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2007年 12月 31日

パンドラの箱ー視線と拠点(20)

今年も今日で終る。振り返れば死者への想いに満ちた1年だったとも思える。留
守中村岸宏昭さんの資料が北村先生から送られ届いていた。彼の遺したブログ
のコピーである。また最後の個展となった「木は水を運んでいる」のドキュメントも
併せて綴じられていた。その内容は私のブログからの抜粋で構成されている。あ
らためて彼が編集した自分の文章を今は感慨をもって読む。その日、その時間に
しか書けなかった文である。その毎日の記録を故人はきっと嬉しくそのまま構成し
編集して自分の個展のドキュメントとしたのだ。そのなかで最後に引用されていた
一節がある。ー<作品にとってその光を発する万華鏡のような装置、函、それが
ギヤラリーという空間である。箱ではない。集まり、溢れる函なのだ。大函、小函
と川の水の集まり溜まり溢れるその函だ。>-この半月後に四国の鏡川で遭難
死した村岸さんはこの時どのような気持ちでこの文章を最後に置いたのだろうか。
鏡川という名前の今だ見たことのない遠い四国の川。その名前からイメージされ
る深い淵を保つ川。そこにはきっとこの文のような函があるのかも知れない。暮れ
も押し迫った昨日この文章を手にして何か今年1年を象徴するように思えてならな
い。ハコはハコでもパンドラの箱だったなあと思う。-パンドラの箱:ゼウスがパン
ドラに与えた箱(開くと災難と苦悩が飛び出し、希望だけが残った)-ギリシャ神話
。ハコに集まり溢れるのは光だけではない。災難と苦悩もまた、溜まり集まる。悪
意や殺意、誹謗と中傷、シカトと密通。そんな負のものも集まり溢れる。妖怪とゾ
ンビが猛り狂うような情念の絡み合いもまた封印から解かれて函となる事もあるの
だ。この1年を思えばそんな1年でもあったようにも思える。その意味では昨夜のラ
イブドローイング「乱」は封印を解かれたふたつの情念のパンドラの箱のようにも見
えた。多勢の観客はお化け屋敷の前に立つオドロオドロした雰囲気の内にいたよう
に思う。この1年の災厄、災難、苦悩のすべてが凝縮され飛び出しているようであっ
た。先が見えないと指弾され、みんながそう見ていると当てこすられた負の総決算
が集約しているようであった。影のゾーンが集まり、顕在化して襲いかかってきた。
先日さる番組で三船敏郎が最初に役者のオーデションを受けた時の逸話を見た。
多勢の審査員のみんなが三船敏郎の生意気な態度に不快感をもち落第がほぼ決
まりかけていた時たったひとりの審査員だけが評価したという。そのひとりが黒澤
明に三船を紹介し後の三船敏郎へと繋がったという話だった。この時の<みんな>
とは何だろうか。世間というものだろうか。この<みんな>という多数に拠ってそれ
に便乗してひとりを抹殺しようとする権力寄生の圧力とその多数に拠らずひとりを
評価する希望の力とこのせめぎ合いにこそ本当の<ひとり>の戦いがある。その
戦いこそが希望という名の意志なのだろう。深い淵の水の底から1年以上経って届
いた村岸さんの遺した文章の数々はきっとパンドラの<函>のように希望の存在を
同時に伝えてくれたのかもしれない。力足りず苦悩と親しい人との別れに立ち会っ
た1年であった。再び自らが信ずるさっぽろという海に向かい小さく狭いこの函を熱
く凝縮し溢れていきたく思います。今年最後のブログは多少私事に偏ったかと思う
。許されたく・・・。
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by kakiten | 2007-12-31 16:14 | Comments(0)
2007年 12月 30日

年も暮れゆく・・-視線と拠点(19)

しばらく今週は閉門蟄居の如く会場を留守する。従ってブログも中止を余儀なく
され多くの方に心配をかけた。体調が別に悪い訳ではない。年の瀬も押し迫り
今日で今年最後の展覧会「木村環×藤谷康晴」展も終る。今年1年突っ走って
きた藤谷康晴さんとそれに呼応するように併走してきた木村環さんのある意味
でバトルともなるライブドローイングが午後5時から2時間行われる。昨年7月藤
谷さんは1番街の細密な都市風景を発表し、その都市を凝視する抑制し鬱屈し
篭っていた情念を一気に吐き出すように表現した個展最終日のドローイングを起
点にして藤谷康晴さんのその後の表現活動が展開される。ライブドローイングを
主とする彼のこの1年の活動は場を変え止まる事を知らず毎月続いたのだ。一
方の木村環さんは今年5月ここでの個展を皮切りに藤谷さんに触発されるように
やはりほぼ月一回のペースで個展を続けてきた。彼女の作品は鉛筆画による人
間のシニカルで幻想性に満ちた一見メルヘンチックな具象的な作品である。彼女
の具象は人間の情念にその主眼があり藤谷さんのかっての具象は都市風景に
その主眼がある。藤谷さんの描いた都市風景には一切人の姿が無く、切り取られ
た等身大の目線のビル街の建物だけが描かれていた。点描画のように細切れに
された小さな作品には人が描かれる事もあったがそれはほとんど情念を保たな
いマネキンのように見え、都市の点景でしかなかった。それに比して木村さんの作
品に描かれる人は皆過剰なまでに情念的な人物である。謎めいた笑顔を浮かべ
るその人物は時にシュールな悪意と森の妖精のような多次元の世界を顕していて
情念の幻想性に満ち満ちている。このふたりの世界は表面上は対極的な処にあ
るのだ。藤谷さんが細密な都市風景を捨て抽象的な蔦のような曲線だけで構成
するライブドローイングを表現の軸に据えてからその画面からはすべての具象が
消える。彼は裸の、情念だけの世界になったのだ。木村さんの具象は人の形を
とりながらもその内側から溶解するように情念の妖しい蔦が植物のようにはみ出
ている。藤谷さんの画面には人はいない。ストレートに情念の形がその現場で描
き出される。木村さんが人の形特に顔を基点に発するとすれば藤谷さんは場を基
点に会場となる場所を基点にその情念を発するともい得るだろう。その相違点は
作家の男性性と女性性の相違とも思える。今回基点の異なるふたりがその情念
の表現世界を交叉させる事を意図として、木村環さんの描いた画に藤谷さんが
直接ドローイングに挑戦する。これはふたりの立脚基点の相違、外的要因からな
る形(かたち)と内的要因からなる容(かたち)の形容(かたち)の表現の相克ともい
える。都市の風景という外的要素から出発した藤谷康晴の表現世界がその内なる
情念を裸にして外に解放させ、人間の内面という内的要素から溶解して外へとは
み出した木村環の表現世界とどう拮抗し定着するのか。緊張感と妖気感が漂っ
て、これから夕刻に始まろうとしているのだ。

*木村環×藤谷康晴「乱」展ー本日午後5時~藤谷康晴ライブドローイング
*森万喜子展ー1月9日(水)-20日(日)
*高臣大介冬のガラス展「雪と花光とgla_gla」-1月22日(火)ー2月3日(日)
*収蔵品展ー2月5日(火)-10日(日)
*小林由佳展「スベテハココカラハジマル。」-2月12日(火)-17日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-12-30 13:33 | Comments(0)
2007年 12月 24日

人の鈍根といふは 志の至らざる時の事なりー視線と拠点(18)

<財多ければ 必ずその志を失ふ>あるいはタイトルの<人の鈍根といふは志
の到らざる時の事なり>-(道元「正法眼蔵随聞記」)との引用を林浩平さんの
ブログで見た。何か心に響いた。特に<鈍根>という言葉が濃い。今より情報手
段もいわゆる文明の利器も少なかった時代だろうが、人間の心の真摯さは現代
より鋭く濃いのかも知れない。この鈍根になると「面従腹背」やその逆の「腹従面
背」などが出てきて訳が分からない。言ってる事と感じている事が分離してばらば
らに出てくる。ー志の到らざる時ーである。額縁と中身をばらばらにして額縁の貧
相さを言っているのかと思えばその中身を語っている。中身を語っているのかと思
えば額縁の事を言っている。最後は強引な極めつけで終る。形と容の統一を放棄
する。従って<かたち>にならない、不毛な水掛け論に陥る。こうした<志の到ら
ざる>いざこざ論争が多すぎる。疲れるのはこうした類の状況に巻き込まれた時
だ。こんな<鈍根>状況から創造的なものは何も生まれないのだ。年末の師走
と表される時期西洋のイブ・イブークリスマスやら八百万の神々の正月やらをフィ
ーバーして大晦日に向かってすったもんだの時間がもんどりうって転がっていく。
<財少なければ>< 必ずその志を得る>為に、もうひと踏ん張り、耐えて生きる


*木村環×藤谷康晴「乱」-12月25日(火)-30日(日)am11時ーpm7時
 :30日午後5時~藤谷康晴ライブドローイング
*森万喜子展ー1月9日(水)-20日(日)

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by kakiten | 2007-12-24 16:20 | Comments(0)
2007年 12月 23日

Strike of Dayー視線と拠点(17)

キャンドルの炎を見ていると見飽きないものがある。空気に触れて燃えている。
芯や蝋燭の胴はその触れる先端を支えている。樹の幹と梢のようだ。梢の葉先
も光に触れている。どんな大樹でも梢はお喋りで活発だ。幹は寡黙である。その
梢と枝に鳥が休み、時に実を啄ばむ。以前の店の建物の屋根に修理で上った時
白樺の大木の梢の位置に初めて立った事がある。普段見慣れた幹の目線でなく
梢の位置にいた。可愛い葉がたくさんあって風にそよぎ多勢でお喋りをしているよ
うだった。先端の触れる葉先は活き活きとして光に触れていた。炎の先端もまた
同じである。酸素に触れ空気中を燃えている。小さな草花にしてもその等身大の
高さに近づけば同じである。山に登り道なき道の急斜面を這うように登っていた時
自然と目線は低く草花と同じ位置にあった。花も実も咲かない多くの時間にも命
の炎は燃えている。花の咲く15日と花の咲かない350日を区別差別するのは人
間の思い上がりである。花が咲きその蜜だけを求める蝶々のような人間も多い。
見えない地中で根を伸ばし土壌を作る寡黙な茎や幹の時間を軽視する。時には
その時間を潰しにもかかる。蜜が無い、花が無いと結果を性急に要求するからだ
。先端の触れる時間の真摯さも見ようともしない。蜜や花だけに群がる蝶々のよう
なふわふわした価値観は飽食すればまたさらなる花と蜜を求めて密通する。蝶々
を比喩に出す事は実際の蝶々に失敬な事かも知れない。実際の蝶々は花粉を媒
介し草花に報いている。人間の蝶々は花や蜜に群れるが媒介はしない。飽食し食
い荒らすだけだ。場に根を張る植物は動き回らずそこで天と地に立つ。動物とて本
来はその活動範囲という土壌をもつ。観念的動物である人間は精神の土壌をもた
なければならない。<クニ>や<ミヤコ>とは本来その事を意味するはずではない
か。政治・経済の線引きした国家や中央という都会とは別次元にである。
昨日年明け最初の個展をする小樽在住の森万喜子さんが来る。太陽のような女性
である。作品も陽光の粒々がそのまま絵画となったような光に満ちている。少々凹
んでいた気分が明るくなる。人間もまた作品の基にある。会って話せば作品と同様
のオーラがある。技術の巧拙の前に基がある。優れた女性は太陽系なのかも知れ
ない。自らが発するエネルギーの風があるのだ。暗黒の真空の宇宙を太陽風が走
るという。オーロラを生む。オーロラは暁の女神とも言う。暁はストライクオブデイー
。一日の始まりを撃つのだ。優れた女性、優れた人間に会うことは勇気をもらう事だ
。strike of day-にありがとう。

*福井優子キャンドル展「Cold Fire」-23日(日)まで。:午後7時~酒井博史ギ
 ター・唄ライブ入場料1000円
*木村環×藤谷康晴「乱」-12月25日(火)-30日(日):30日午後5時~藤谷
 康晴ライブドローイング
*森万喜子展ー1月9日(水)-20日(日)
*高臣大介冬のガラス展「雪と花光とgla_gla」-1月22日(火)-2月3日(日)

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by kakiten | 2007-12-23 13:24 | Comments(0)
2007年 12月 22日

縁(エッジ)の位相ー視線と拠点(16)

祖父は京都が好きだったようで関西には親戚が多い。私からすると従兄弟にあ
たる○○ちゃんと呼ぶ人が大阪近くに住んでいる。祖父には11人の子供がいて
4男の私の父を除いて他の多くは北海道から出ている。そんな事もあり関西に行
く機会が仕事も兼ねて多かった。大阪・神戸・奈良・京都とその周辺をよく歩いた。
近接したこれらの都市はそれぞれが個性的で今よくある大都市周辺の衛星都市
とは違う。それぞれに中心があってそれぞれの境目のエッジがある。駅前の風景
のパターン化は進んではいたがそれでも街の空気は違うのだ。思えばある時代
までお国土産とかお国自慢とかいう言葉が有効だったようにある中心を保ったそ
れぞれの<お国>がありその中心となる都市は独自の雰囲気を濃く保っていた
のではないだろうか。中心がそれぞれ在ればその縁(へり)もまた独特の匂いを
保つ。東北は東北の九州は九州の関西は関西の独特のゾーンを保つ。一国一
城の主と言う。住めば都(みやこ)とも言う。この<国>も<都>も自主性の為せ
る言葉と思う。それぞれの国や都の周辺に文化のエッジ=縁(へり)がある。その
境目の緊張感・摩擦が文化の母胎となる。場末は至る所にあり国境にも都市の周
辺にも在って俯瞰すればみちのくという国の場末もあり、もっと近くにみれば川向
こうという場末もあっただろう。中心が沢山存在したからである。中心が沢山存在
すればその中心に対峙する縁(へり)もまた沢山存在する。現代のような個という
痩せた観念を使わなくとも個的環境がもっと状況としてかっては存在したのかも知
れない。食い倒れ、着倒れ、履き倒れと称された三通りの文化の相違は三つの都
市の風土・個性の相違である。政治・経済の均一性に抗うのは文化・風土の個性
だ。東北でも南部と津軽の相違がある。九州にもあるだろう。近接する地域でもそ
のエッジには違いを明確にする個の緊張感が活きている。場末が元気なのだ。身
体に例えれば末梢神経・毛細血管が活き活きしている。樹木に例えれば梢・根の
先が元気なのだ。心臓や幹を端末である場末・境目が本当は支えている。中心と
拮抗している。従属はしていない。境目の無い時代のように現代を語る事も多いが
真の境目を保たなければそのオーバーフエンスもまた無い。木が水を運び、森が
海を創る。それは決して同一化ではない。有機的に活き活きと関わることはそれぞ
れがそれぞれであり、触れる緊張、触れる縁(ふち)の炎を保つこと。触れて燃える
界(さかい)が喪われれば火もまた消えるだろう。

*福井優子キャンドル展「Cold Fire」-23日(日)まで。am11時ーpm7時
 :23日(日)午後7時~酒井博史ギター・唄ライブ入場料1000円
*木村環×藤谷康晴「乱」-12月25日(火)-30日(日):30日午後5時~
 藤谷康晴ライブドローイング
*森万喜子展ー1月9日(水)-20日(日)
*高臣大介冬のガラス展「雪と花光とgla_gla」-1月22日(火)-2月3日(日)
*収蔵品展ー2月5日(火)-10日(日):吉増剛造・坂口登・一原有徳ほか展示

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by kakiten | 2007-12-22 12:46 | Comments(0)
2007年 12月 21日

場末のメタフイジックスー視線と拠点(15)

TVの影響は大きい。見たよと声がかかる。以前自分が取材された時もそうだった
が稚内や釧路からも電話がきた。今回の中継は2回もなされたからもっと反響が
多いかも知れない。だが中継の為に半日関係者がたむろしていた訳でこの歳末
の時期これが大丸や三越といったマス店舗では営業妨害で不可能な事だ。今こ
そその神通力が多少衰えたとはいえあのNHKの3文字の車が長く貼り付いてい
るのはやはり近隣には注目の的であったのだろう。隣のテーラーさんとデレクター
が撮影の合間に話している会話に久し振りに聞く言葉があった。”北区の北18条
というと随分遠く感じましたが意外と近いですね”ー”いやあこの辺は場末で・・・”
そんな会話だった。NHKのある大通りは札幌駅から地下鉄で1っ。ここは2っ。初
めからそんなに遠い処ではない。だが人間の距離観念はゾーンを形成して実際
より遠く感じるようになる。情報の集中度が実際の距離を分けるのだ。東京が近く
岩手や青森が遠く感じるようなものだ。ここから距離的には近い駅前の大丸や西
武といった百貨店ではこの半日の中継占拠は不可能でこれは情報と同時に人の
集中度の差異があるからである。それに呼応するように”場末”という懐かしいよう
な言葉が出たのだ。私にとって”場末”とは狸小路の外れとか創成川の向こうとか
のイメージがある。商業の中心の縁(へり)に存する界隈である。ここは北大を中
心とするゾーンで旧帝国大学の広大な敷地の縁に属する。あえて街という事でい
えば大学の正門から見て場末なのかも知れない。本来華やかな都心に対しその
縁にある場末はどこかセピア色のうらぶれた情緒がある。廃墟とは違う、裏通りの
哀愁である。そんな場末がスクラップアンドビルドの多い札幌という都市では少な
いのである。すぐにマンシヨンや賃貸オフイスのビルが建ち、その下にひねくれて
取り残されたように古い建物が廃墟化してある。さもなければそこは青空駐車場
である。場末が場末でなく負け組のようになって情緒を漂わさないのだ。本来の場
末には等身大の哀愁があるがこの廃墟まがいの場末は高層建築物の下に項垂れ
ているだけである。官の公共事業でできた札幌という街は今の都心も元は道庁を中
心とする御用商人の街でありこの界隈は帝国大学を中心とする御用商人の街であ
るだろう。この官と官学を基軸とする構造は今も変わらずあって芸術もまたパブリッ
クアートという名の御用芸術が巾を効かせているのだ。かってすべてのアートは場
末から生まれた。歌舞伎も浮世絵も演劇も。真の場末は文化の土壌でもあり反中
央、反権力の拠点でもある。

*福井優子キャンドル展「Cold Fire」-23日(日)まで。am11時ーpm7時
 :23日午後7時~酒井博史ギター/唄ライブ入場料1000円
*木村環×藤谷康晴「乱」-12月25日(火)-30日(日):30日午後5時~藤谷
 康晴ライブドローイング
*森万喜子展ー1月9日(水)-20日(日)
*高臣大介冬のガラス展「雪と花光とgla_gla」-1月22日(火)-2月3日(日)

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by kakiten | 2007-12-21 11:50 | Comments(0)
2007年 12月 20日

死者もまた生者と歩むー視線と拠点(14)

久し振りに故村岸宏昭さんの会に出る。今年8月の追悼展の後、明年3回忌に
向けて今もなお遺作集出版の会合が続いている。今回は某出版社の編集者も
出席して具体的な本の構成を検討していく事となった。村岸さんのお母様の純粋
な想いがその根底にはあり単なる追悼ではなく故人の志を世に問う本を目指して
いるのだ。北大恩師の北村清彦先生が座長となりおおまかな本の骨組みが提案
された。村岸さんの遺したブログを軸に音楽・美術・文章等の振り分けが進んだ。
22歳で早世した故人の晩年の半年に濃く集約された結晶の光をいかに掬い取る
かがこの本の基軸となる。それには編集の力が大切である。音楽の南聡先生も
含めて優れた生前の師弟交流があって死者は今もなおその短いが凝縮した時間
を生きているのだ。濃く深く凝縮した命の灯りを芯にして波及する何かを増幅とは
言わない。一対一で向き合う<×1>のようなもの、その結果が百となり千となり
万となってもそれは単なる増幅ではない。結晶した<×1>が基底にあるから。
ひとりの人間の生き方も作品のように存する場合がある。その未完ではあるがひ
たむきな一条の光を灯りとして触れる世界は無明の未知の心にタッチするだろう。
その事を信ずるから友人が集まり恩師が死後も指導する。それが内側から容(か
たち)となりいつか本という形(かたち)となるのを信じているのだ。この1年近く幾人
もの死者を見送った。しかし彼らは生前と同じように饒舌で時に雄弁である事を止
めない。死者もまた生者とともに歩んでいる。<死>は単なる肉体の消滅ではなく
今も<志>である事を止めない。

*福井優子キャンドル展「Cold Fire」-23日(日)まで。:23日午後7時~酒井
 博史ギター・唄ライブ入場料1000円
*木村環×藤谷康晴「乱」-12月25日(火)-30日(日):30日藤谷康晴ライブ
 ドローイング午後5時から。
*森万喜子展ー1月9日(水)ー20日(日)
*高臣大介冬のガラス展「雪と花光とgla_gla」-1月22日(火)-2月3日(日)

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by kakiten | 2007-12-20 12:56 | Comments(0)
2007年 12月 19日

増幅されて消えるものー視線と拠点(13)

昨日は会場からNHKTVの生放送で大きな中継車が1日中いた。福井優子展
の取材の為である。午後5時過ぎと7時頃からと2回の生中継があった。「Cold
Fire」という今回の個展のテーマとはかけ離れたお寿司のように見える蝋ででき
たキャンドルの作品を主に紹介していた。中継スタッフが数人常時立ち回りリハ
ーサルと準備で会場は撮影現場になり関係者以外は入れない状況が続いた。
一種のスペースジャックである。五感の視覚・聴覚を増幅するTVという機械装置
は<多数>への発信を前提とするから宣伝効果という点では大きな威力をもっ
ているかもしれない。TVは車やエレベーターと同じように人間の増幅装置の機械
の最たるもののひとつである。TVが人間の感覚を部分的に増幅した結果あたか
も世間という世界に何かが広く普及したかの錯覚をもたらす。しかし今回の個展
の主題とは何の関係もない。お寿司が実はキャンドルであるという意外性、物珍
しさをテーマにして視聴者に面白さを強調して見せただけの話である。ある種の軽
いバラエテイ番組である。作家自身が納得してした事だから別にどうこういう事も
ないが個展自体のコンセプトはそこにはない。。私は一昨日の葬儀産業の悲しみ
の増幅装置と同様のものをそこに感じる。ビルの解体工事にも恐竜のような車が
活躍している。その巨大なアームは人間の操作で自在に動き作業を進める。人の
身体の部分増幅である。TVもまた人の感覚の部分増幅を進める。感覚が機械的
に増幅された分だけ喪失するものがある。その境目に自覚的であるかどうかが問
題と思う。大きく言えば文化と文明の境目でもある。どちらがいいとか優劣を問うて
いる訳ではない。どちらを志しているかが問われているだけだ。世間的に言えばTV
にも出て、有名になってと賞讃するのが大半だろう。だがそれは場の問題から遊離
してTVが場に取って代わり電波のなかの架空の場になる事でもある。増幅が現場
を超えてしまうのだ。この増幅が野放図に増長すると個展の意味は消えて話題とい
う脇だけが正面に据えられる。作品のある面だけが拡大され作品そのものが主張
するメタフイジックスが失われる。場と共にある作品の真意は消え場はTVスタジオ
のように補完され予備のものとなる。TVという現代の怪物は現場を安々と増幅し変
質する。でもTVそのものが怪物や妖怪なのではない。操作しその操作と共に増幅
する人がいて怪物になるのだ。TVという機械の増幅装置が無くても同じ事がある。
場のスペースジャックは何もTVだけではない。作品が場を遊離し場を自己という我
の拡大・増幅装置にする観念肥大がそうさせるのだ。作品に純粋化させるのも人な
ら作品を逸脱して増幅するのも人である。観念肥大が支配するのは量数という効果
を狙う物差しである。

*福井優子キャンドル展「Cold Fire」-23日(日)まで。am11時ーpm7時
 :23日午後7時~酒井博史ギター・唄ライブ入場1000円
*木村環×藤谷康晴展「乱」-12月25日(火)-30日(日):30日午後5時~
 藤谷康晴ライブドローイング・木村環の作品に直接ドローイングするイベント。
*森万喜子展ー1月9日(水)-20日(日)
*高臣大介冬のガラス展「雪と花光とgla_gla」-1月22日(火)-2月3日(日)

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by kakiten | 2007-12-19 12:37 | Comments(0)
2007年 12月 18日

お通夜の後の漂流ー視線と拠点(12)

菱川善夫先生の葬儀会場は多勢の人で埋まっていた。賀村順治さんの息子さん
の運転で午後6時半ぎりぎりに会場に着く。この日、寒気で路面が凍結し車が渋
滞して遅れる。会場には大きなスクリーンが設置され先生の生前の面影が何枚
も映っていた。懐かしい故人の風貌が流れている。やがて読経が始まる。東京下
谷の法昌寺住職でもある歌人の福島泰樹が登場した。葬儀の僧侶は彼だったの
だ。歌の復権を短歌絶叫のライブステージで熱く訴え続けてきた熱血の歌人であ
る。東京からこの日の為に駆けつけ自ら葬儀を僧侶として仕切っているのだ。菱
川家の宗派は福島泰樹の宗派とは違う筈と賀村さんが言う。熱血漢福島泰樹の
想いが多分宗派のしきたりを超えたのだろう。抜け目のない葬儀産業の段取りも
きっとこの男は打破しているに違いない。盛大なしかし段取り通りのこのセレモニ
ーをひとりの男の参加が大きくその商業的惰性を個のものへと革(あらた)める。
先生と福島泰樹の深い友情の為せる所である。何百人もの参列者のなか僧は福
島泰樹ひとりでその読経は深く心篭ったものであった。式後参列者を送る喪主の
和子さんの前は長蛇の列が続き私と賀村さんは挨拶を諦めて会場を出た。帰りは
地下鉄でとふたりで探す。途中空腹を覚えラーメン屋も探すが見当たらずぐるぐる
回ってまた会場の前に出た。中に入るとまだまだ人がいて知人に多く会う。地下鉄
の方向を確認してそちらに向かい蕎麦屋を見つけふたりで夕食にありついた。そし
て地下鉄に向かいホームで小樽の高橋秀明さん、石狩の大島龍たちと一緒になっ
た。我々を探していたと言う。大勢の人に紛れて何人かの友人たちがちらっと顔を
合わしては見当たらなくなり最後にまた地下鉄で会えたのも不思議だった。福島泰
樹や喪主の和子さんにも挨拶したかったと後で思う。賀村さんと葬儀会場を出てか
ら随分周囲を歩き廻っていたからだ。お通夜の後のあの漂流は何だったのだろう。
葬儀という縁取りは生を凝縮し革めて生に向き合わせてくれる。人の多寡に本質は
なく生と死の個に向き合うのだ。仏教の宗派がどうであれ、盛大な何百人もの参列
者が集ったとしても、福島泰樹のたったひとりの読経に象徴されたように先生の死
はそれぞれの個に収斂されていく。別れもまた出会いである。死という額縁は生を
濃くする。

*福井優子キャンドル展「Cold Fire」-23日(日)まで。am11時ーpm7時。
 23日(日)午後7時~酒井博史ギター・唄ライブ入場料1000円
 本日午後5時以降NHK綜合TV会場生中継放映予定。
*木村環×藤谷康晴「乱」-12月25日(火)-30日(日):木村環公開制作25-
 29日:30日午後5時~藤谷康晴ライブドローイング・木村環の作品に直接ドロー
 イングするライブです。
*森万喜子展ー1月9日(水)-20日(日)
*高臣大介ガラス展「雪と花光とGLA_GLA」-1月22日(火)-2月3日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-12-18 12:14 | Comments(0)
2007年 12月 16日

精神のラインダンスー視線と拠点(11)

暖かく重たい雪だった。少し湿り気を帯びしかしふっくらと大きな雪片だった。大
粒の涙雪と思った。昨夜その雪の中を濡れて帰った。恩師菱川善夫先生の訃報
を聞いた夜だ。先生は私の西高時代の現国の教師である。その時の初めての印
象は白いとっくりのセーター姿で学生服に象徴される灰色の私の高校生活には
気障で派手な教師に見えた。その頃はギター演奏の名手としても世に知られて
いたようで、事実そうした舞台に出る華やかさも漂わせていたのだろう。一方西高
文芸部の顧問もなされていて文学の方の顔ももっていた。高校時代の印象はそ
のあたりで途切れている。再びお会いしたのは早稲田大学を中退して家業を継ぎ
札幌に帰り行動を起してからの事である。ゆいまあるという文化団体を柴橋伴夫
と先生の3人で立ち上げた。そしてその前に各報道機関のカルチヤーセンター
の先駆けの朝日新聞の方から相談を受け先生を推薦し北海学園大学の教授室
までお訪ねしたのが久し振りの再会だった。当初先生は私を朝日の記者と間違
えたらしいが当時まだ生意気で行動的だった私の性格によるものだと思う。しか
しそれからカルチヤー歌人という言葉が生まれるほどその後の先生の指導と活
躍は素晴らしいものだった。ゆいまあるの会は異文化交流の先駆けのようにあっ
て映像・いけばな・音楽・舞踏と様々なジャンルの文化を根っ子の部分で問い縦
断していった。この頃の事を先生は後に至福の精神的ラインダンスと’80年代を
小樽文学館報・2006年3月「自伝的スケッチ」に回想なさっている。その後私は
’90年代にテンポラリースペースを立ち上げ現代美術の方に軸足を置き先生と
は離れていくがそれでも佐々木方斎さんの画期的な芸術情報誌「美術ノート」に
優れた深井克美論を書いて頂くなどご縁は続いていたのである。さらに2000年
代に入り円山北町の私の店の危機に際し一方ならぬご支援を頂いた。このご恩
は今だお返しできず今も忸怩たるものがある。現在地に引っ越してからご報告に
伺う機会を逸しとうとう今日に至ってしまった。何度か機会を逸し慙愧に耐えない
のだ。民芸の仕事の再発見と普及を志した秋田の三浦正宏さんとの出会いを作
って頂いたり暖かな情熱と友情をいつも演出して頂いた。本当にいいお酒をもっと
ふたりで飲みたかった。最後に大学の教授室をお訪ねした時私の札幌ドームの
野外美術アートグローブ批判論をお読み頂きうんと頷いて頂いた温顔が忘れら
れない。私にとって最後の先生のお声は以前の店の先行きを心配され”新しく生
まれ変わり、生きろ!”という意味のお言葉だった。その時の電話の励ましの鋭く
暖かい声を今も忘れる事はない。私が今考えているRepublic of May-札幌
・5月の共和国の基調低音には先生のその時の叱咤激励がどこか宿っているの
だ。先生!お会いできて本当に嬉しうございました。まだまだこれからもこの世と
あの世を繋ぎ精神のラインダンスを続けていきましょう!

*福井優子キャンドル展「Cold Fire」-12月11日(火)-23日(日)月曜休廊
 am11時ーpm7時:本日午後3時半~佐藤歌織ピアノ・オカリナコンサート入場
 料1000円:23日午後7時~酒井博史ギター・唄ライブ入場料1000円
 :18日(火)午後5時以降に個展会場でNHK総合TV生中継あり。
*木村環×藤谷康晴「乱」-12月25日(火)-30日(日):25-29日木村環
公開制作:30日午後5時~藤谷康晴ライブドローイング・木村環の作品に直接
ドローイングするライブ。
*森万喜子展ー1月9日(水)-20日(日)
*高臣大介冬のガラス展ー1月22日(火)-2月3日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-12-16 13:14 | Comments(0)