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2008年 07月 31日

本を創るー夏の年(sak-pa)(52)

昨夜、村岸宏昭さんの作品集の打ち合わせがある。大分煮詰まってきた。
かりん舎の坪井圭子さん、高橋淑子さん、おふたりの力が大きい。
本のサイズ、仮綴の雛型を見て、そう思った。本の出版もまた、立派な創造力溢
れる仕事である。これは、いい本になるなあと予感させる、心が鼓舞されるものが
あるのだ。出版に対する並々ならぬ情熱、真摯さ、それが例え仮綴であっても、
伝わってくるのだ。
タイトルは、村岸さんがブログに表記していた、「自分を代表させるような仕事はま
だありません。」が候補になる。それを英語とフランス語で併記する。
・・・作品集とか遺作集では閉じてしまう。彼の22歳の実感そのままに、そっと遺
された我々が、その先を見詰めた眼差しを虹のように紡ぎだして、世に送り出す
のだ。それでいいと思う。過去を振り返るように、完結させてはならない。
その時装丁や本の骨格は、非常に大きなアピール性を持つ。本の製本自体がひ
とつの強烈な表現行為である。生前一度も故人にあった事のないかりん舎のお
ふたりが、ここまで心篭もった仕事ができるのは、人を見、物事の本質を洞察する
優れた出版人としての力量と言うしかない。何冊かの彼女たちの手がけた出版物
を見ても、それは充分分かる事ではあるのだが・・。とにかく、猛烈に自分の拙い文
を校正したくなった。
ちょうど2年前の今日が、村岸宏昭さんの個展最終日だった。
そして、この半月後の8月13日四国の鏡川で溺死するのである。
濃い2週間の個展だった。22歳のすべての人生が凝縮した2週間だったと思う。
その澄んだ眼差しの見詰めた先の、心挿す指先に、今も多くの人の心は繋がっ
ている。未完ゆえの多くの可能性は、遺された多くの友人あるいはこれから出会
うであろう多くの未知の人たちとともに、それらはまた物語として未来に紡がれて
いくのだ、と思う。さっぽろというグラウンド(土)に立ち、同時代というランド(国)に
果敢に挑戦したMの物語は、この本とともに、また始まる。

*久野志乃展「物語の終わりに、」-8月3日(日)まで。am11時ーpm7時
*及川恒平ソロライブ「resongs vol8」-8月5日(火)午後6時半~
 入場料3000円・予約2500円
*アキタヒデキ展「点と点と展」-8月9日(土)-17日(日)
*森万喜子展ー8月22日(金)-31日(日)

 テンポラsリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2008-07-31 12:17 | Comments(0)
2008年 07月 30日

車輪と歩行ー夏の年(sak-pa)(51)

晴天が続く。MとNが自転車で転び肩と腕を打撲したという。気温上がり、青空続
くと猛走の危険あり・・か。幸い私は今のところ何事もない。でも、時に歩行の時間
を持つと、頭は活発になる。自転車も車である。頭脳を解放するのは、歩く方がい
い。風景への関わり、そのリズム。ふと、立ち止り、また歩く。時に見上げる、時に
足元の珍しいものに見惚れる。樹が茂り、陽が翳る。自転車ではそうはいかない。
速度を保つ。風を切る。その爽快感もいいのだが、考える時間、周囲を見渡す時
間は、あまりない。体全身で車輪と一体化する心地よさは、逆に言えば一体感を
失えば、危険と言うことでもある。ベルの不具合に気を取られ、走りながら直して
いて、前方不注意で危なかった事もある。今はリュックを背負っているが、前は左
ハンドルに買い物袋をぶら下げて走り、急に曲がる時重さに引っ張られ、危ない
事もあった。とにかく、走行中は走る事に専念し、車輪と一体化することだ。
その点、歩行は気ままに、眼も鼻も耳も自由であり得る。
<立つ><土><地域(国)>を一番感受するのは、やはり二歩足で歩く事、
そう思う。スタンドーグラウンドーランドである。
時に、車輪大に増幅された世界を振り返る事も必要なのだ。自転車でさえそうだ
からまして、自動車・飛行機・その他諸々の増幅装置に踊らされてはいけないと
自覚する。聳えるタワーマンシヨンを見上げて、エレヴェーター抜きに誰が住む
の?といつも思うのだ。自動車抜きに、山奥の高級住宅街は、成立するのかとも
思う。歩行を忘れて、増幅する機械装置に文字通り足下を喪失する愚かを、文明
は増進している。その現状は、身体だけでなく、観念の領域まで侵しつつある。
スタンドーグラウンドーランドの喪失である。あらゆる分野のサミット呆けは、自ら
の歩行の足喪失から始まっているからだ。

*久野志乃展「物語の終わりに、」-8月3日(日)まで。am11時ーpm7時
*及川恒平ソロコンサーrト「resongs vol8」-8月5日(火)午後6時半~
 入場料3000円・予約2500円
*アキタヒデキ展「点と点と展」-8月9日(土)-17日(日)
*森万喜子展ー8月22日(金)-31日(日)
*gla_gal展ー9月2日(火)-7日(日)
*新明史子展ー9月16日(火)-21日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2008-07-30 12:22 | Comments(0)
2008年 07月 29日

鯉江良二への手紙ー夏の年(sak-pa)(50)

鯉江良二さま

今回は一度もお会いできず失礼致しました。最終日の27日門馬ギヤラリーでの
あなたの作品展、遅まきながら拝見致しました。そこで、故門馬よ宇子さんの娘
さんの大井恵子さんにお会いして、札幌滞在中は、ずっと門馬邸に宿泊していた
事を知りました。門馬さんのお部屋、アトリエに居住し、遺された作品を見、深く
心動かされ、生前是非お会いしたかった話していた事も伺ったのです。
昨年6月80余歳でお亡くなりになった門馬よ宇子さんの、屏風状の古い写真の
コラージュ作品「記憶の解放」に多分鯉江さんは、心打たれたかと思います。
50歳を過ぎてから、本格的に美術に打ち込んだ門馬さんの、前半生全てを畳み
込んだかのような、強力の作品を見てきっとあなたは、人の保つ歴史、沢山の封
印された言葉に、土と共通する蓄積を感じたに違いないと思うのです。
新たな人生を出発させる為に、それまでの自分の半生を、ひとまず混ぜご飯の
ように凝縮してポンと纏める、そんな力技を、私はあの作品を見た時に感じたの
でした。そして50歳を過ぎてからの自分を、スタートさせたと思うのです。
ですから、門馬さんの自覚的な美術年齢は30余歳であったと、今でも思ってい
ます。今回の札幌滞在で、それは鯉江さんの出会った一番印象的な時間であっ
たと推測致します。
私が何故そう思うのかは、約20年前のあなたの作品「川に還る」を思い出すから
です。1987年6月、あなたは界川の源流域を歩き、さっぽろの一番古い地層の
露出している2層の土を採取し、作品を創りました。その土は、選別され、水で濾
過し、会場に川のようなインスタレーシヨンとして、床に展示しました。
また、界川源流の石は、その表面を束子で洗い、剥れ水に混じったその土を、和
紙で漉かし、その残土模様を「泥のドローイング」として窓ガラスに貼り付け、展示
しました。この手法はその後、さらに大規模な作品として、海外も含め様々な場所
で展示される原点ともなりました。
また、1989年10月の界川游行では、源流の滝壷で滝壷という壷を創り、川のお
掃除ですと、洒落ていましたね。1983年冬の倉庫を使ったルフト626では、愛知
県常滑の赤土2トンを運び込み、床に敷き詰め盛り土をし、一本づつ炭火を起こし
土と火の触れるインスタレーシヨンを、展示致しました。私にとって鯉江良二はい
つも、ランド・グランド・スタンデイングな、さっぽろを媒介にして存在しているのです
。2000年代に入って、石狩望来の地に、アルミの野焼き作品をモニュメントとして
沖縄と同じ形体の作品を立てた時もそうです。石狩というランド(国)の仕事でした。
さっぽろというグランドに立ち、石狩というランドを望み、私達はこの時代にスタンデ
イングする仕事を続けてきたと思います。
今回、門馬よ宇子さんの家で、その作品に出会った事は、さっぽろを生きてきた人
の時間という土に出会った事と、私は解釈しています。
鯉江さんは、門馬邸の川傍の崖でゆっくりしていたとも聞きました。
そこはまた、あの界川の源流域のひとつでもあります。その場所で生涯を終えた
門馬よ宇子さんのさっぽろの時間とともに、そこで過ごしたグランド(土)にこそ、今
回のさっぽろがあったと私は思います。門馬さんの過ごしたさっぽろの古いセピア
色の写真で構成された「記憶の解放」という作品を見て、鯉江さん、あなたは土と
同じように、そこに時間の蓄積を見ていたと思うのです。
人という命の炎が焼いた土の時間を、見ていたと思うのです。
生きている門馬さんとお会いしたかったというお話を聞き、私はやはりあなたが札
幌に来て、札幌というグランド(土)と、石狩というランド(国)に触れ、立っていたと
思います。
お会いできなかったのは残念でしたが、その事をご報告として、お伝え致したく
お手紙致します。   敬具。

*久野志乃展「物語の終わりに、」-7月22日(火)-8月3日(日)am11時ー
 pm7時

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通りに西向
 tel/fax011-737-5503
                                
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by kakiten | 2008-07-29 14:34 | Comments(0)
2008年 07月 27日

青い打ち水ー夏の年(sak-pa)(49)

久野志乃さんが、朝の出勤前に会場に来て仕上げた作品が3点、新たに展示さ
れた。薄いブルーで仕上げられた爽やかな作品である。
間(あいだ)を見詰めるような、内界と外界の2元性の作品構造から内側で蠢くも
のがあったのだろうか、会期の始まりとともに早朝から会場に来て作品を創り出
したのだ。きっとそれは、個展のタイトルの終わりに<、>を打ち込んだ時から
始まっていたのかも知れない。
2階吹き抜けの斜めの壁に展示された2点、入口上の横長の鴨居の位置に展
示された1点。いずれも、淡い流れるような青の線で描かれている。
打ち水だな、これは、そう思った。打ち水とは、家の入口の内と外を水の涼しさ
で繋ぐ先人の知恵である。外界の直射日光の熱さ、家の内の篭もった湿気、そ
れらを水の蒸発する力で、内外を繋ぎ熱を解放する、間を繋ぎ、放つ行為である
。作家は多分無意識の内にその行為を表現として選択している。そう、思えた。
今朝さらに、もう一点増えていたが、この作品は暖色系で、その前3点とは異なる
。打ち水は、もう終ったなあと思った。会期中の新たな作品の増加は、もう打ち止
めにした方がいい。創り続けたとしても、もうそれらを展示に加える事は、展覧会と
しての纏まりを欠く事となるだろう。
ただ、確実に言える事は、作家自身が、今回の個展を通して何かが動いてきたと
いう事である。その確かなものを、作家の内なる保水力にするべき時なのだ。
先日Aが、難しい顔をして言った。会期中に作品が増えるなんて、どうもおかしい。
一回展示したら変えるべきではない。そんな意味の事を言った。
年齢は若い筈だが、この人は意外と頭が固いと思った。物故作家でもない限り、
インスタレーシヨンや、パフォーマンス、レジデンスも含めて、作家の揺籃時間と
認識できないのはどうかと思う。いい加減にふらふらして、展示が増えている訳
ではない。物流の商品展示とは、違うのである。個展を、固展と勘違いされては
困るのだ。字にも人偏(ニンベン)が入るのである。会期中に作家自身が動く事は
、展覧会の活きの良さの証明でもある。第一線の現場が生きているからである。
昨日今日と夏の陽射しが、美しい。午後3時頃にもなると、正面の作品に陽光が
あたり、色が輝く。直接陽光の当らない所も含めて、自然の光には、あまねく光
の美しさがある。展示中も毎日作品は、生きて呼吸している。それは、見ている
だけでも分かることである。一日として、同じ日はない。密封された室内の人工灯
の前で固定された光と空間に飼育された審美眼には、この自然の光の変化は理
解されない。<今>を喪失した祭壇美術は、現代美術ではない。
時の揺籃をないがしろにして固定・固着してはならない。時間の保水力と、固定と
は別の物である。その後、Aは増えた作品を見て、その考えを改めるように、ぽつり
と呟いたのだ。”やはり、作品が増えて、展示が引き締まったな・・”

*久野志乃展「物語の終わりに、」-7月22日(火)-8月3日(日)
 am11時ーpm7時(月曜定休・休廊)
*及川恒平ソロライブ「resongs vol8」-8月5日(火)午後6時半~
 入場料3000円・予約2500円
*アキタヒデキ展「点と点と展」-8月9日(土)-17日(日)
*森万喜子展ー8月22日(金)-31日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2008-07-27 14:17 | Comments(0)
2008年 07月 26日

彩めく光ー夏の年(sak-pa)(48)

夏の光が溢れている朝、開廊前の時間を利用してコンチネンタルギヤラリーの4
人展「交差する視点とかたち 2」を見に行く。
ビルの前は駐輪禁止だったので、自転車を降りて駐輪場を探す。
すると、声を掛けられる。美術家の堀田真作さんだった。鯉江良二さんの展示明
日までだよと言うと、名古屋芸大時代の先生だという。じゃあと、一緒に会場に向
かう。会場に入ると、中川潤さんがいた。3人揃うのも久し振りだった。
4人の展示は想像どおりだった。シンプルでそれぞれの力、特色が出ている。
敢えて、共通する主題を見るとすれば<死>の様態という事か。ただ、<死>と
いっても一般的で、それぞれが固有の世界のものである。今年亡くなったY氏へ
の追悼もあれば、チェルノブイリの原子力をテーマとする死もある。風化・朽ちる
を主題とする死もある。4人が4人ともそれぞれであって、作家の個の内にそれら
は、留まっている。それぞれの視点ではあっても、交差する交点は不明瞭に思え
る。個々の作家の実力は別にして、展覧会としてのコンセプトには、疑義が残る。
勿体無いのだ。Y氏への追悼なら追悼として、それだけでも主題は深くなる筈だと
私は思う。個々の作家の力を考えれば、それぞれの主題だけでも充分に展覧会が
成り立つからだ。チェルノブイリの主題と、Y氏の死は、同じ土俵の主題ではない。
タイトルが全てを語っているように、<交差する視点>と<かたち>そのままであ
る。4人を集め展示する事だけに、企画の大半の力が費やされ、それぞれの視点を
かたちとして展示しましたで、終っているのではないだろうか。
ピッチャーがキャッチャーを兼任する事など出来ない事だ。
この企画展は今年2回目で、昨年は京都の陶芸家川上力三さんをゲストに招い
ている。今年は愛知県常滑の陶芸家鯉江良二さんである。札幌在住の陶芸家
下澤敏也さんが、主体となってこの企画は為されているからと思うが、現代美術
と陶芸の新たな出会いを意図しているかに思えるこの企画展も、3回目以降もま
た、道外から陶芸の著名作家とのジョイントを目玉にするなら、もう少し主題を明
確にした方がいい。紹介なら紹介と啓蒙、一緒に何かをするなら、その主題自体
に時間を掛け練り上げる事と思う。そうでないと、今回のようでは勿体無いからだ
。ワークショップとか陶芸の技術普及の公開講座を主体にするなら、そこに現代
美術風な4人の展示会は要らないと思う。個展だけでいい。
作家を有名ブランド化しネタにする招請展は、百貨店に任せればいいのだ。

*久野志乃展「物語の終わりに、」-7月22日(火)-8月3日(日)

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by kakiten | 2008-07-26 13:18 | Comments(0)
2008年 07月 25日

応と答ー夏の年(sak-pa)(47)

<応>が心で応えるなら、<答>は、「合で衆口一致で可なりと応対する事」と
ある。衆口一致で可なりとは、みんながいいと言う事だ。
私には、<応>の心の方が、みんなという<衆口一致>より個の心を感じるの
だ。同じ、<こたえる>でも<応える>と<答える>では、その位相が違う。
昨夜はIさんの車に乗せて貰って帰ったので、自転車は置いていった。
朝は歩いてギヤラリーに向かう。途中友人の街路樹に挨拶する。
”やあ、友よ”-梢を揺らせ、黙ってハグしてくれた。朝の応(おう)!である。
さっぽろの本府と呼ばれた、方形の計画された街に生まれた私は、この一本の計
画的に植えられた街路樹に、親近感を抱いている。同じ境遇だよな、そしてアスフ
ァルトの下の見えない川に触れ、逞しく生き生きして闘っているな。そう感じるのだ
。この一本の樹だけが、他の街路樹に比して勢いがあり、美しい立ち姿なのだ。
その訳を、彼の真下の暗渠の川の存在に拠ると、気付いてから、私の一方的な友
情は始まった。そしてそれから、いつもその前を通る度に挨拶する。すると、彼も
また、応えてくれる、そう思えるようになったのだ。

<フラットな、あのフラットな大基地に呪縛されてきた。その下に何かがある、何か
を想像することさえ出来なかった。>(吉増剛造)

札幌本府もまた、道庁を中心とする北海道開拓の為の明治の大基地である。
大通りを火防線とする直線の街路、物流の運河=創成川を東西南北の基線にし
て、計画的に造成されたこの街は、旧帝国大学の農業・牧畜の最先端パークと、
官営のビール工場、帝国製麻工場を従えた政治・経済近代化の最前線基地でも
あったのだ。
私が、一本の街路樹の生命の形の美しさに惹かれるのは、彼が人の手によって
移植された運命にありながらも、その根の部分において、地下の大地の血脈に
触れ堂々と生きている姿勢を感じるからである。そこに、自分自身の投影をも見
るからでもある。そして、そのようにこの街で生きたいと思うからである。
自転車に乗る事で、毎朝の友情の交感は、少なくなりはしたが、今日のように歩き
の時にはいつも彼との挨拶、”応(おう)!”は、欠かさない。
そして、その母なる源流の山への挨拶”my love”も、同じ歩行の道にある。
私は、さっぽろから発する”応(おう)”を、日々の歩行のなかで出会う事の出来る幸
せを、この一本の樹の立ち姿から頂いた事に感謝している。
それが、私のささやかな彼への挨拶”応(おう)”、という応(こた)えでもある。

久野志乃さんが、勤務前の朝早く来て作品を少しづつ加えている。
爽やかな青が顕わてきた。その青が主体の横長の作品が2点、増えている。
船を上から描いたという、瞳のような作品が今朝仕上がった。
2階吹き抜け上部の壁に展示された。<終わりに、>の最後の<、>が、いよいよ
本体を顕し出してきたのだ。終わりに続く始まりが、始まっている。

昨日次回9日からの展示者、アキタヒデキさんが来る。ほとんど出発前のパドック
状態である。この俊英の初個展も、今から気合が入っている。
来月5日予定だったが、及川さん、吉増さんの来演、来訪と予定が入り、9日に延
ばして頂いたのだ。吉増さんの「石狩シーツ」CDを聞かせると、これは絶対買うと
言う。この詩の場所を5月中嶋さんたちと歩いているから、なお一層心に沁みたの
だろう。そして、アキタヒデキ展最初の観客は、吉増剛造となるだろう。
延期の無理がこれで救われた気がした。
川俣正プロジェクトの東京芸大院生菊地拓児さんが来る。現在パリ在住の川俣さ
んからの伝言と近況を聞く。明年以降の新たな出会いが楽しみである。

*久野志乃展「物語の終わりに、」-7月22日(火)-8月3日(日)am11時ー
 pm7時(月曜定休・休廊)
*及川恒平ソロライブ「resonga vol8」-8月5日午後6時半~入場料3000円
 予約2500円
*アキタヒデキ展「点と点と展」-8月9日(土)-17日(日)
*森万喜子展ー8月22日(金)-31日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
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by kakiten | 2008-07-25 13:08 | Comments(0)
2008年 07月 24日

応えるという事ー夏の年(sak-pa)(46)

<応>と書いて、応(こた)えると読む。心でこたえる意味とある。
”おう”という音の響きに惹かれるものがある。対等に親しい感じがするからだ。
この”おう”を心になくして、人を迎える展覧会を見ると、いやあな気持ちがする。
今陶芸界の異能の人、古田織部賞受賞者鯉江良二が札幌に来ている。
この織部賞の過去の受賞者は、舞踏の巨人大野一雄、生け花の巨人中川幸夫
等である。大変な賞と思う。その鯉江さんを迎える札幌の応(おう)が、私には見
えない。札幌という場のやすやすと、人を迎える薄さ、軽さに腹が立つ。
鯉江良二に対し、私はいつも私のさっぽろを提示して招き、迎えてきた。それは、
’70年代からであり、数々の企画のなかで彼の異才を磨くように、時に対峙し、
突きつけ、その度に鯉江良二は、その要求する主題に応えてくれた。
しかし、今札幌にいる鯉江さんに対し、何も相互の<応>が感じられないのだ。
今日は泥縄式に急にCAI 2で岡部昌生との対談が組まれたようだが、あたかも
旧知の間柄を誇示することだけが、目玉であるようなふたりの紹介文を読みなが
ら、虚しい気持ちになるのを抑えきれなかった。都心に企画ギヤラリーを、という
能書きで札幌市長を始めとして、賑々しくオープンしたこのビル地下2階のスペー
スについては、当初から私は、批判的な立場にある。このブログにも何度かその
事は書いているが、売り物の<企画>の第一回が、「サッポロアート」というふや
けたカタカナ企画である事も批判として記した。市長さんがオープニングでカラオ
ケまがいに歌を唄ったのも、ご愛嬌といえばご愛嬌だが、肝心の企画が有料・無
料への歪小化と、カタカナ信仰の<サッポロアート>では、お里が知れるのである
。そして、ここへきて某外国ビエンナーレ出品の岡部昌生氏と鯉江良二を急遽対
談で組み合わせ、その有名性だけで括った<企画>には、何の必然性も場も感じ
られないのだ。
<サッポロ>化したカタカナのお化けが、グローバルな構造を誇示しているだけで
ある。さっぽろ不在のサッポロがあるだけである。場に対する<応>が命のフロッ
タージュ作家岡部昌生も、その心を何処に置き忘れてきたのか。ヒロシマにか、
自らのさっぽろ、その郊外のベッドタウン化したノースヒロシマすら念頭になく、
コイエ、コイエと擦り寄る姿は、その対談場所にすらなりふり構わず擦り寄ってい
る哀れとしか思えない。同時に開催されている「交差する視点とかたち」という4人
展もまた、個々の作家の力量は別にして、企画という点では何もインパクトを感じ
ない。交差する視点とかたち、・・それって当たり前の事じゃないか。4人も寄って
展覧会をすれば、交差するのは当然だ。どう、なにが交差したか、どう交差するの
か、その肝心な主題が無い。ぼんと放り出して見る者に任せる。だから、肝心な掛
ける<1>の主題が人任せである。この時<かたち>とは実体の無いお化けで形
容詞だけで成り立っている。お化けとは、場に立つ足が無いという事だ。
4人雁首揃えて交差する視点とは、正に宙に浮いた名前だけの<かたち>である
。さっぽろという場の<応>が、ここにも不在なのである。ひとりの作家の有名性だ
けに群がって、グループを組めばそれだけで企画というこの貧困なサッポロに、真
の<応>はない。

*久野志乃展「物語の終わりに、」-7月22日(火)-8月3日(日)am11時ーpm
 7時(月曜定休・休廊)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
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by kakiten | 2008-07-24 13:08 | Comments(0)
2008年 07月 23日

一気の雨ー夏の年(sak-pa)(45)

昨日は天気予報も雨。実際朝家を出る時も、円山方面は雨模様だったので、自
転車に乗らず出た。しかし、その夜雨降らず、ちQさんと久野さんと3人で個展初
日の酒を飲み、帰りは地下鉄だった。
今日は朝から曇天だったが、雨はなかったのでいつも通り自転車で家を出た。
途中競馬場の辺りで、きたね、一気にどしゃ降りが・・・。ひいえ~と、疾走する。
エルムトンネルの上では、もう雨止む。ただ、ズボンと頭が濡れ濡れ。
会場に着いた久野さんが、自転車?すごいわねぇと言う。
何がすごいのか聞き忘れたが、まあ、年寄りの冷や水とでも思ったのかしらね。
久野さんが、会社に行くと言ってすぐにまた会場を去った後、夕立のようにまた
どしゃ降りがきた。これじゃ、昼立ちだよ。
パソコンを開けて、Tさんのブログを読む。誕生花のことが書いてある。
細かく誕生日によって、花が違う事が判る。因みに自分のも、調べてみた。
ドイツあやめと出た。あやめが、漢字で文目と書かれていた。
ケンちゃん、やはりご縁ですね。ドイツの文目だそうです。
谷口顕一郎さんの9月のハンブルグの個展に文を書いた事を、ふっと洒落のよう
に思い出している。さしずめ雨に濡れた今日の私はドイツあやめ、どこのどいつ、
ばかめ、と言うところ。あやめには、雨が似合うぜ。
昨日の酔いが、別に残っている分けじゃないが、ちQさん、はたまたヤオさん、平野
貴弘さん、3っの名前をもつ男と久野さんと飲んだお酒は、美味しかったのは事実
だ。
午後の昼下がり、久野さんの親戚かと思しきご夫婦見える。品のよい方達である。
久野さんは留守かと聞かれる。仕事で今日はお見えになりませんと答えた。
残念そうな顔をして、花籠を置いていくと言う。お預かりして窓辺に置くと、しばらくし
て会場の円椅子を出し、正面作品の脇に置かせて欲しいと言う。断ろうと思ったが
持ってきた人の気持ちだからと思い、黙っていた。花が作品の傍では、作品の鑑賞
の妨げにしかならないのだ。冠婚葬祭や開店祝いと違う。でも、遠くからわざわざ花
籠を持参してきた方の気持ちだから、居らしゃる間だけはそのままにしておいた。
花束でもなく、籠にアレンジしたものは特に、それだけで会場で主張する存在となる
。気持ちと作品展とのこのズレは、日常にも多々ある事なのかも知れない。
私があなたを見る。あなたの社会的存在はない。私・あなたと、回路は固定される。
他者の周りは個の回路で遮断される。そういう私の親密さを、公として括る。
そうした好意・善意の閉じた世界が、時に過激なウルトラマリンに転じる時もある。
そんなブラックホールみたいな展覧会もあったっけと、ふっと思い出していた。

*久野志乃展「物語の終わりに、」-7月22日(火)-8月3日(日)
 am11時ーpm7時(月曜定休・休廊)
*及川恒平ソロコンサート「resongs vol8」-8月5日(火)午後6時半~
 入場料3000円・予約2500円
*アキタヒデキ展「点と点と展」-8月9日(土)-17日(日)
*森万喜子展ー8月22日(金)-31日(日)
*gla_gal展ー9月2日(火)-7日(日)
*新明史子展ー9月16日(火)-21日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
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by kakiten | 2008-07-23 12:57 | Comments(0)
2008年 07月 22日

久野志乃展初日ー夏の年(sak-pa)(44)

聡明で優しく凛とした先生という感じの人だった。友達にも人望があり、”しのちゃ
ん”と呼ばれ慕われていた。それが、最初あった久野さんの印象である。
「二十四の瞳」の女の先生のようなイメージが、私にはあった。事実その頃は、学
校の先生をしていた時期でもある。現在は先生を辞め、デザインの仕事をしてい
ると聞く。今は閉鎖したシンクガーデンという喫茶店形式のアートスペースを手伝
っていた頃に、初めてそこに展示された作品を見た。崖のような場所に佇む少女
の絵だったと思う。他の絵も同じようなシチュエーシヨンで、色彩も暗い色調であ
ったと思う。第一印象の人柄との落差を感じていた。その印象が再び訂正された
のは、今年のH画廊で展示された、台湾でのレジデンスから帰国した直後の絵を
某美術ブログで見た時である。この展覧会は、個展ではなく斎藤周さんとの2人
展ではあったが、明らかに以前の暗い崖のような境の構図は消えて、暖色の炎
のような色彩だけで構成されていたのである。
あ~、やっぱりなあとその時思った。彼女はやはり、太陽系の内側から輝く素質
の人なのだ。境を見詰める、内に後退した視座は本来ではない。
しかし、台湾から帰国した直後の、輝くような内から発する光明の色彩は、今回閉
じつつある。2階吹き抜け正面に懸けられた大作には、再び難民の少女のような立
ち姿が現れ、周囲には災厄の炎のようなオレンジ、橙色の色彩が燃え上がってい
る。あの透明な太陽のような明るい色彩は消え、爆撃され炎上する村、都市の災厄
の炎のように、それは見える。顔の無い少女の立ち尽すような姿が、そこに顕われ
るからである。外部世界と身体ごと対峙していた時の、間(あいだ)、境(さかい)の
解放感が消え、外部世界と内部世界を凝視する区別の間(あいだ)へと、その視座
が内向きに後退している。1階北側にある大作は、その構図を絵解きのように表わ
している。手前に、円い池のように見える机が青空を映して置かれ、その左手には
梯子が描かれている。画面中央を森の樹が数本配され、その樹の奥正面中央には
、深い森へと歩む赤い服の少女の後とも前とも見える姿が、小さく見える。
空を映す水のようなテーブル、その向こうの格子のような疎らな幹、そして赤い服の
少女の歩む小さな後姿。この構図は分断された内界と外界の二元化された現実を
見詰める、後退した視座そのものと思える。
異国の只中で暮らしていた時、内なる世界は、外界に対して溢れるような直接性を
保ち、新鮮な色彩の光彩を発していた。
帰国して取巻く日常は、何故その光彩を翳るように閉じていくのか。
その事に作家はまだ、充分に自覚的ではないと思える。
今回の個展のタイトルとなった「物語の終わりに、」の末尾に何故か敢えて記され
た<、>の存在こそが、終わりが終わりではない事の、作家の小さな、しかし断固
たる<志>の表意と、今は信ずるものだ。

*久野志乃展「物語の終わりに、」-7月22日(火)-8月3日(日)am11時ーpm
 7時。月曜定休・休廊
*及川恒平ソロライブ「resons vol 8」-8月5日(火)午後6時半~
 入場料3000円・予約2500円
*アキタヒデキ展「点と点と展」-8月9日(土)-17日(日)
*森万喜子展ー8月22日(金)-31日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2008-07-22 12:40 | Comments(0)
2008年 07月 21日

<立>と<大>-夏の年(sak-pa)(43)

酒井博史さんが、石の印材に<立>と<大>の字を彫る。
私が道立と道大の話を、昨日ブログに書いたのを知り、彫ることにしたと言う。
大地の上に人間が立つ、その形象文字が<立>つ、である。
大地が足下から消えて、<大>の字になる。その過程が、幾つも印影となって
壁に捺印されて貼られた。<立>が足元の一を喪って、<大>の字になり、最
後には転がるように、床近く下の壁に貼られる。彫ることも含めて、展示もひとつ
のインスタレーシヨンになっていた。午後過ぎから小樽の森さんご夫婦と息子の
維吹くんも見えて、段々人が集まりだした。注文の印鑑を石材に彫り、合間を見
て、立と大の字を彫り込み、その試しに捺印した紙が次々に壁に貼られる。
注文を受けた判の試しに捺印された紙も同様である。夕方には壁一面が、捺印
された朱色の判の字で埋まった。印鑑用の漢字は、原形となった象形文字に近
いので、非常にヴィジュアルである。小さな認めのような印鑑も、柔らかな和紙に
印字されると朱肉の赤が、字の保つ形象をより引き立てるのだ。音が基本の文字
と違って、物の形を象徴的に記号化していく過程がよく解るのである。
最後に11月2人展の中嶋幸治、國枝絵美さんも来て、ふたりのなにやら呪文のよ
うなカタカナ6文字の注文を仕上げて、酒井さんのてん刻ライブは終了した。
森維吹くんとも久し振りに友情を確かめ合うようにじゃれて遊んだが、その姿に中嶋
さんが、彼が噂の子供かと笑顔で眺めていた。
閉廊後酒井さんと平岸のかりん舎に向かう。村岸宏昭さん作品集の打ち合わせを
兼ねて、夕食に誘われていたのだ。
初めてお訪ねする坪井圭子さん、高橋淑子さんの拠点かりん舎である。
壁や棚を埋め尽くすような本・資料の数々。その奥に大きな机があり、美味しそうな
料理がこれまた机を埋め尽くすようにあった。
挨拶もそこそこにすぐ食事となる。野菜の量の多さ、煮付けの沁みこんだ味、分厚
いトンカツと、私の眼は食欲となる。満腹となって初めて大きな猫のいる事に気付く
。猫と本と食事。かりん舎の印象はこの3っに尽きる。そして、それらを支えるふたり
の出版への熱い志(こころざし)である。
今日午後、久野志乃展搬入・展示始まる。
こうして展示を手伝いながら作品が並ぶと、配置の決まる度に、ひとりの人間の今
が否応無く存在し、悩み、見詰め、立っている姿が感受される。
その立つ位置、立つの下の一が、時代と個との関わりにおいて在ることに気付く。
いい個展、作家にとって、大切な個展となるだろう。
決して大の字には、安住はしていない。立っているよ、久野志乃さん。

*久野志乃展「物語の終わりに、」-7月22日(火)-8月3日(日)
 am11時ーpm7時・月曜定休・休廊

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2008-07-21 14:30 | Comments(0)