<   2008年 04月 ( 23 )   > この月の画像一覧


2008年 04月 30日

方斎な日々ーランドとしての石狩(31)

ほぼ毎日朝から佐佐木さんが画廊に通って来ている。毎日あまり人の来ない廊
内でふたりで話込む。話題は時を超え、人と場に渉り尽きない。
従って、このところブログに集中する時間もなくなる。
昨日は祭日の所為もあり午後からビールを飲みだす。旧天皇誕生日、昭和の日。
話はとりとめもなく彼の親友の阿閉正美さんの最後の様子や、その間病院から送
られてきた多くの詩を、死後何とか世に出してやりたいという佐佐木さんの想いが
、ついに昨年自らの作品を処分して出版した話などを聞いた。
夕方ラーメンを食べたいと言うので閉廊後近くの中華屋へ行く。
学生街なので安くてボリュームのある一杯が出てくる。これはいいと喜んでいる。
お酒も注文して飲む。自分はあんかけ焼きそばを頼みガツガツ食べていたが、ふ
っと見ると佐佐木さんは、レンゲでスープを何度も美味そうに啜っている。麺には
いかずスープばかりをしばらく繰り返し啜っていた。暖かく美味いのだろう。なんと
なくチョンガの孤独を思った。この時私の眼はきっとマザーシップに満ちていた事
だろう。それから酒を飲みながら、ふっと呟いた。こんな風に酒を飲めるとはなあ。
2年前に会った時にはベッドの上から出る事はなかった。それから「格子群」の個
展をし、昨年は親友の詩集を自費で出版した。今年はこうして私と酒を飲んでいる
。そして一日中ふたりで来し方を語らいあっているのだ。かって周囲にいた友人た
ちも去り、かって遠かったふたりが、何故かこうして終日一緒に居るのである。
人生とは不思議な縁である。世間的に功成り名を遂げた共通の知人達とは遠くな
り誰ひとりここに訪ねて来る気配もないのだが、その事は何の気にもならないのだ
った。今こうしてそれぞれの’80年代、’90年代に続く今を、まるで彼がラーメンの
スープをしみじみ賞味するように我々はその時間を味わっているのかも知れなか
った。佐佐木さんから借りた本庄睦男の「石狩川」を休日にじっくりと読んだ。
以前から気になっていた本である。トウベツ、シップ、イシカリ河畔とサッポロの対
比が心に刺さる。ふたつの新開地の対比が官と民の構造となって鮮やかである。
あらためて今に変わらぬ都市構造を思うのだ。
ーRepublic of May in Ishikariーをあらためて強く意思する。
明日から5月。すでに今年は早い夏が始まって、シラネアオイの花ももう咲いたと
聞く。冬と夏の境界を野に山に海に、来週から少し歩き廻りたいと思う。

*佐佐木方斎展「meta絵画」-5月4日(日)まで。am11時ーpm7時。
*小林麻美展「風景がわたしをみている気がする」-5月9日(金)-15日(日)
*岡和田直人展ー5月21日(水)-30日(金)
*斎藤周展ー6月7日(土)-22日(日)
*細井守展ー7月8日(火)-13日(日)
*酒井博史てん刻ライブー7月20日(日)
*久乃志乃展ー7月22日(火)-8月3日(日)
*森万喜子展ー8月
*新明史子展ー9月
*梅田正則展・阿部守展ー10月
*河田雅文展ー11月

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
[PR]

by kakiten | 2008-04-30 12:11 | Comments(0)
2008年 04月 27日

往還する時・人・場ーランドとしての石狩(30)

4月ももう終る。
イシカリ・さっぽろ5月の共和国。夏の年の始まりが今年は早い。
小樽のMさんが訪れ、昨夜は佐佐木さんと話に花が咲く。
故人となった人、かってあった場所。話に時が往還する。
小樽・桜倶楽部も懐かしい。
小樽文学館にいた人と、どこか似た輪郭の淡さを想う。
’90年代後半から閉じていた佐佐木方斎さんの時間が、
それ以前の記憶の蠢きとともに、こうして出会う人によって復活してくる。
その度に彼の表情もまた、生き返ってきているように思えるのだ。
私には遠い知見だけの人たちが、
彼の時間の中では濃いくっきりとした輪郭の人である。
私の記憶の時間と、彼の記憶の時間の間に訪問者が入ると、
その記憶は、過去から立体的に甦る。
そこで私の知見の人は、その時間のなかで活き活きとその姿を現す。
微かな印象の底に眠っていたコアが開き拡がる。
そしてその生きていた時間の薫りが、湧き上がってくる。
それぞれの生きてきた親密な時間が交錯して、新たな発見に染まる。
遠く、’70年代から今に至る時間が地続きになって、
モーゼの海のように、遮断した時に道が続くようだ。
佐佐木方斎「meta絵画」展は、
そのmeta(間に、ともに、変化して、後に)の意味のように
会期中の時間を日々に熟成していくだろう。

*佐佐木方斎展「meta絵画」-5月4日(日)まで。am11時ーpm7時月曜休廊
*小林麻美展「風景がわたしをみている気がする」-5月9日(金)-15日(木)
*岡和田直人展ー5月21日(水)-30日(金)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
[PR]

by kakiten | 2008-04-27 12:49 | Comments(0)
2008年 04月 26日

格子・余剰・自由ーランドとしての石狩(29)

佐佐木方斎の作品集のタイトルを3っ並べてみると、私自身の来し方とクロスす
るものをずっと感じていた。碁盤の目に計画された方形の街。その方形が、空に
高層化した時その街を出て、円山北町で溢れた<燃える街角>の志。そして、再
び方形のマンシヨン群の流れのなかで、そこからの余剰のように漂流したこの3年
。そんな風に重ねて感じるのである。そしてこの3っのタイトルをもつ作品群の装丁
が、開かれる函の形を保っている事にも深い共感があった。

<・・美術は、青黒い沼地に沈んでいるより、青空を疾駆する天馬のような世界で
あってほしいと願う。・・・「美術ノート」は、あくまで一地方の小冊子にすぎないし、
どれほどの力があるのかも分からない。それでもやはり外側には開いていたい。
>(「美術ノート」№5・’85 5・6月号編集後記)

佐佐木さんのこの述懐とも取れる、呟きにも似た文章に一昨年夏の個展を企画し
た時出会って、その共感の友情は今も変らないのだ。本人は今更と照れて、この
文の事を言うと否定的になるが、彼のしてきた仕事は、この<それでもやはり外
側に開いていたい。>という言葉に貫かれているのである。「格子群」の以前には
、滲みのような作品を創っていたと言う。今回の無地の塗り込められたホワイトホ
ールのような画面には、その滲み出るものが蠢いている。彼は多分新たな格子・
余剰・自由を、この後展開していくだろうと思える。それは期待を込めてのエールと
してもそう思うのだ。毎日会場に通ってきてくれる佐佐木さんとの語らいの中から、
私達はすれ違いながら過ごした’80年代’90年代を今何故かこの2000年代で
ともに繋げつつあるのだ。

*佐佐木方斎展「meta絵画」-4月23日(水)-5月4日(日)am11時ーpm7時
 (月曜休廊)
*小林麻美展「風景がわたしをみている気がする」-5月9日(金)-15日(木)
*岡和田直人展ー5月21日((水)-30日(金)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
[PR]

by kakiten | 2008-04-26 12:28 | Comments(0)
2008年 04月 25日

余剰群な夜ーランドとしての石狩(28)

昨夜は花田和治さんと佐佐木方斎さんと私の3人で飲んだ。花田さんが踊るのを
、初めて見た。花田さんの案内で佐佐木宅を訪問したのは、2年前の2月頃であ
る。その出会いがなければ今回の個展もない。そんな気持ちが心の底流にどこか
であって、3人でいるのが楽しかった。「metaレリーフ」という立体の未発表作品が
まだあると佐佐木さんが言う。これを機会見て発表しようという話も出た。そう、溜
めているものは、一回全て出してみたほうが良いと応えた。今回の薄皮一枚のよ
うな作品群はさらなるものを促がしているのだ。俯いて死ぬなよ、前を見据えて死
ね。そんな過激な感情が、佐佐木さんに対して湧きあがったのだ。気功の呼吸の
ようにまず吐け。そして吸い込む。「metaレリーフ」という作品群まで私は彼と付き
合う事となりそうである。1、2の3で出立である。ホップ、ステップ、ジャンプ。3の
ジャンプで佐佐木方斎の真の再生が為されると思うのだ。今までの彼の最高傑作
「格子群」「余剰群」「自由群」の3部作はそのタイトルの通り、凝縮・横溢・展開の
1、2、3でもある、余剰とは格子の区別性に対して溢れるmarginalな世界を意味
している。自ら意志した今回の個展は、格子のなかの失われた十年を溢れる余剰
の意志によって為されたものと思える。内から何かが零れ出して、昨日の夜もあっ
たのだ。作品を展示するという、たったそれだけの行為にも人の一生が、生き様が
ある。そのことを軽んじてはいけない。その個人的な理由のデティールに大きな命
の露が宿っている。marginalな、余剰の、欄外の、3人の夜だった。
marginalという言葉を教示して頂いたK大姉へのささやかなご報告でもあります。

*佐佐木方斎展「meta絵画」-4月23日(水)-5月4日(日)am11時ーpm7時
 (月曜休廊)
*小林麻美展「風景がわたしをみている気がする」-5月9日(金)-15日(木)
*岡和田直人展ー5月21日(月)-30日(金)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
[PR]

by kakiten | 2008-04-25 12:35 | Comments(0)
2008年 04月 24日

marginal manーランドとしての石狩(27)

風強く曇天。自転車は置いて出る。手稲山は灰色の空に塗りこまれて見えない。
開廊前に加藤玖仁子さん来る。久し振りの対面。佐佐木方斎さんの復帰を、心か
ら喜んでいた。Mさんに頼まれていた加藤さんのアバカノヴィッチ論「手に触れる
永遠」の本にサインをして頂く。そして、ずっと聞こうと思っていた<境界(さかい)
>の訳を聞く。-marginal manーとすっと答えてくれた。marginal-へりの、
縁の、欄外に書いた、余白のー。そうか・・、ふたつの世界の間の存在。この場合
世界というより社会に近いのかも知れない。もっとその辺を聞きたかった。
帰り際、作品画面にさっと手で触れて、風のように去っていった。
昨日初日は、佐佐木さんと「界川游行」「石狩の鼻曲がり」のヴィデオを見る。
夕方、現代作家展のメンバーだったAさんやNさんが見える。
その前に久し振りにMさんも見えて、’90年のアートドキュメントの記録集や「美
術ノート」をじっくり見て佐佐木さんと話していた。初日の昨日はやはり懐古的な
時間が続いた。時間の長さに関係なく今にタッチしていたのはやはり加藤さんだ
った。Aさん、Nさんの話に今はオールドでしかない。それはそれでいいのだが、
そこに私の入る余地はあまりない。そこで同じ時間を共有はしてこなかったから
だ。今とは、当時離れた位置にいた佐佐木さんと私がこうして新鮮な気持ちで、
「界川游行」のアートイヴェントの作家たちをともにヴィデオで、見ている事である
。これは懐古ではない。今の新たな出会いなのだ。当時別々の環境にいたふたり
が、過去と今に分断される事なく、開かれた余白の、重なるへりの時間を共有して
いる事である。marginalな<剰余の>時間だ。
自然という世界では、余白の、欄外の、余剰の時間とは、溢れる豊かさではない
だろうか。人間社会の世間という社会では、どちらにも属せない区別・差別ひいて
は分断の悲しい寂しい難民のものとなる。このふたつの余白・余剰・へりの差異を
生きること。佐佐木さんの回顧の時間に私はいない。過去と現在という区別のどち
らにも属してはいない。そのことを昨夜のAさん、Nさんとの会話の中で感じていた
のだ。
夕方、花田和治さんが来る。佐佐木さんや私と喧嘩状態のような事もあったが、口
では乱暴に言うが本心はこの個展を喜んでくれている。すっかりハイテンシヨンで
ある。武士の商法だ、このとか言いながらご機嫌だった。2年前花田さんの案内で
佐佐木さんの家を訪ねたことは忘れない。佐佐木さんと花田さんの親友同士の多
少乱暴な会話が続く。

*佐佐木方斎展「meta絵画」-4月23日(水)-5月4日(日)am11時ーpm7時
 月曜休廊
*小林麻美展「風景がわたしをみている気がする」-5月9日(金)-15日(木)
*岡和田直人展ー5月21日(月)-30日(金)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
[PR]

by kakiten | 2008-04-24 12:30 | Comments(0)
2008年 04月 22日

もう夏のようだーランドとしての石狩(26)

競馬場横の柳の大木が一気に芽吹き、若葉となり緑の簾のように見える。
その手前にある桜も満開で、淡い柳の緑を緞帳にして、その薄紅が映えている。
続いて道に沿って並ぶポプラは、若葉が小さく竹箒を逆さにしたように見える。
大野一雄の津軽ジョンガラの踊りを思い出す。竹箒を逆さに高く掲げていたな。
とにかく一気の夏・もう初夏のよう。もう一度寒の戻りもあるだろうに。
設置予定を1日早めて、昨日夕方佐佐木方斎さんの展示終える。
白い無地の薄明のような画面が並ぶ。大小あわせて12点。
よく見ると、うっすらと容(かたち)がある。-・・・中身を盛り上げるから、かたち、
すがたがさまざまとなり、うごくことともなる。-「容」の解字。
形(かたち)は限りなく無い。容(かたち)として内側に在る。
約10年間の、沈黙の時間を象徴するかのような作品である。
あの色彩と直線の溢れる彩(いろ)は、もうここにない。
ひたすら白く、時に乳白色に、塗り込められた画布があるのだ。
閉じたままに顕すこと。顕われる事のない閉じたものが、容として今、ウゴクコト
トモナル。この必死さは、画家であることでしか為し得ない、と思われる。
会場には出来る限り毎日顔を出すと言う。
多分、居る事も今回の作家の存在証明。作品とあわせて佐佐木方斎の<容(かた
ち)>が、今展の主題となる。
最終日までの10日間に、見る人と作家・作品がその容に形を加えていくのだろう。

*佐佐木方斎展「meta絵画」-4月23日(水)-5月4日(日)
 am11時ーpm7時(月曜休廊)
*小林麻美展「風景がわたしをみている気がする」-5月9日(金)-15日(木)
*岡和田直人展ー5月21日(水)-30日(金)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
[PR]

by kakiten | 2008-04-22 14:57 | Comments(0)
2008年 04月 20日

タッチする今ーランドとしての石狩(25)

山笑うと言う。しかし、遠くの峰はまだ真っ白な頂きを見せている。
平らな山頂部が続く無為根山。遠く霞む暑寒別連峰の白い峰々。
麓の春の向こうに、白い冬が見える。
ここにも自然の境界(さかい)が美しい。その境界を融けてつなぐものがある。
白い固形のものが解(ほど)けて、華やぐ色彩を生む。
そのふたつの世界をわたしたちは今、つなぐ季(とき)にいる。
及川恒平さんの新作録音。佐佐木方斎さんの復活。
このさっぽろの季(とき)もまた、Reーpublicする時のようにある。
過去に、今に続く優れた仕事をした人たちがこうして、過去と現在をつなぐ美しい
界(さかい)となって、溢れてくるのを見るのは嬉しい。
現在という今が、過去という分断・区別の堰を乗り越えて、活き活きと再生
してくる。開かれた新鮮な境界(さかい)の世界。タッチする現在がある。
冬に触れて、春・夏がある。冬に触れて、秋・夏もある。
季節の入り口の覚めやく波動が、人にも伝わってくるのだ。

*佐佐木方斎展「meta絵画」-4月23日(水)-5月4日(日)am11時ーpm7時
 (月曜休廊)
*小林麻美展「風景がわたしをみている気がする」-5月9日(金)-15日(木)
*岡和田直人展ー5月21日(水)-30日(金)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
[PR]

by kakiten | 2008-04-20 14:29 | Comments(0)
2008年 04月 19日

季華やぐーランドとしての石狩(24)

夏の年が始まったなと感じる。暖かな日。昨日は前夜の不眠もあって、日中眠く
ぼんやりしていた。今朝は快調である。競馬場横の柳の大木も、若葉の梢が煙
るように緑を揺らしていた。佐佐木方斎さんから電話くる。個展をしたいと言う。
以前その話をしていたのだ。急だったがスケジュ-ルを考えるともう秋近くなって
しまう。よしっと、5月前来週からに決めた。今月は予定のスケジュールが狂った
ので常設展示を続けていたが、ここに佐佐木方斎展を入れる事にした。
’80年代のコアとして美術の地平を切り開いてきた佐々木さんの復活は、心強い
朗報である。一昨年夏故村岸宏昭さんの個展の後、そして村岸さんの遭難死の
時に佐佐木展を開いていた。それ以来佐佐木さんは元気を回復し、念願だった
親友の阿閉正美さんの遺構集も自費出版している。彼が出版し続けた’80年代
の「美術ノート」は今もその時代の輝きを失ってはいない。優れて美術家でありな
がら同時に、時代に対して真っ向から向き合い、ジャンルを超えた文化の諸相を
引き受け続けて突っ走った俊英である。その佐佐木さんが自ら個展をしたいと言
うのは、朗報なのだ。’90年代後半から10年は死んだように姿を消していた彼が
、今回は自分から個展の意志表示したのだ。一昨年の個展は、私が強引に組み
立てたものだが、今回は違う。
つられるように、5月個展予定のAさんから電話。某スペースの情報を伝えてくれ
る。ここからも比較的近くサクシコトニ川沿いの空間である。ふっと頭の中で閃く
ものがあった。それはこの場が、深い地軸に触れ、開かれていく川のような、煙
る若葉のような時だった。季(とき)華やぐ。
佐佐木さんの芽吹く力もまた、自然である。自然の季である。
これで腰に残った冬も、消えてきたなあ。

*佐佐木方斎展「メタ絵画」-4月23日(水)-5月4日(日)am11時ーpm7時
 月曜休廊
*小林麻美展「風景がわたしをみている気がする」-5月9日(金)-15日(木)
*岡和田直人展ー5月21日(水)-30日(金)
*斎藤周展ー6月7日(土)-22日(日)
 7月細井守展、久野志乃展 8月森万喜子展 9月新明史子展 10月阿部守展
 11月河田雅文展を予定しています。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
[PR]

by kakiten | 2008-04-19 13:43 | Comments(0)
2008年 04月 18日

有言・無言の挨拶ーランドとしての石狩(23)

自転車もまた車である。当然の事を何故書くかというと、有言・無言の挨拶が出
来ないからだ。友人の木への挨拶”やあ、友よ”。愛する奥三角への挨拶”my
love”。歩いていると、自然に目があって出る言葉が、自転車に乗るとその機会
が失われる。まさか、途中で停まってそんなことも出来ないし、気持ちの余裕も
ない。そこが、車たる所以である。その代わり散歩中のワン公には挨拶される。
腰を心配してか、Gさんから電話がくる。ペットボトルにお湯を入れタオルを巻い
て背中に背負うと良い、という事だった。腰曲げて、即席湯たんぽを背負う姿を
想像するだけで、効きそう!ついでに杖でも突けばもう言う事ない。
昨日道新夕刊文化欄で、ささやかな収蔵品展の展示を評価してくれたのが嬉し
い。<小品ながら、手のひらの宇宙ともいうべきその集積は、70-80年代美術
の軌跡を示す。主宰者は再び彼らの作品を中心に展覧会を企画し、コレクシヨ
ンから未来を臨む。>(季評美術1-3月 久米淳之) 
車で走るように次々と風景が変わるのもギヤラリーの定めだが、時にこうして立ち
停まり身近な作品たちと挨拶するのもいい。そこからまた新たに見えてくるものが
ある。その事を、しっかりと見てくれた評者には感謝するのだ。
この収蔵品展のきっかけのひとつともなったA君から、個展延期のお詫びとともに
嬉しいニュースが届く。某企業のデザイン大賞にノミネートされ社長賞を受賞した
という。東京まで授賞式に出かけ、ウハウハの様子が目に浮かぶ。友人たちから
のお祝いのメッセージもたくさんミクシイに来ている。みんな傑作の暖かいコメント
である。そのなかで、ー”おめで父さん”-というのがぽつりと入っていて笑った。
つられて、-”涙で母さん”ーと並べておいた。馬鹿馬鹿しいけど、なんとなく笑え
る。この受賞でA君も弾みがつくだろう。
収蔵品展の収獲とその待機の時間が、また次の展開に繋がったのである。
[PR]

by kakiten | 2008-04-18 11:23 | Comments(0)
2008年 04月 17日

S・Mさんの独立ーランドとしての石狩(22)

ぎっくり腰が少し落ち着いたので、恐る恐る自転車に乗る。乗ってしまえばどうと
いう事もない。ただ停めて降りる時には気を付けないといけない。特に地面が坂
になっていると、足の着地が伸びきって不安定になり、ぎくっとくる。疲れは腰に
溜まる。コートも薄くしたので、寒さがくる。腰にまだ冬が残っている。
腰を気にしていると、要(かなめ)ということが、気になる。
過日ドイツ・ハンブルグのS・Mさんのことが新聞に取り上げられていた。
見出しには大きく「和の感性 伝えたい」とある。今年から自らの名前をギヤラリー
名にして独立する彼女の活動を伝えた記事である。その独立の意味について、こ
の記事は何も伝えていない。日本の現代美術を紹介し続けようという彼女の決意
の軸芯は、この記事からは何も伝わらないのだ。
まずなによりも、見出しの「和の感性」とは何であろうか。洋に対して和を使ってい
るだろうが、この大雑把な「和」には、「富士山・芸者」程度のイメージの貧困しか見
て取れない。現代美術の発信とは程遠い見識である。「和」という発想には、日本と
いう国家意識がある。この場合の「国」とは、正確には「邦」というべきで、邦人とか
邦訳とかで使うクニである。大きな国家の視線は、小さな<国>の喪失であり、自ら
の生きている足元の喪失であり、個別性の喪失でもある。十勝・帯広出身のS・M
さんを「和」で括る事に何の違和感も感じない感性は、薩摩も信州も、津軽もいっし
ょくたにした、内なる亡国の感性なのだ。「和」という当り障りのない都合のいい概念
には、ナシヨナリズムの昂揚はあっても、個から発するコンテンポラリーな見識はな
い。一地方新聞であるこの記事を載せた新聞社には、自らが立脚している<地=
国>の視点が喪失して、<邦=国家>という次元でしか文化を見ていない不見識
を曝け出している。固有の地域という<クニ>を失って<邦>が<国>を呑みこん
でいる現状は、一種のブラックホール、観念のメタボリック症候群でもある。
札幌市が約200万人の人口に達しつつも、全道の総人口は500万人強で変わら
ない現状で今さっぽろに起こっている現象に、さっぽろの喪失がある。
道央という云い方で先ず道西が消える。道立という云い方でさっぽろが消える。
石狩は石狩市となって、かっては石狩国札幌だったさっぽろから、石狩も消える。
この<国>という固有の地域の消失は、お国自慢、お国土産という自然とともにあ
った景色を消す。”白い恋人”には、おフランス風の無国籍なイメージしかなく土産
(みやげ)の”土”はない。つまり、ランドがない。国がない。
<和>と国家化した邦(クニ)に増幅されたナシヨナリズムは、文化の軸心にはなら
ない。わが国古来の音楽を、邦楽と言う。洋楽とは区別した時に使う。もうこの次元
で現在は切り離される。今現在を、根拠にして新たな価値を創り続けるものが、洋と
和で区別され分断されて、現在は消去され、権威ある過去に繰り込まれてしまう。
S・Mさんの新たな決意、その独立を「和」で括る事は邦(クニ)で括る事であり、邦
楽ならぬ邦画美術に分断し、表現の基盤にある風土・地域を亡国のまま、軽薄な
ナシヨナリズムに貶めるものだ。
こんな難民のような国を無くした邦人が、グローバリゼーシヨンの名の下に徘徊し
たところで、文化に何も生まれないのは自明の謂だ。今、海外にいる人よりも自国
内で、住んでいる都市の内側で、亡国・難民の不毛が拡大している。ひるがえって
異国でのS・Mさんの独立は、その亡国・難民からの自立、自国の発見の為でもあ
るのだ。
[PR]

by kakiten | 2008-04-17 15:37 | Comments(0)