
に比し、メタ佐藤の保つ世界はむしろ禁欲的とさえみえる静謐の世界である。
都市を媒介にして、他(者)は他(社)としてあるような、
個を喪失した関係性から<自己と他者の間にある境界>を、
内側から回復せんとする想いが、この静謐の内側に熱く息を潜め、
深く息を溜め込むようにして潜在している。
一見クールでモノクロームな被写体の内には、
そんな息を凝らしたメタ佐藤の熱い凝視があると思える。
その意味でメタ佐藤もまた、凝視する事において
過剰なる人である。

*写真家集団三角展「パラダイムシフト」-6月22日(火)-7月4日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休・休廊。
 :竹本英樹・メタ佐藤・アキタヒデキ、3人による企画・写真展。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2010-06-27 14:16 | Comments(0)
2010年 06月 26日

竹本英樹の場合ー木霊(こだま)する(22)

アキタヒデキさんの場合とは対照的な展示であり、画像である。
会場正面上下に4点づつ、計8点の作品が並ぶ。
細いピンで留められた画像も、それを支えるくすんだような白い板も
すべてが繊細である。
8ミリフイルムから直接定着したような、動きある日常風景のひとコマが、
淡いブルーやピンクの色調をベースに、夢の中のワンシーンのように
留まっている。
具体的な日常の動きがその具象性を消して、美しい抽象の世界へ転化する。
そんな一瞬の動きを捉える写真家の目は、幻化というリアルと正反対の
過剰さに満ちている。
多分被写体となった翳像は、普段の何気ない公園の家族の姿だったり、
愛猫の一瞬の飛躍だったりする。
それらがみな翳のように定着され、夢の中の出来事のように留まっている。
アキタヒデキの過剰なる構成とは正反対の過剰が、竹本英樹の世界には
あって、この人の日常を浪漫化する夢見る視線は、永遠の憧憬のような
ある種少年の眼線があるのかも知れない。
しかし写真の構図自体は、がっちりと真正面から被写体を見据え、
浮ついた視座ではない。
画像の保つ少年のある種の憧憬性と同時に、構図から見て取れるものは、
がっちりとしたリアルな骨太さも併せ持っているのだ。
展示の保つある種の古典的な端整さ、どこかレトロな全体構成は、
夢が夢である限りすぐさま脆く壊れやすく消え去る存在である事を
充分に意識し、それゆえある種の囲繞地を必要とする意識から必然的に
成されていると思える。
この一見レトロと思える仕上げには、そうした作家自身の隠されたリアルな
現実意識が固いガードのようにあるからであろう。
最終的にはヨーロッパでの個展を夢見ているという作者の思いは、
このガードの究極の場所でもあるのかも知れない。
アキタヒデキがヴェトナムへの旅の後、自らの生まれ生きている風土の根を
求めるように石狩河口の風景に触れ、そこで座礁した船を自らの姿のように
記録した視線とは、対極にある視座である。
夢のガード、夢の囲繞地。
現実の幻化への希求が、裏返された現実意識として竹本英樹の現在への
視軸にはあるようだ。

*写真家集団三角展「パラダイムシフト」-6月22日(火)-7月4日(日)
 am11時ーpm7時:月余定休・休廊。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2010-06-26 12:27 | Comments(0)
2010年 06月 25日

見まいと思ったのだー木霊(こだま)する(21)

夜半目が覚める。時計を見ると午前3時。もう一度目をつむる。
何かが頭の奥で囁く。
聞こえないようにして、固く目をつむり寝る事に専念する。
トイレに行きたくなる。起きる。
こいつが文字通り、呼び水(?)となる。
ついにTVを点ける。
という訳で、見るまいと決めていたワールドカップを見てしまった。
別にとりたてて、サッカーフアンという訳ではない。
ただ前試合1点差で頑張っていたのを見てしまったので、
どこか応援したい気持ちが、消せなくなっていたのだ。
3戦目は深夜だから、翌日ニュースで報道されるからいいやと、
思っていたのも事実である。
しかし結果を知って見るのと、ライブで見るのはやはり違う。
ゴールキーパーの川島が、一度はフリーキックを押さえ、
跳ね返ったボールをゴールされ、地面を叩いて口惜しがる姿が良かった。
スポーツには、このシンプルな率直さがある。
ボールを発する者、受ける者。その展開が勝負として結果する。
人から人へと渉るボールの存在が無ければ、劇は成立しない。
この時ボールの存在は、純粋抽象そのものである。
人から発する存在だが、人から離れる存在である。
ボールは人を離れ、人に還る。
人が放ち、人が受ける。
その役割もまた、シンプルである。
ゴールキーパーとは、その典型的存在である。
受けに徹する。
その純粋に受ける姿が時に、最も攻める姿勢を鼓舞するのだ。
放つ者が守りの受けに入れば、勝負は負けに傾く。
また逆に受ける者が放つ者に加われば、ネットはがら空きになるだろう。
ボールという純粋抽象は、この役割の徹底があってこそ純粋足り得るのだ。
ボールをもし作品と置き換えれば、作家と受け手の関係性に置き換える事も
可能であると思いたい。
作家が放つ者であれば、当然作家はキーパーではない。
キーパーとは受ける者である。
そしてかつ、放つ者・作家を奮い立たせる受け手である。
芸術・文化の世界にも、このサッカーのスポーツ世界のような
シンプルで峻厳な原則が適用されなければいけない。
作品という感性のボールを、純粋抽象としてきちっと成立させる為にもである。

三角展個々の作品評を書き込もうとしていたが、サッカーで少し原則論的脇道。
あらためて受け手・キーパーとして、キックオフに備える。

*写真家集団三角展「パラダイムシフト」-6月22日(火)-7月4日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休・休廊。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2010-06-25 11:40 | Comments(0)
2010年 06月 24日

アキタヒデキの場合ー木霊(こだま)する(20)

アキタヒデキさんは、一昨年ここで個展を開いているが、
その際初めて試みたデジタルプリントの写真が好評を得て、
今回のふたりの写真家との出会いにもなったと聞く。
本人は平面作家だという位置付けで、写真家という呼称には照れがあるようだ。
個展の後ヴェトナム放浪の旅に出かけ、その際の写真が今回の多くを
占めている。
以前と変わった事は、人間の顔を撮るようになった事である。
従来は都市の風俗に波長を合わせたデザイン的な仕事が多かったが、
ヴェトナム以降そこの土地に生きる人間に惹かれ、それが主題ともなって
きたように思える。
今回ヴェトナムを素材とした作品の他に、正面左側奥に展示された3点は、
石狩川河口の冬の荒涼たる風景である。
一度都会を離れる事で、再度今自分が生活している場処の根を見詰める
視線軸がこの3点に顕われているようである。
それは都会という物流のグローバルな世界から、その場処固有の風景の根を
見ようとする視線と思える。
しかしながら、その視線の先が郷土的な固有性に閉じてゆくものでない事
は、彼の展示が壁一面を埋め立てるような量的展示方法に見て取る事が
できる。
この展示方法は、いわば都会の物流の在り方でもあるからだ。
ショップのパックビル群、支店支所のテナントビル群、商品の溢れる展示棚
群。これら都市の物流の集積と同じ構造だからである。
そうした都会の構造的方法をとりながらも、その被写体が保つ表情は、
決して華やかではなく、むしろ貧しく孤独なひとりの人間の姿であり、
顔である。
過剰さと孤独。孤独、孤立をそのものに単体で迫るのではなく、あくまで
過剰なるものの中において、見詰める。
その複眼的視軸こそが、今アキタヒデキの目指す表現世界であるだろう。
個が私的世界として閉じる事を拒否し、あくまで個の孤独を撮りながらも
過剰なる現代社会の文脈において定着したい。
そのラデイカルな現代意識こそが、作家としてのアキタヒデキの真摯な精神
性と私は思う。

*写真家集団三角展「パラダイムシフト」-6月22日(火)-7月4日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休・休廊。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2010-06-24 13:31 | Comments(0)
2010年 06月 23日

写真家集団三角展始るー木霊(こだま)する(19)

見事な展示になった。3人3様の位置がある。
1階正面は、竹本英樹さんの記憶の一瞬のような淡い断片。
左壁は、濃く過剰なる凝視、アキタヒデキさんの壁一面を覆う写真群。
2階吹き抜け回廊の壁には、静謐なモノクロームで擦り撮られた都市の
粘膜のようなメタ佐藤さんの作品。
3人の集団の意図は、

 私は蚊である。
 少数の側に立つことを求めてしまいながら、同時に人と関わりたい。
 孤高な表現を求めながら、同時に人と関わりたい。

創刊された写真誌「三角 shift・1」に載せられた言葉に集約されるだろう。
三角のそれぞれの先端は、それぞれであるまま関係性を保つ。
<孤(独)>から<個>として、如何に<非群(類)>たり得るか。
その志(こころざし)は、安直に”アート”で群れる昨今においては
希少なる硬派の姿勢といえるだろう。
三角どころかエセの円(まる)で括り上げ、地産地消などと産業経済
論理で群れて憚らない文化団体的集団より余程すっきりしている。
<私は蚊である。>と、
私という<個>を規準に宣言する位置は、ジャンルを被せて群れる姿勢
とは一線を画すものであるからだ。
しかしながら、個から発し類として関わる表現者の当然の論理を
敢えて掲げるところに、現在のアートずぶずぶの現状が透けても
見えてくる。
個として世界に撃って出るのではなく、群れて世間に交ざり混む。
そのパスポートが、”アート”という認知鑑札である。
そういう風潮に比して、この<三角>宣言は、はるかに個に徹して
世界と関わりを保とうという気概に溢れているのだ。

作品もそれぞれの個性表現が、アキタさんの過剰なる孤独、竹本さんの
淡い一瞬の浪漫性、メタ佐藤さんの都市の間隙に浮く粘膜、
のように表わされ、それぞれの孤高な日常が顕写されている。
そしてその三角の内側にどうしようもなく抱え込んで感じられるものは、
現代の貧困・孤独の在り様とでもいうべき視線であると思える。
ここには、声高らかに語られる何とかの表現とか、アートで何とかとか
いう合唱はない。
それぞれの内側から漏れてくる小さな声、うめきのようなため息のような
凝視のような、小さな内なる声のようなものである。
それぞれの眼の行き着く先の、漏れる声、微かなタッチ。
そこにしか共通の交錯する場はない。
合唱はないのである。
あるのは、呟きにも似た、わーっだったり、クスンだったり、じーっつと
だったりする。
声の発し方は違っても、その声の質は同質の同時代の音である。
その事がもし理解しあえれば、その認知の内側にこそ、
新たな同時代の三角<写場>は顕われてくるのかも知れない。

*写真家集団三角展「パラダイムシフト」-6月22日(火)-7月4日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休・休廊。
 
 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2010-06-23 14:36 | Comments(0)
2010年 06月 22日

小さな旅ー木霊(こだま)する(18)

4日間の短かな会期だったが、西牧浩一版画展は終日人の絶えぬ日々だった。
本人から<ひとつの旅のようでした>、とのコメントを頂く。
会場へは靴を脱いで上がる方式をとり、床に自由に触れられる版画も散らばし
、見る人は気ままに2階吹き抜けに上がって見下ろして床の作品を見たり、
さらに寝転がったりと、まるで呉服屋さんで着物を選ぶような感覚もあって
、こんな風に版画を見る経験はなかったのではないだろうか。
壁に固定し、しかめ面をして鑑賞するのではなく、さまざまなシチュエーシヨン
で、作品を鑑賞していた。
その所為かひとりひとりの滞在時間が長く、人の切れることはほとんど
なかった。
最終日は特にそうで、最後の最後搬出の時にもいい友人たちが
甲斐甲斐しく手伝っていた。
これはこの作家の人徳であり、同時にそれはそのまま作品が保つ暖かさと
優美さにも反映していた。
作品は正直である。初対面で千葉の野武士などと勝手に思い込んでいた
自分の不明を思うのだ。

明けて休廊日の昨日、今週から始る写真家の3人展展示の合間を縫って
建築家のA氏と約束の円山川トレッキングに出かける。
A氏の新しい家はこの川の源流域に建てられたのだが、その場所まで
円山北町から遡上して歩く約束だったのだ。
西28丁目地下鉄駅で待ち合わせ、旧界川沿いに歩く。
途中川俣正のテトラハウスプロジェクトの現場を抜け、マンシヨン街の
小路を抜け川跡を進む。
昔の墓参道の真っ直ぐな道から、墓地を一直線に切り裂いた環状線を
渡り、すっと円山原始林に入った。
空気が一変して濃い緑の森の匂いに包まれる。
そこから円山川を遡り、途中の天然林にある桂の古木にA氏は、
思わず感嘆の声を上げる。
こんな樹は見たことがないと言う.。
さらにどんどん遡り、不動の滝を経てA氏宅に至る。
途中円山西町神社でこの地の由来を読み、以前はここが滝に因んだ
滝の沢という地名だった事を知り、感心していた。
美人の奥様の果実の接待を受けた後、さらにA氏宅から門馬ギヤラリー
へと向かった。
そこでは現在後藤和子展が開かれていて、このギヤラリー傍にある
アネックスというもうひとつのギヤラリーは、A氏の設計によるものだ。
後藤和子展はそこではなく、本宅の方のギヤラリーで展示されていて、
内に入ると後藤さんと杉山留美子さんがいた。
杉山さんとは久し振りの再会で、話が弾む。
ギヤラリーの床に低く開いた窓からは、新緑が溢れんばかりに滴り、
後藤さんの青の作品と絶妙なコントラストを見せている。
深い海の中に居るようである。
雨のさっと降り注いだ後の庭の苔が、非常に美しい。
後藤さんの作品もまた以前より広がりと奥行きを増したようで、
オーシアン(大洋)のようだ。
さらに空間の保つ伸びやかで開放的な外界との交感もあって、
今までで一番豊かな後藤ワールドを顕在させている。
門馬邸を出て、A氏と私はさらに伏見稲荷石段を下り、水の道を経て
出発点の円山公園まで戻った。

それから午後8時過ぎ写真家集団三角展の展示がさらに続いていたが
さすがに疲れて、会場には行かずお風呂に入り休む。

*写真家集団三角展「パラダイムシフト」-6月22日(月)-7月4日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休・休廊。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2010-06-22 12:37 | Comments(0)
2010年 06月 20日

お国柄ー木霊(こだま)する(17)

今年冬の個展で展示した高臣大介さんの半月のような透明なガラス板。
この作品は奥の資料室に置いてあったのだが、
これを、西牧さんはいたく気に入っている。
是非会場に置きたいと言って、2階吹き抜け西窓に吊り飾っている。
ふたりはまだ一度も顔を会わせた事はないのだが、
ふたりを知っている私にはなにか非常に似たものを感じているのだ。
先ず風貌が似ている。髭面で長髪を後に束ねている事。
語り口がソフトで、人を逸らさない事。
誰かが訪ねて来ると、大きな声でお~っと言って喜ぶ事。
つまりは風貌のわりには、無愛想ではないのである。
私の知っている範囲でいえば、他にも大学時代の友人のMが同じ風貌で
やはりそうした明るい性格であったし、今は行方不明だが縄文焼きの
猪風来という人の性格と風貌も同じだった。
共通しているのは彼らが皆千葉県出身という事である。
大学時代の親友だったMも、みんなにポンキチといわれ好かれていたが、
どちらかというと野武士系のその風貌に似合わない感性の持ち主だった。
純粋で一途な側面もあり、豪快で行動的である。
猪風来さんは本名が村上で、村上水軍の流れといっていたが、
その事でいえば確かにみんな海賊系の人たちと思える。
海賊映画のカブリアンの何とかに出てくる俳優の風貌もその系統なのだ。
お国柄というものはあるものだ。
海を漂流するように、ある時期彼らも故郷を離れ漂流する人種である。
そして意外と好青年的である。
明るく人好きで話を逸らさない。
私などとは正反対の人たちである。
うん?
暗くて無愛想で非行動的?
まあ自分が非行動的とは思わないが、あまり愛想が良く明るいとはいえぬ。
自己判断だから、ある種偏見ではあるが・・。
いずれ高臣大介さんと西牧浩一さんが出会って、お互いを見詰めあい
どう判断するかが大いに楽しみである。
意外とお互いに照れて、違うよ俺はもっとノーブルだよなどと思うかも
知れないのだ。
作品に即していえば、ガラスと版画の違いはあるにしても、光を主題とする
点では共通しているのである。
光もまた一ヶ所に止まることなく漂流する存在である。
そしてソフトで柔らかな明るい素質を保つ。
千葉という土地に何故か東京一極集中を離れ、興味を抱かせるものが
彼らにはある。

*西牧浩一版画展「光景が移り変わるように」-6月20日(日)まで。
 am11時ーpm7時。
*写真家集団三角展「パラダイムシフト」-6月22日(火)-7月4日(日)
 :竹本英樹・メタ佐藤・アキタヒデキ3人展

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2010-06-20 12:37 | Comments(5)
2010年 06月 19日

春は曙ー木霊(こだま)する(16)

西牧浩一さんは、千葉県出身で道都大学卒業後アラスカへ渡り、
北の地の光に魅せられその光の色彩をシルクスクリーンで表現している。
昨日は千葉からご両親も見えて、ちょうど会場に入った時
それまで曇っていた空が一気に晴れて、陽光が射し込む。
作品が光とともに甦るように色を放ち始め、西牧さんは大いに喜んでいた。
今朝来た中年のご婦人が何気なく話した言葉は、”春は曙”だった。
確かに日没の光の色ではない。
早朝の暗闇から仄かに広がる光の色彩を思わせる色である。
赤・青・緑の光3原色のグラデーシヨンが基本にある。
その柔らかな色調は女性陣に好評のようで、多くの女性客が今日も
朝から訪れている。
男性客は、彼のカヤックとかアラスカ旅行の同好者が多いようで、
絵よりも旅の友情が主と思える。
自然光の入るこの空間を好むのも、そうしたアウトドアー的な彼の
趣味性に拠るものと思う。
女性たちの多くが、彼の柔らかな色彩、口調に惹かれ、男性たちの多くが
彼のアウトドアー的な行動力に共鳴して集まる。
現在の生き方と感性がいい形で合致しているから、今回の初個展には
その一番いい部分が気持ち良く漂って爽やかである。
問題は次なる展開がどうなっていくかにあり、爽やかさだけでは
あるマンネリ化する傾向も否めないと思う。
作品にはどこか毒のようなものも、本来的に在ると思うのだが、
その毒が最初から心地よい薬であるなら、それは真に美術として
時代の内に屹立はしないであろう。
現代の文化、美術情況は多種多様な様相を呈しているが、問題はいつも
自らの真摯な生き方と時代がどう対峙し、闘っているのかという事に尽きる
のだ。
世間という人の眼の多寡に擦り寄り、地産地消を謳う地元還元の団体
志向もあれば、デザインとの境目を曖昧にしたアートグローバル志向
もある。
個の垂直な深みを掘り下げる事から、類として開く地道で地味な営為を
横におき、世間的多寡に群れてアートを選ぶ公共美術のもついい加減な
<パブリック>志向ほど手に負えぬものはない。
これら美術を取りまく多くの困難な情況を、個として営々とひたすらに
表現の自立を闇夜の灯台のように掲げ光を放ってこそ、多くの無名の
人の心を撃つのだ。
灯りをたくさん集めて燦然と輝くのは、都会のネオンサインでしかない。
このネオンサインのように群れるのが、真に芸術家と言えるか。
それは単なるエゴの自己主張でしかないからである。

次回以降の課題は当然あるにせよ、アラスカの旅から得た自然の光への
感動は今回素直に表現され、群れることなく<個>展として発揮されている。

*西牧浩一版画展「光景が移り変わるように」-6月20日(日)まで。
 am11時ーpm7時。
*写真家集団三角展「パラダイムシフト」-6月22日(火)-7月4日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2010-06-19 12:23 | Comments(0)