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2008年 11月 30日

雪降るーNovember steps(24)

中嶋・國枝展最終日。湿った雪降る。
<個>と<私>の位相について、若干の考察を書き連ねてきた。
私たちそれぞれに、掛け替えのない<個>の現在があること。
今回のふたり展が、ただ<私>的なふたりのお披露目に終らず、
人と人との間の先端(エッジ)としての時間。
その間(あいだ)・境(さかい)に触れて、ある本質的なゾーンを表現し、
立ち上げようとしていたのを、感じていた。
表現の根底には、いつも私的な契機がある。
その私的な契機を、如何に個の契機として公(おおやけ)にし得るか。
そこには生きるという、個々の人生が凛として在る筈なのだ。
生の先端で、エッジとして触れる新鮮な他者・外部世界との回路。
そのことを、思うのだ。
その回路に開かれる耕作地。ランド(場・国)としてのさっぽろ・いしかり。

湿った雪が濃くなり、視界が白に遮られてくる。
November steps、11月の階梯。
雪がクリストする、白い梱包の季節がやって来る。

December Voice、12月どんな声が響くだろうか。

*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月30日(日)午後7時まで。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2008-11-30 15:52 | Comments(0)
2008年 11月 29日

深く開くーNovember steps(23)

東京の沙知さん、藤田さんのライブに映像作家の大木裕之さんが飛び入りして
踊ったと、ふたりのライブ日記が伝えている。
冒頭、武満徹の「ノベンバー ステプス」を舞台の音楽に使った時の事という。
故村岸宏昭さんの縁で3人が3様に札幌と深く関わり、遠くからその熱が熱く伝
わってくるのだ。ひとりの青年の死が、私的な思いを個々に結晶させ深く発する。
その発する光のようなもの、それは私の内から発しながら、<私>の内に埋没
しない何かである。それは個の結晶、公と私の間を繋ぐ回路、個のプリズム、
ある全体性へのコンテンポラリーな視線と思うのだ。
<・・ともに見詰めあうことではなく、ともに同じ方向を見つめる事>(サン・グジュ
ベリ)
<私>が深く結晶し、個として発する世界への眼差し、その可能性にこそ真に
<公>的なものが立ち顕われる。それを今、仮にRepublic(共和国・革共同)と
呼んでおく。
近くの私的声より遠くの声が届く。冬空の澄んだ空気に似て、透明な声がある。
<×1>の眼差し。それは個の、深く閉じ深く開く行為でもある。
私が個となる階梯に<×1>がある。

中嶋・國枝展「モーラ」の隠されたキーワード。それもまた、<×1>の位相である
。沙知さん、藤田さん、大木さん。ここにもそれがある。
故村岸宏昭さんの白樺、故村岸令子さんの母の抱擁、ここにもそれがある。
<×1>。深く抱き締め、深く開く。
見つめあうことではなく、同じ方向をみつめることーその方向に<×1>がある。
私が個へと結晶する階梯がある。
11月の階梯を経て、もう季節は12月の声に至る。

*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月30日(日)まで。am11時ーpm7時

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2008-11-29 14:00 | Comments(0)
2008年 11月 28日

サラリーマン宮沢賢治ーNovember steps(22)

「宮沢賢治ーあるサラリーマンの生と死」(佐藤竜一著)の書評を読む。
川成洋さんが書いている。
<中学1年の頃国語で「雨ニモケズ 風ニモマケズ」を習い><その後、この詩
は私にとって身近な存在となり、困った時の「激励歌」として心の中で反芻した>
と振り返る。
宮沢賢治は、悲惨な農村を何とか救う為肥料の炭酸石灰の会社員として、販路
拡大に奮闘したという。その宮沢賢治の混迷と挫折の人生を、サラリーマンの側
面から、詳細に明らかにした本という。
<理想を抱き、果敢に現実に立ち向かっては、次々と挫折し・・あらゆる辛酸を
 舐め、死の床に横たわって書いた「雨ニモマケズ」。これこそ賢治の自画像で
 ある、と本書は結んでいる。私には、何故か、遺言のように思えるのだが。>
死後手帳に鉛筆で書かれて見つかったこの詩を、著者は賢治の自画像とし、評
者は遺言と思えると結んでいる。
今でいえばいわゆる負け組の宮沢賢治が、自費出版で世に問うたものは、たった
2冊の詩集であったが、現在彼に関する本の量はその何万倍にも達するのだ。
公というものは、いつも後から付いて来るものである。
私という一点を穿つ個の存在を、この短い書評からも窺う事ができる。
公と私という不毛な対立概念の範疇では、<私>という存在はいつも負け組に属
す。しかし、<私>が自費出版であろうと公(おおやけ)にしょうとした行為は、
私から脱した<個>として発する<公>の位相にある。
公私の隘路に属さない個の表現の位相である。
そしてこの<個>は、時に世間という<公>から孤立し、無視され、「混迷と彷徨
の人生」ともなる。しかし、個の位相から発した公(おおやけ)への視軸、この視線
と拠点の先にこそ、Republicされる真の<公>があると思える。
我々の時代は、公共という名の<公>が近代を推進してきた現実がある。
それは、今もその基本構造において変わらないと思う。
都市もそうである。そして公共という概念は、あらゆる分野に渉っている。
中央ー地方という概念も中央を公と置き換える事が可能である。
公共の公は、市街地にも交通機関にも到る所に転がっている。
そこで<私>は、地方・僻地・場末のように貧しく存在するのだ。
真の公共とは、私を個の位相まで深化させ、反転させる事からしかRepublicされ
得ないと、私は思う。
些細な<私>の内に沈んでいる<個>の結晶こそが、その原石である。
生きる・表現する小さな個が<おおやけ=公>へと反転する視点にこそ、表現と
いう生も生まれる。
無名の見えざる多くの個の営為に拠点を保たず、公に吸収されるPublic art(
公共美術)などに、貧しい<私>の自己顕示を堕してはならないのだ。

*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月30日(日)まで。am11時ーpm7時

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2008-11-28 13:25 | Comments(0)
2008年 11月 27日

一点を穿つーNovember steps(21)

凍てついた路面を嫌い、作夜自転車は置いて帰る。
朝歩く。裏参道旧メルパルク前の広場が消え、今商業ビルが建設中。
敷地を目一杯使って巨大な建物が建つ。
もうどこからも、わが奥三角が見えない。
友人の樹の正面にもコンクリートの電柱が立ち、目を遮る。
内部に人を取り込む為の巨大な装置が、風景を消す。
商品のカラフルな坩堝が出来る。
人を吸収して街が成り立つ。

  そこに立って四方を眺め渡すと地相の趣意が一気に析出し、
  風景として結晶する。ー中村良夫「風景学実践篇」

またひとつ、円山の<風景の結晶>が喪われる。
道を外れ、ある一点に立つ。その角度にだけ奥三角山が、姿を見せる。
マイラブ・・。
その山裾に、大正生れの父の夢、母の解放があったのだ。
明治の祖父の街が壊れ、そこが住いとなった昭和の後半。
東京から帰省後の私の出発地もそこにあった。
宮の森1015番地。旧住所には琴似町字宮の森と記されていた。
この表示に、一本の川が町の境を造っていた時代の匂いがする。
いつの間にか恐ろしい勢いで、町が変わる。
風景がきらびやかな物の集積庫に吸収されていく。吸込まれる風景。
その柔らかな坩堝の日常の強力のなかで、一点を穿つ。
ひとつの路、ひとつの山、ひとつの庭、ひとつの木、ひとつの歌、ひとりの人。
及川さん、中嶋さん、河田さんたちの仕事を、そう思う。
奥三角、マイラブ。私には、さっぽろ、いしかりへの原点としてこの山がある。
<地相の趣意が一気に析出し><風景として結晶する>
奥三角・結晶。風景の一点を穿つ。
そこから、地下へと下り無表情な人の群に身をおき、北18条まで地下電車の速さ
に顔を伏せて立ち尽くす。停車毎に間断なく音声が案内し注意する。
早く目的地点に到る為過程は無視し、消去する時間。
析出するものは何もなく、結晶も無論ない。
<一気に>吐き出され、出口へ出る。
新鮮な入口はなく、地上に出て肩をすぼめて滑る足下。
手稲の長い山稜が白く霞んで見えるのに気付き、
ほっと白い息を吐いたのだ。
ここは、手稲山下。
一点を穿つ。さっぽろ北界隈の風景がある。

*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月30日(日)まで。am11時ーpm7時

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2008-11-27 12:17 | Comments(0)
2008年 11月 26日

冬・声・恒平ーNovember steps(20)

先日ふらりと及川恒平さんが来る。
今年夏札幌で録音を終えたCDはもうできましたか、と聞いた。
夏だけでなく、冬の空気のなかでも録音したいので、もう一度録音するという。
明年1月それを終えて、中旬にテンポラリーでコンサートをしたいとも言った。
ちょうど中嶋幸治さんもいて、ふたりでその話を聞いた。
初めて及川さんに会った中嶋さんも感銘を受けたようだった。
中嶋さんの世代にとっては、及川恒平は遠い伝説の人かもしれない。
しかしその事に関係なく、ものを創る人間として共感していたと思う。
札幌の歌人糸田ともよさんの短歌を素材に、及川さんの声の格闘は今も続いて
いる。キラリと光る短剣の冬の刃のような糸田ともよの歌を、冬の空気のなかで
録音したいと感じるのは、及川さんの歌への真摯な誠実さからくる。
歌は文字だが、声の唄は響く空気を伴なう。

階段を数えてのぼる癖 死後も 黄昏いろの地下書店から (幻影肢)
受話器の声しばし途切れて 雪の音 あるいは翼を片づける音 (水の列車)

この2首の歌が

たそがれの 地下書店に いつつうのメールが届く
多分 もう行かないという 夢の つづき 短い言葉
ほつれた つばさは 知らない本の
しおりに使って 遠い棚にもどす

階段を数えて登る ありふれた 癖だとしても
目のまえの たった一段 崖だったら 数えられない
なにげなく つばさを 捨てたけれど
残った ひとつは このまま忘れたい

という唄となる。このふたつの詩の交流・交感は、唄(ソング)において声の響き、
空気という、より直接的なものが媒介される。
この時、声の発する場が大きな要素を孕む。
スタジオ録音を嫌い、歌の生まれた札幌で自主録音を試みた所為もそこにある。
原作の短歌そのもではなく、唄(ソング)に合う歌詞に置き換えつつ、旋律と声の
色、律動は及川恒平自身のものであり、そこでふたつの個性は共鳴しつつ、自立
しあう。ふたつを比較すれば分かる事だが、ふたりの個性は似て非なるものであ
る。詩だけでなく、そこには音・声が入り、個の別のありようも明確となる。
及川恒平の今回の挑戦は、五・七・五・七・七の語数に閉じられ完結した世界を
解きほぐし、その詩句に宿る北の凍った心象を自己のものにしようとする試みで
あると思われる。若くして学生時代からスターとなった北海道生れの及川さんの、
北という磁場を自らの声の表現の核に再生しようとする試みともいえる。
ある時から、首から上でしか唄っていないと気付いて10年間唄を断念した話を、
及川さん自身からから聞いた事がある。
その天性の美声のまま、フォーク時代の草分けを走り続けた及川恒平の真摯な
唄への姿勢を、その話を聞いた時感じたのだ。
そこから再び唄を復活した及川恒平は、この後自らの声の場の原点・北の空気・
響きを探求し続けている。今回の札幌在住の歌人・糸田ともよの歌との出会いは、
その彼の北への原点・歌の在り処の探求が契機となっている。
設備の完備した東京のスタジオを選ばず、個として自ら録音場を北の風土に求め
、そこで生まれた歌とともに声を響かす。
糸田ともよという個性と及川恒平という個性が、ある共同の場を構築していく。
ふたつの異質な個の同時代の共同体、その行方にはしばらく目が離せない。
私には、このふたりの極めて個的な営為が既成の<公>を打破する営為として
、中嶋・國枝展の試みとともに深く勇気を与えてくれるものとしてある。

*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月30日(日)まで。am11時ーpm7時

 テンポラリースペ-ス札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2008-11-26 16:09 | Comments(0)
2008年 11月 25日

界川・円山川游行ーNovember steps(19)

多分今年最後のトレッキング、界川・円山川源流域を歩いた。
休廊日の昨日。中嶋、國枝さんとは2度目だが、夏石狩・望来を歩いたA君、S君
も同行した。河口の散策の後、次回源流域を歩こうと約束していたからだ。
今回新たにMさんも含め総勢6人。
私以外はみな札幌在住だが、故郷は別である。
A君は旭川、S君は網走、Mさんは十勝、中嶋君は青森、国枝さんは幕別。
都会の札幌しか知らない。
今回、私なりに知るさっぽろ、その風景の根を案内したかった。
ここ何日かの残雪残る道を、滑りながら歩く。
8ミリ映写機を回しながらA君が熱心に撮影している。高層マンシヨン群を縫うよ
うに曲がる川の径を抜け、円山原始林に入って、中嶋さんの希望した桂の古木
に到る。この前で写真を撮りたいと彼は熟望していたのだ。西の山並みの裾野に
繁るさっぽろの主である。ハルニレとともにさっぽろを代表する樹だ、
北大寮歌にも<森には桂の新緑萌し・・>と春の章にも歌われている。
樹の大きさに比し、葉は小さく円く可愛い。春先その匂いはクッキーを焼いている
ような美味しそうな香りを発する。その桂の山裾を辿り、幌見峠の下旧滝の沢村
不動の滝で不動明王を拝む。優しく厳しいお顔で、A君もすっかり気に入ったよう
だ。雪に覆われた滝をよじ登る事は断念して、神社に繋がる石段を登り、滝上を
周り旭山公園界川筋に出る。そこから川に沿って下り門馬ギヤラリーに寄るが、
休廊だった。近くの美味しいパン屋へ入り、そこの奥カフエで昼食をとる。
焼きたてのパンを買いほおばると、温かく幸せだ。
薄く雪降る中朱色の鳥居の連続する伏見稲荷を登り、旧参道を下って再び川の
路に沿って出発点に戻った。界川神社も詣でたので、三つの神社をお参りした事
になる。6人が6様に真面目に祈っていた。
来春故郷の網走に帰る現代の木田金次郎、漁師を継ぎ絵の志を保つ決意のS君
、明年アシアを放浪する予定のA君、桂の古木を見初めた津軽の中嶋さん、それ
ぞれのこの小さなさっぽろ游行は、個として経験の根になることを思うのだ。
私に退却する貧しい個ではなく、公を再生するRepublicな根としての個をさっぽろ
の風景の中で感受してほしいと願う。
公私の隘路で尻尾を巻いて退却し、お仕着せの公の軍門に落ちる貧しい私を止
揚する。風景の根に触れ歩く事は仔細なようで、些細な事では決してない。
初冬の弱い陽射し、寒気を含む鈍い白色、夏の色の褪せた山裾の森を縫う細い川
。その護岸と暗渠の川筋の路を歩きながら、風景の根を象嵌したかのような、透明
な社(やしろ)での祈りとともに、それぞれのこれからが、確かな歩を保っ事を思った
のだ。

*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月18日(火)-30日(日)
 am11時ーpm7時

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/gfax011-737-5503
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by kakiten | 2008-11-25 11:25 | Comments(0)
2008年 11月 23日

私と個ーNovember steps(18)

人は何故に私的な契機を、公的なものへと高めようとするのか。
この私的なものと公的なものの径庭に、個の回路がある。
<公私>と二元化されない回路である。
この個の契機、あるいは時に<志>と呼ばれた回路を、私は広義の表現の契機
と考える。<個>は決して、<私>ではない。
個を媒介にせず、<私>に<公>を対置する構造から真の公共概念も生まれ
ない。パブリック(公共)概念は、個の径庭を経てリパブリックされなければなら
ない。
中嶋幸治・國枝エミふたり展は、見ようによっては極めて私的なふたり展ともい
得る。しかし<私>に閉塞しない、個と他の径庭の凝縮した展としてこの展示は
ある。人が他者とどう関わるか、それが愛という私的な回路に閉ざされず、如何
に個的な他者と共有する回路足り得るかと、果敢に問う展示と思う。
一対の男女が好きあうという日常が、如何に個的な契機を孕み私的な閉塞性を
超えて、個と他の径庭の劇足り得るか。そこにこのふたり展の主題が存在する。
この個的契機の径庭を抜きに、公と私の支配する現代日本社会構造のまま安
易に表現することの愚を、今横行するパブリックアートや各種のイヴェント的アー
トの類に見る。それらと同一視する事は、断固として峻別されけなればならない。

昨夕、初めて國枝さんの母上と対面した中嶋さんは、緊張気味な面持ちで、普段
の帽子も被らず挨拶していた。私的状況が、社会的<公>へと一歩足を踏み入
れた瞬間である。その後十勝の國枝さんの父上からも電話あり、緊張の一瞬であ
る。きっとここまでは誰もが一度は経験する社会的認知の時間である。
それは私→公の径庭である。しかし問題は私という個が、彼女という他者を個とし
て如何に引き受け、共有し、共同というランド(場)を形成し得るかにある。
その個の主体を抜きに、両家という社会的公にふたりの個は収斂されない。
遠いいい回しをしたが単純にいえば、ふたりのこれからの人生に親・家と象徴され
る社会的<公>は、今認知という一過程を経たという事だ。
その後に圧倒的にふたりの個的時間が、生きる過程として存在する。
人は人を如何に愛し得るか。自者と他者の間に広がる径庭を、今回の中嶋幸治・
國枝エミ展は<私>の位相から<個>の位相として、表現として公開し、問うて
いるからである。
この極めて私的とも思えるふたり展は、個の志(こころざし)の高みにおいて、私的
位相のふたり展では決してない。
むしろ量数を誇る他のグループ展の現状こそ、その質において公的私展でしかな
いと思えるのだ。地下歩道に量数を並べ立て、単に参加者の数を誇るかのような
公陳会場に真の公も個も存在しないのは明白である。
あるのは私的な企みの公的垂れ流しである。公と私の間、個の径庭の存在しない
<私>の羅列など単なる自慰であるしかないのだ。
この<私>の羅列に陥れる、公を装う貧しい企画に場という径庭が築かれないの
もまた自明である。

*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月18日(火)-30日(日)
 am11時ーpm7時月曜休廊

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2008-11-23 13:21 | Comments(0)
2008年 11月 22日

吐く息白くーNovember steps(17)

朝晴天、寒空。吐く息白く、指凍(こご)える。
吐く・拍・脈拍・心拍、これもモーラ。
昼過ぎ、空からも白い息、雪降る。
空にも、拍、モーラ。
一日も拍。今日で5日。5っの拍。
展覧会の会期、その積み重ねもまた、モーラ
ですね、中嶋さん、國枝さん。
拍と拍のあいだに繋がるランド。
それを、仮にそっと”さっぽろ”と呟く。
マクロの状況的札幌は、ここにはない。
そのように<場>を構築しているか
と、今に問う。

國枝さんの母上十勝から来廊する。
中嶋さん、初顔合わせ。
心拍上昇。
ふたりのさっぽろに上陸して、嬉しそうである。
もっとも個的にして、他を共有する。
開かれた拍・モーラ・ランド。

吐く息白く、寒空厚く、雪白く、
主(あるじ)、輪廻(りんね)、モーラ、
5日目の寸景。

*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月18日(火)-30日(日)
 am11時ーpm7時・月曜定休:中嶋幸治・國枝エミによる展示。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2008-11-22 15:30 | Comments(0)
2008年 11月 21日

旅立つーNovember steps(16)

昨日と重複するが、「はじめに」と書かれた中嶋幸治さんの前文。

  「楽しんでいきましょう」と、札幌駅に渦巻く帰省ラッシュの人混みの中で誓い
  合い、私達はそれぞれの帰途につきました。今にして思えば、ふるさとへ<
  帰る>というよりは、どこか遠くへ旅に向かい再び札幌へ<帰る>という気持
  ちが強かったのではないかと思います。現在の生活の場である札幌からの帰
  省という名の往来は、私達ふたりの心に新たなふるさとを生んだようにも思い
  ます。それは、十分毎にシャッターを押すという約束を守れたから、なのかも
  しれません。
  「モーラ」という音韻論上、一定の時間的長さをもった音の分節単位を指す言
  葉があります。日本語でいう「拍」という意味を持つそうです。出発点から終着
  点まで十分毎にシャッターを押し合う私達の些細な遊びを、この言葉の意味
  に当てはめるのは難しい事ではありませんでした。一定の制限を用いた中で
  反復し合う行為は、私達の日常生活の何気ない時間の流れとも共通する部分
  があるように感じ、また私達が普段描く点描画(國枝エミ)と線描画(中嶋幸治)
  にも同様な気付きを覚えました。そして、体験した時間、行為、移動、想いを容
  にし、現在という視線で再度見つめることによって開かれる、発見し得る未来が
  あるのだと、今展「モーラ」を通して私達は思うのです。

一日という一定の制限の中で<反復し合う行為>を意識的に共有し、そこに日常
の時間の凝縮を見つめ、それをふたりで容(かたち)にする。
中嶋幸治と國枝エミのふたり展の主題を要約すれば、そういうことになるだろうか。
地理的にも、帰省の経過も異なる状況のふたりが、時間だけを共有し再び現在
の生活の場に戻る<帰省という名の往来>は、ふたりの心に<新たなふるさと>
を生んだと、中嶋幸治は書いている。津軽と十勝へのそれぞれの旅はこの時、与
件としての故郷を脱し、今生活している<場>を、ふるさとと呼ぶ事を可能にしてい
る。その<場>を中嶋はまた、<発見し得る未来>とも呼んでいる。
それを容(かたち)にする事。それぞれの故郷の地形図を下敷きに薄い皮膜のよう
に描かれた2枚の点描画と線描画は、まさにそのコンセプトの証そのものでもある
だろう。3組のこれらの絵には、十勝、津軽そして現在の場さっぽろの地形図がそ
れぞれに隠されている。
この時さっぽろとは、ふたりの共和国・ふたりの未来という地形図でもある。そのよ
うに仮にも<さっぽろ>と呼び得る<場>の在る事を、嬉しく思うのだ。

昨夜閉廊ぎりぎりの時間、チQくんが訪れる。自身の個展前夜、どうしても見てお
かなければと思い来たと言う。この個展の後、札幌を離れ沖縄に行くという。
<さっぽろにまた戻る為に、離れるのです。>
ここにも形を変えて、ふるさとへの往来があるのを感じた。
来年2月私も会いに行く予定の沖縄の孤高の美術家豊平ヨシオさんを紹介した。
観光と基地ばかりですよと、夜咽ぶように電話をくれた豊平さんの孤独を聞いて、
私は是非こちらから行かねばならないと決心したのだ。1992年以来会っていな
いにも拘わらず、ぽつりぽつりと音信は途絶えていなかった。
チQさんの札幌脱出の決意の根に、自らのふるさと奪還の意志をどこかで私は感
じていた。故郷沖縄での孤独、北への想い。そこにチQさんと豊平さんの重なる何
かを、感じていたからだ。
中嶋幸治・國枝エミ展の基奏低音(トニカ)は、形を変えてチQくんの心にも響いて
いた。Kさんの沖縄みやげに頂いた泡盛を飲み交わし話は深夜まで続いた。

*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月18日(火)-30日(日)am11時ーpm7時
 月曜定休・休廊:中嶋幸治・國枝エミによる展示。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2008-11-21 13:19 | Comments(2)
2008年 11月 20日

雪かき・朝ーNovember steps(15)

どっと白い世界だ。昨夜来の雪。重たい湿り気のある雪だ。
新雪のふわふわした羽のようなタッチはない。
手応えある雪。
雪跳ねならず、雪かき。時に、押し出して除雪。
目に触れ、手に触れ、肌に触れて冬。
”やあ~、とうとう来ましたね・・”と声かけあって隣。
汗流す雪の朝が、これから幾つも訪れ冬日常を重ねる。
季節を重ねる時間。その重ねる時の一枚一枚に冬を生きる時がある。

ひとつの山。ひとつの庭。ひとつの路。そして、ひとりの人。
そこにタッチし重ねる時間、深まる時間。
その心の運河を航行する往還に<さっぽろ>が見える。<場>が姿を顕す。
横一文字に縦列する140枚の時間。身体は遠く十勝ー津軽と離れながら
心に決めた10分毎のふたりの写真は、その相違を通底して一枚の切手へと
向かう。6000通の差出人共著の封筒群。中味は空だが、差出人は連名である。
手に届く傍のふたり。しかしその間には、数え切れない時間、場所が、横たわっ
ている。その間を埋める心の雪かき。そこにふたりの径庭、小さな共和国がある。

 今にして思えばふるさとへ<帰る>というよりも、どこか遠くに旅に向かい再び
 札幌に<帰る>という気持ちが強かったのではないかと思います。

と、仲嶋幸治さんはふたり展の前書きに書いている。
國枝エミさんと10分毎にシャッターを押し続けた、津軽と十勝へのそれぞれの帰
郷。その記録を今振り返ってそう記すのだ。
ひとりがひとりである事、その時ひとりとひとりを繋ぐ径庭。そこに個としての札幌
がその姿を顕し、ふたりの小さな共和国がRepublicする。
ひとつの山、ひとつの庭、ひとつの路、そしてたったひとりの人。
そこに到る回路の深みに、私たちの<場>、たとえば、その名を<さっぽろ>と
呼んでみる。個的な閉じたふたりに収斂せず、開かれた個的ふたりである事。
その時、さっぽろという名の<場>が、径庭となって<帰る>処ともなる。
今回のALGILLN’NE展「モーラ」は、そうした清冽なふたり展である。
ALGILLN’NEとは、主・輪廻・流転を文字化した造語という。
モーラは、音楽用語で「拍」を意味するという。ひとりの人間との出会い、そして
そのふたりの間の距離。そこを埋めていく心の拍。それを形象化したものが140
枚の、10分毎の縦列する写真群・拍でもあるだろう。
誰もが恋に陥った時経験する濃密な時間。例えこうして表現し公開されなかった
にせよ、誰にもそうした他者との時間・拍があるのだ。
毎日のように遠距離の恋人に手紙を送って、その心の孤独を励ました遠い記憶
が甦るのだった。あの恋文は今でも傑作と自讃する。
そうした個人的想い出は閉じた心の記憶であるが、このふたり展にあるトニカは、
もっと凛とした<場>への問いである。その開かれた問いに、今私たちが抱え込
んでいる閉鎖状況ー量数へと絡め取られる文化への鋭い反問も含まれている。


*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月18日(火)-30日(日)AM11時ーPM7時
 月曜定休・休廊
 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2008-11-20 11:58 | Comments(0)