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2007年 11月 30日

闘わない奴等が笑うだろうー冬の輪舞曲(30)

今朝の路面は日陰と日向の白黒が明瞭だった。日陰は白く轍の跡も凍っている。
露出した黒い路面と凍てついた白い路面を交互に走った。競馬場脇の柳の大木
はまだ茶褐色の混じった緑の葉を茂らせている。川の証人。界川と琴似川の合
流地点近くである。1950年代の地図ではこの辺まで界川と記されていた。今は
暗渠の見えない川の上を自転車で走っている。この柳の大木は川の名残。川は
大地の血脈のようで大地の皮膚を意識させ風を筋肉のように導き出す。川の上を
風も走る。その風に乗って鳥も滑空していく。低い位置で気持ち良さそうに飛んで
いる。それが街の中でもそこは見えない川の上、風の気流が流れているのだ。空
気の中の川、それが風であるのだろう。風と川を意識して道を走る。円山北町から
春楡の残る北大近くに引っ越して1年半近くなり、このブログを立ち上げて2年にな
る。一昨年の11月からほぼ毎日、記してきた。札幌を漂流していた時もネットカフ
エで打ち込み10月の入院中以外は欠かさず日々を記してきた。写真は使わず一
度だけ村岸宏昭さんの遺影を使った。日々の記録その自分の眼、耳、肌で感じた
事は何よりも自分自身の励ましと確認のようにあったと思う。さっぽろを深々と生き
る、狭いとも広いとも人は言うかも知れない。だが私は狭いと思った事は一度もな
い。まだまだ未知の知らないさっぽろがあるからである。祖父母が眠り、父が眠り
母が眠るさっぽろはその時間軸の深度において、さらなる触れるさっぽろはまだま
だ遠く広く深いのである。歩き初め歩き深めるさっぽろを私はこの日記のような形
で触れ続けてきたように思う。ギヤラリーという開かれた一時の空間を窓口にして
人に触れ世界に触れその生と死にも出会ってきた。淵のように溜まり淵のように溢
れて世界が閉じる事はなかった。空間の面積をことさらにいう人もいるがその事を
切実に感じた事は一度もない。広くて立派な空間はまだ他にも多くあるかも知れな
いがそういう問題ではない。綴じる場は内容に比していつだって狭いのだ。綴じる
背表紙が内容を支え豊かに拡がる事を支えている。綴じる背がなければ中身もば
らばらに解けてしまう。それが場としての空間の役割である。どう、ぎゅっと背を創
るか。その集中に面積の大小は関係がない。今は、5月の共和国を夢見ている。
Republic of May-さっぽろでしかできない5月の解放、爆発を主題に見えない
川の氾濫を仕掛ける。再生という文化力を顕在化した個展がここを拠点にあちこち
で爆発する。見えない覆われたさっぽろが顔を顕し血管が表皮から浮き上がるよう
に。この僅か百有余年の近現代をその皮膚の下に盛り上がる大地の筋肉で浮き
彫りにし立体的な陰影を明らかにしさっぽろの皮膚呼吸を復活させたいと思うのだ

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by kakiten | 2007-11-30 12:54 | Comments(0)
2007年 11月 29日

冬の自転車ー冬の輪舞曲(29)

暫く振りに自転車に乗る。朝から晴天で路面が乾いている。葉が茂って見えなか
った林の向こうが見渡せた。寒気の透明な薄い煙りのような光が木々の向こうに
漂っている。冬の光だ。そして午前の斜光である。南向きの道路に出る。陽光が
暖かい。硬く閉じていた体が緩む。ほ~っと息をはきペタルをこぐ。N君が凍った
路面に滑って転んだ事を思い出す。初めての札幌の冬。真っ赤なヤッケが擦り
傷で汚れていた。今日は大丈夫。でも街中は風が寒い。ビルの陰を抜けると光と
風が違うのだ。地下電車の箱の中で目指す駅まで仏頂面している時間に比べれ
ば多少寒くともこの道程は豊かである。人に囲繞された空間と風と光に触れる空
間とふたつの環境を人は生きる。風土というのは後者の事を指す。社会というの
は前者だろう。このふたつの空間を行きつ戻りつ相渉って人が在る。片一方に偏
る事は不自然なのだ。両方の交感、軋轢、その回路を保たなければならない。こ
の風土と社会の回路を遮断して<箱>化したショーウィンドーのようなサッポロな
ど本来存在しないはずだ。一握りの体育の専門家の祭典ーオリンピック以来東京
も札幌もその風土を根こそぎ改変する事に明け暮れた。現在の中国・北京でも同
じような事が進んでいる。地域に根ざした下町界隈を汚いもの、恥ずかしいものの
ように大通り、ビル群へと小綺麗な清潔感に切り換える。衛生・安全という抗し難い
観念の下小路、川、古民家は取り壊され、埋め立てられる。衛生・安全という蓋で
箱化した都市に風土という溢れるものは稀薄になり、スムースな物流の排水路の
ような道路の街になる。川に澱みがなければ動植物の憩いも棲み家もない。ただ
流されるだけ。海は排水の最終出口となり川も都市の暗渠の見えない出口となる
。ゴミの見えない衛生。流水の見えない安全。何でも蓋をして箱化する。住いも店
も鶏も牛も野菜も。パックして小綺麗な物に毒は潜行する。表示がブランド化する
。スムースである事に慣れきった安直が横行する。交通もパック化され旅は移動
になる。スムースでないと怒る。すべて外に責任がある。自分に反映される観念が
なくなる。外部と相渉る交感がない。被害者の怒りと加害者の悪だけがまかり通る
。そこでは他者も消える。スムースなお仲間とそれを阻害する悪だけが世界を創る
。この都市の偏向にきちっと対峙するのが文化の力である。その一点を曖昧にして
文化を箱ものにするエセ文化とは闘わなければならない。今朝の風と光がそう告
げている。
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by kakiten | 2007-11-29 12:47 | Comments(0)
2007年 11月 28日

美術館を見るー冬の輪舞曲(28)

久し振りに北海道立近代美術館に行く。現在展示中の「Born in Hokkaidoー
大地に実る、人とアート」展を見る為である。平日の午前中という事もあり私以外
誰も観客はいなかった。会場を管理する膝に毛布をかけたお姉さんの視線が気
になる。入り口傍の青木美歌さんの展示は暗室となっていて入ってうっかり肩に
かけたバッグを落としたらすぐにカーテンが開いて厳しい視線が入ってきた。別
に悪さはしておりません。そんな言葉にならない会話を交わした気がした。隣の
真砂雅喜さんの部屋も同じように暗室でここでもゆっくり見ているとなにか逆に監
視されているようで落ち着かない。ふたつの暗室を出て各作家のコーナーを見て
回る。そこにも角々に毛布を膝にかけ椅子に座った女性がいた。なにか作品を見
るというよりも拝見させて頂くという感じがする。今日は特に人が他にいない所為
もありそんな感じが強いのだ。前にも書いたがこの展覧会のコンセプトが安易な
割りには展示状況は物々しく<In>hibitionである。<Ex>hibitionではない。
個々の作家も見出しだけの感が多くもっと個人の厚みを保つべきと思う。親しい
作家では昨年暮れから今年1月にかけてここで個展をした野上裕之さんのコー
ナーにしても断然ここでした個展の方が良かったと思う。初めて見る青木美歌さ
んの作品は廃自動車にガラスが氷のように浮かんでその対比が美しいけれど今
日の寒気に美術館の池に氷結した水面もそれに負けず美しかったのだ。池に設
置された作品と自然の凍った池面の対比は自然光の中で束の間のインスタレー
シヨンとなっていた。ここに青木さんの作品があったらどうだろうと思った。閉じら
れ照明に充てられた均された空間の均一性よりもはるかにどきどきするなあと思
うのだ。何故囲い込まれた特権的空間に現代美術が置かれなければならないの
か。とりあえず(temporary)という日常性を遮断してComという冠だけにスポット
を充てる。タバコの宣伝みたいにマイルド、ライト、1ミリとかを強調する事に似て
いる。基幹が薄弱になる。なにかショーウインドウだけを見て店の中に入らずに
歩いているような気がした。窓辺の百人展とか500mの地下道アートストリート
とか仕掛けこそ表層的に違っても構造的に同じ展示形態なのだ。ウインドーショ
ッピングの商品と同じ構造がアートの親近感を生むと思うのは錯覚でありそれは
結果としてアートのファッション化である。今只今のワイルドサイドがない。札幌は
道庁所在地であるからか札幌の美術館だけが地域名が付いていない。函館も旭
川も帯広も頭にその地域名が付いている。何故札幌も道立札幌美術館としないの
か。<大地に実る、・・>と謳われた<大地>に固有の地域は存在しないのだろう
か。-日本の最北に位置し独特な自然環境と・・・-と書かれたフライヤーの宣伝
文が妙に浮き上がって見えるのだ。函館と帯広だけでも相当違う自然環境ではな
いだろうか。全国目線の日本の最北とかいう形容詞が白々しい。これは基本的に
札幌が不在の目線なのだ。だから札幌が消えて北海道立近代美術館となる。Bo
rn in Hokkaidoもせめてサッカー並みにunder twenty位の発想があってもい
い。せめて、である。美術館という立派な箱や地下道という箱やはては街のショウ
ーウインドーという箱まで動員して箱ばかり並べて収めたところで肝心のさっぽろ
という場はその気配さえない。さっぽろ自体が<日本の最北に位置する>箱に収
まった形容詞の存在でしかないからである。<日本の最北>という視座にある札
幌には土壌がない。ショーウインドウの中のような不思議な都市である。札幌の花
瓶化である。その下には土壌がない。ー北海道の大地に根を張り、枝を広げ、実り
をむすぶ一本の大樹のようにーと、この展覧会を謳っているが一体何処の大地を
言っているのか空々しいのだ。大樹と称された作家たちは如何?でしょう。
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by kakiten | 2007-11-28 15:55 | Comments(0)
2007年 11月 27日

西野・早川さんの家ー冬の輪舞曲(27)

ギヤラリーのスケジュールがちょっと空いたので今週は展覧会を見に行ったり2
階の資料の整理に時間を充てる。今日は先々週谷口顕一郎展に来てくれた早
川禎治さんのご自宅へ谷口さんことケンちゃん、彩さんと一緒に訪ねた。早川禎
治さんは優れた登山家にして文章家であり2000年4月に出版された「傷ついた
自然の側からー手稲山紀行」は私の座右の書の1冊でもある。最近では松浦武
四郎の東西蝦夷日誌を2年かけて歩いた「アイヌモシリ紀行」を今年の4月に出
版している。この本は150年前の北海道を現在のそれと比較し足で確かめた大
変な労作である。以前にその感想をここで記したので詳しく書くことは重複するの
で省くが一登山家に留まらない早川さんの面目躍如の快本である。私が愛読す
る「手稲山紀行」もそうだが早川さんの視点はなによりも実際に歩いた体験をもと
に鋭くそれが現代の文化・文明批評となっている事だ。札幌の山を意識する時誰
もがすぐ名前の浮かぶ手稲山を1年かけて徹底的にあらゆるルートから登りその
変容・破壊の状況をこれほど抉り取った文章は他に見当たらない。第一線の登山
家が標高1000M足らずの山にこれほどの情熱をもって語り同時に札幌論として
成り立っている本は皆無に近い。今日お尋ねした西野のお住いは正にその手稲山
の麓にあった。中の川の川沿いに近い閑静なお宅であった。お昼近くに訪ねたの
でご夫婦共作の美味しいカレーライスをご馳走になり手造りの3種のお漬物ととも
に私はガツガツとお代わりも頂いたのだった。話題は多岐にわたり「アイヌモシリ紀
行」中のさまざな挿話やらケンちゃんの今いるドイツ・ライン川の話と続いた。毎年ヒ
マラヤに出かける早川さんは来年1月に南極に行くと言う。御年70歳にしてなお意
気軒昂たるその気迫は少しも衰えをみせない。帰りにはオカリナとケーナの演奏も
聞かせて頂いた。彩さんはフリュートを吹くのですぐにそのふたつの楽器に反応し
て自らも吹いてみせた。また2年前にロシアへと旅した時の私も頂いた文章を早川
さんにも差し上げたので早川さんは大喜びで必ず全部読んでから感想を書きます
と言った。(以下この日は人が来て翌日続きを書く。)-世界遺産になる前森林伐
採時の知床の現状を記録した「知床記」をはじめチベットの聖地「カイラス巡礼」と
自らの足で徹底的に歩き記す早川さんのペンと実践行動力はケンちゃんと彩さん
にも深い感銘を与えたようだった。遠いもの身近なものすべてに全力投球の生き方
は手稲山からカイラスまで少しも変わらないのだ。お昼をご馳走になった部屋から
見えるお庭の塀にヒマラヤの山並みの絵が架かっていた。自作の絵という。お話を
伺った書斎の簡易ベットの窓の向こうにも同じヒマラヤの絵が在った。登山家早川
さんの目を遊ばす日常の夢にふっと触れた気がした。
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by kakiten | 2007-11-27 17:39 | Comments(2)
2007年 11月 25日

リンゴの問いー冬の輪舞曲(26)

敗戦後の日本は「リンゴの唄」をもって戦前戦時の南進の侵略の過去をみそぎと
し、「リンゴ追分」をもって日本の占領時代の終わりを見たと、簗木靖弘という演劇
評論家の方が新聞のコラムに書いていた。-「かってリンゴは、北を示し、ピユア
のものとしてあった。・・欲望むきだしの南から顔をそむけ、無垢な北を向こうとす
る文化的みそぎ、といってもいい。」」「つまり、リンゴは、日の丸のかわりにかかげ
られた文化的白旗である。」-。北の果実リンゴがある時代にピユアなものの象徴
としてあった事をこの文章で知った。そして戦後の経済復興とともに三橋美智也の
「リンゴ村から」を境にリンゴはひっそりと消えていったと書いている。しかし椎名林
檎の出現で北の象徴としてのリンゴはそうした事と全く無縁になり「この福岡産の
リンゴ」は「ほかのジャンルとの境界線」がなく「雑音との境界線も他の時代との境
界線もない」「都会のジャングルに出現した、新種のリンゴである」としている。この
ようにリンゴ考としてリンゴの時代的意味を考えた事がなかったのでこの寸評は新
鮮に感じた。昨日泉尚子さんの知り合いで訪れたMさんという若い女性と話してい
て久し振りにこのリンゴの文章を思い出した。話の中で急に真面目な顔をして”恋
とは何なのか”という質問をぶつけてきた。何故特別な感情となるのか、本当にそ
ういうものが存在するのかという疑問なのである。こういう質問を真面目にする若
い女性にはあまり最近会っていないので少しその大上段の真正面な問いに吃驚し
た。私は古典的なスタンダールの「恋愛論」の結晶作用やらJ・Pサルトルの「存在
と無」のイラクサの痛みに耐える例やらはてはサン・テグジュベリの「星の王子さま
」やら北原武夫の「体験的女性論」やらを引用してこれらの解釈を並べ立てた。そ
の内のどの部分かが彼女の疑問にフイットしたらしくニッコリと安心したような晴れ
やかな笑顔を見せた。その笑顔がなんともリンゴのように輝いていた。リンゴみた
いな人だねと言うとおどけてちょうどテーブルにあったリンゴを頭に載せてにっこり
笑った。本当にリンゴの笑顔だった。道東の出身で札幌で美術を学んでいるという
Mさんのような純情な人にあまり最近出会った事がない。現象的純情が本質的純
粋であるとは必ずしもいえないがリンゴみたいに感じる純情さはそうそう最近見た
事がない。<恋するとはどういう事ですか。>と正面から問う女性も最近稀と思え
た。このリンゴの問いを聞き拙い恋愛論を総動員して大汗をかいた後リンゴのピユ
アさを想い出したのだ。そういえばそういうリンゴの存在があったなあと。

*いずみなおこ展「森の記憶」-25日(日)午後7時まで。
*福井優子キャンドル展「Cold Fire」-12月11日(火)-23日(日)
 :11日(火)午後7時~あらひろこカンテレライブ入場料1500円
 :16日(日)午後3時半~佐藤歌織ピアノ・オカリナライブ入場料1000円
 :23日(日)午後7時~酒井博史ギターと唄入場料1000円
*木村環×藤谷康晴展ー12月25日(火)-30日(日)
 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737ー5503
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by kakiten | 2007-11-25 14:10 | Comments(0)
2007年 11月 24日

旅というExhibitionー冬の輪舞曲(25)

旅もまたひとつのExーhibitionではないだろうか。外へ、前にと展じていく時間。
それが旅の時間にはある。<Ex>が<In>のままの旅もある。<Inーhibition
>はー抑制・禁制の意味となる。団体をベースにした観光ツアー的な旅である。
個の薄まった旅は体験と経験の深みが稀薄となる。人は生まれてから幾つも
の旅に出る。家から故郷から国家から。そしてそこには人の別れそして出会い
が訪れる。両親から兄弟から友人から離れ、未知の人間と出会い友情と恋が
ある。敵もまたできる。そうした人間の最も基本的な生き方の形として旅がある。
家から故郷から出て行くときに集団性がないように旅にも基本的に集団性はない
はずだ。本質的な旅はいつも個である。<Ex>-外へ、前へを<In>に置き換
えた旅や展覧会、それらは本質的ではないのだ。<去年の夏、私は恋人と旅に
出た。>と簡潔な一行で始まる山本彩子さんの旅は慣れ親しんだ共同体を離れ
未知の世界、未知の人たちと出会う日々のExhibitionなのだ。作品が自己の内
から外へ前にと出て行き様々な体験をしていくように作家もまた作品という恋人と
旅をして行く。旅というプリミテイブな行為は人の本質的な生き方の行為を最も端
的に顕していると思える。パック旅行やツアーのように仕組まれた大人の修学旅
行のような群れた展覧会が横行しているがそこに個の体験と経験の深みは稀薄
である。真っ向から自分という個にぶつかってくる困難や不安を感受してこそ出会
いの喜びと発見もあるのだ。生きるという個の現場なくして作品も旅もその価値は
ない。家を出る時ひとりであるように生きる事の第一線はいつも個である。生と死
がひとりで始まりひとりで終るように誕生と消滅の間に個がどれほど振幅を保って
他者と出会えるかに生きる時間の濃い意味がある。敵もまた出会いである。そこ
に一時の敗北も勝利もあるかもしれない。それもまた生きている事の振幅なのだ
。今ここで個展をしている泉尚子さんの展覧会には枯れたイタドリだけが林立して
いる。植物のぎりぎりの立ち姿である。根も葉もないと否定の形容に使う言い回し
がある。しかしこれは誤解に満ちている。根も葉もなくとも在るものがあるのだ。幹
である。立つものである。幹は地中と空に向かってただただ黙して立っている。そ
の立ち姿に生きる事の個の姿が凝縮されている。同類であっても同じではない。
個である。同じイタドリが林立していてもそれぞれの生きた立ち姿は違う。作家は
多分ある群れの中で日々の生活をしていてその中から個としての命の立ち姿を
顕したかったのだろう。白い板の上に立つ黒く細い幹の枝先の繊細さは命の毛
細血管のように降り積もった雪の光と白壁に映えている。個であり類である事が
一種類の植物素材に限定する事で際立つのだ。本人は風邪で寝込んでしまい毎
日予定していた朗読のパフォーマンスは中止されているが作品のなかに作家が
佇んだ初日二日は自らが作品の一部と化して空間が完結したように感じられた。
イタドリの個の立ち姿と作家本人が交錯して一体になつていたからである。作家
はイタドリを介して語りかけ、イタドリは作家を介して語っていた。

*いずみなおこ展「森の記憶」-25日(日)まで。am11時ーpm7時
*福井優子キャンドル展「Cold Fire」-12月11日(火)-23日(日)
 :11日(火)午後7時~あらひろこカンテレライブ入場料1500円
 :16日(日)午後3時半~佐藤歌織ピアノ・オカリナライブ入場料1000円
 :23日(日)午後7時~酒井博史ギター・唄ライブ入場料1000円
*木村環×藤谷康晴展ー12月25日(火)ー30日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-11-24 13:22 | Comments(0)
2007年 11月 23日

体験と経験ー冬の輪舞曲(24)

体験がミクロなものとすれば経験は少し時を経て見えてくるある普遍性を保った
ものと云えようか。稚内からフエリーでサハリンへ向かう船中で最初に話し掛け
てきたロシアのおじさんに彩さんは<猜疑心の固まり>となった不安を書いてい
る。<マフイアかもしれない。売りとばされるかもしれない。>国境を越えた時の
最初の警戒心を女性らしい感覚で語っているのだ。国家や同言語に守られた日
本という慣れ親しんだ環境の外に出て最初の体験がもつた警戒心はトナカイと共
存する生活を経て小さく自己の内に閉じていた心が変化するのだ。それは国家や
社会を超えた大自然を前にした<孤独>の発見として語られる。<孤独というも
のは心の内に果てしなく広がっていくのではなく、心の外に、自分をすっぽりとくる
むものとしてあった。>この時体験はもうマクロな俯瞰される経験としての軸心を
獲得していたように思う。ヤクーツクの人たちと歓迎の踊りの輪に加わりながら<
隣の子どもの手のぬくもり>そして<おばあさんの次におばさん、おばさんの次に
若い女性と、掛け声役の人が変り、ぐるぐる回る。私は、胸にこみ上げてくるものが
あり、涙が出そうになる。>人の繋がりの輪のその中にいる自分。見知らぬ土地、
初めて会った人たち。しかしそこには類としての人間の時間が<糸のようにつなが
って、これからもつながっていく。>その体験がある俯瞰するマクロな感慨を導き
出すのだ。<胸にこみ上げてきたのは、その圧倒的な時間を感じ、そこに自分が
いることを確認できたからだろうか。>旅の初めに他者への猜疑心にさいなまされ
た自分はもういない。体験が経験への普遍性を保って語られるからだ。国家や同
族社会の枠を越え類としてある連続性を保った圧倒的な時間の内に人間を見詰め
ている。同時にこの事で気付くのは女性としての視点の顕著さである。踊りの輪に
男性の記述は見当たらない。国家や社会の構造を構築するのは一方で男性原理
でありその対極にある女性原理はその秩序・統合に対峙するものとしてある。「女
性性は社会性と対抗する概念なので、どんな社会性にも帰属しえない、要するに
wild sideの性質をもつ。」(田中綾ー「Where?-wild sideへの帰還の問題」)
という指摘を思い出してもいた。体験に基づく経験がある普遍性を獲得していく過
程で女性性と男性性ではその普遍性の在り方もまた異なってくるのだろうか。とも
あれ私は素直に昨日に続き彩さんの文章を読んでいるのだった。地球とその自然
を考える時代に生きている私たちは女性の優れたwild sideの感性に今心を向け
なければならないからだ。

*いずみなおこ展「森の記憶」-25日(日)まで。am11時ーpm7時
*福井優子キャンドル展「Cold Fire」ー12月11日(火)-23日(日)
 :11日(火)午後7時~あらひろこカンテレライブ入場料1500円
 :16日(日)午後3時半~佐藤歌織ピアノ・オカリナライブ入場料1000円
 :23日(日)午後7時~酒井博史ギターと唄ライブ入場料1000円
*森万喜子展ー1月8日(火)-20日(日)
*高臣大介冬のガラス展ー1月22日(火)-2月3日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
 Email:temporary@marble・ocn・ne・jp
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by kakiten | 2007-11-23 12:51 | Comments(0)
2007年 11月 22日

札幌・稚内ーサハリン・ヤクーツクー冬の輪舞曲(23)

谷口顕一郎さんの恋人彩さんが2年前のサハリン経由のロシアの旅を文章に書
きとめていた。その文章をプリントして昨日頂いたのだ。2年前にはドイツから写
真は沢山送って頂き、ツンドラ地帯のトナカイとの生活や日本人とそつくりなヤク
ーツクの人々との交流の様子を写真として見てはいたがこうしてあらためて文章
で日記として読むとまた写真とは違った陰影の深いものとなる。ドイツに谷口さん
ことケンちゃんが彩さんと移住すると聞いた時私はサハリン経由を強く薦めたの
だ。南廻りの通常のルートではなく北廻りのサハリン経由シベリアーヨーロッパ
のルートに北海道に住む人間として多いに興味があったからである。シルクロー
ドならぬマンモスルートとして北のかっての道を経てヨーロッパに至る事は日本
と欧州の近代のメジャーなルートと対峙する何かを感じていたからである。同じ
処に行ってもそのアクセスルートが違えば世界は違う。自らの感受性の開かれ
方が既成の手垢にまみれたものではなく新鮮に開かれる。国連事務総長をして
いた何代か前のフインランド人が来日すると必ず東郷神社をお参りするという話
を聞いていた。隣国の強国ロシアに何度か占領され戦ってきた国が同じロシアの
隣国である小さな国が日露戦争で勝利した事に尊敬を覚えていたからという。こ
の話を聞いた時あ~、そうか日本の隣の隣に北欧ーヨーロッパがあるんだと思っ
た。普段気付かない近しいヨーロッパがその時あったのだ。そして北大の探検部
が氷結した間宮海峡を徒歩で渡りロシアへ着いた話を新聞で読んだ。円い地球
の当り前の北経由のルートがその時見えたのだ。普段の情報に均されている南
周りのヨーロッパルートがその時消えた。そんな事もあってこれからドイツにアー
トの為に住いを変えるケンちゃんには北廻りを強く薦めたのだ。その所為もあって
か若いふたりは断固としてこの北廻りの旅を実践したのだ。そして今日記として
その間の記録が手元に届いている。-<去年の夏、私は恋人と旅に出た>-と
いう文章で始まるこの日記は女性ならではの細やかな感性で綴られている。明
治10年の頃通訳の日本人と馬だけで東北北海道を旅した英国女性イサベラバ
ードの妹への手紙の形を借りた旅日記をふっと想起させる。イルクークツでの近
代文明から遠くはなれたトナカイと暮す人々との交流を経て欧州へ辿り着くまで
の記録は決して南廻りでは体験できなかった出来事に満ちている。さっぽろ発で
稚内そして樺太を経て旅した果ての欧州が日本の近代の主流を為したヨーロッパ
を根底から見詰め直す経験として谷口顕一郎さんにも深い影響を及ぼしていくと
あらためて今思うのだ。ケンちゃんは立派な伴侶に恵まれたなあと思う。川とタイガ
を越えてトナカイの旅を続け山の頂きに着いた彩さんが書いている。広大で荒涼と
した自然を前にしてー<・・ふと思う。・・孤独というものは、心の内に果てしなく広が
っていくのではなく、心の外に、自分をすっぽりとくるむものとしてあった。・・アナト
リがおもむろに腕時計をはずし、放り投げる。それは松の根元に落ちた。・・この風
景を、シベリアに眠る時計を、いつか時の流れに押しつぶされそうになったとき、思
い出すことができればいいと思う。>-飛行機を乗り継ぐ旅ではなく恋人と共に歩
いたこの旅は時間軸が位相を変えてありその終着としてある欧州は明らかに現在
のヨーロッパへの旅とは違うものだった。その時間の中で確認するように込み上げ
てきたものを次のように記している。-<たった27年間の短い人生に起こるささい
な出来事に目を奪われ慌てふためいているうちに、自分の影を見失い、それを探そ
うともがき、ますます見失っていた自分はここにいた。・・いろいろなことがあって今
がありそれは自分だけの選択ではなく、知らない選択も紡ぎだされた糸のようにつ
ながって、これからもつながっていく。>-ツングースの人たちと踊りの輪にいなが
ら不意に胸に込み上げてきた想いを彼女はそう記している。大自然の前の時間と
類として人間に出会う時間というふうにふたつの時空を体験しながらこの旅はある
。心の外の孤独と心の内に込み上がる親和の糸の確認。そのように時間は訪れる
。外され放り投げた腕時計の保つ時間の後にもうひとつの時間の旅があったのだ


*いずみなおこ展「森の記憶」-25日(日)まで。am11時ーpm7時
*福井優子キヤンドル展「Cold Fire」-12月11日(火)-23日(日)
 :11日午後7時~あらひろこカンテレコンサート(フインランドの古楽器による)
  入場料1500円
 :16日午後3時半~佐藤歌織ピアノ・オカリナコンサート入場料1000円
 :23日午後7時~酒井博史ギターと唄ライブ入場料1000円
*木村環×藤谷康晴展ー12月25日(火)-30日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-11-22 12:49 | Comments(0)
2007年 11月 21日

白い雪と樹影ー冬の輪舞曲(22)

路面を雪が覆ってその白い光が反射している。下から浮き上がる光が室内を明
るく輝かす。昨日から始まったいずみなおこ展の枯れたイタドリの黒い翳が白い
壁白い光に映えている。窓辺のホワイトボンドで固定されたイタドリのかたちが
美しい。山野の荒れた路傍に立つイタドリの葉の落ちた黒く乾いた茎だけの姿に
夏の森の記憶を作家は見たのだろうか。葉もすっかり失せて植物の立つという
命の姿だけが露出している。大きな樹、小さな木そして草。森では立つ事から始
まるのだ。白い雪の季節になると一層その立ち姿が際立ってくる。衣装のような
茂るものが落ち木々は立ち姿だけとなり光を求めて空に伸びる梢の指先が明確
になる。動き廻らぬ生き物だけに伸びる枝先の光に触れる部分により命の炎を感
じるのだ。人間に例えれば枝先は視線。志の光を求める眼差しに思える。大きな
樹。小さな木。低い位置の草木。姿は違っても森にはすべてにその眼差しがある。
その物言わぬ立ち姿にふっと気付く事がある。動き回る生き物が植物に教示され
ふっと立ち止まるように人は省みる時がある。空に志の指先を梢のように伸ばして
いるのかと問う時がある。根は地中に水という光を求め命の触手を見えない大地
の暗闇に触れ張っている。梢と同じように。動かぬ命の静謐な動き。そこに私たち
は命の原点を見ているのかもしれない。身体の内なる臓器の感覚のように。冬の
樹木は大いなる師である。私はそう思う。雪が世界を白く明確にし寒気がきりっと
世界を鋭くし木々が黒々と立つ。そんな季節がベルリンにはないと谷口顕一郎さ
んが言った。しかしアーテイストに対する社会の視線はパラレルで過ごし易いとい
う。靴屋さんは靴屋さんの眼線でパン屋さんはパン屋さんの眼線で作品を見てくれ
る。特殊な一段上か一段下の視線では見ないという。日本では芸術家というと解ら
なくて偉い人か何やっているのかという眼線で見られて対等のワーク(仕事)として
見られる事が少なかった。だから普通の生活者がそのワークの範囲で理解してく
れるのがとても楽だったという。芸術が明治の近代化以降上から教示される位置
に置かれた状況は今もあまり変っていない。生活の雲の上か生活以下の要する
に訳の解らんものというのが芸術の一般的位置なのだろう。谷口さんの工程を見
れば解るように工程自体は職人さんの手仕事と少しも変らないのだ。ただ動機と
目的が違う。だからワークとして見る事のできる文化風土のあるドイツでは普通の
生活者である職人を見るようにその仕事(ワーク)を自分達の眼線で見てくれる。そ
して買ってくれた時は本当に嬉しかったと谷口さんは語っていた。仕事をする人が
仕事として見てくれる。そんな当たり前の事が芸術家というだけで阻害されるのは
日本の文化風土が芸術を棚上げして特殊な雲の上にしてきた明治以降の官の政
策と無縁ではない。もともと民から発している文化の源泉を枯渇させるような価値
観ときっちりと対峙し闘う事なく今だ官や公に擦り寄って文化団体勢力を形づくる
もの達とは明確に一線をひかなければならないのだ。一本の樹の梢の炎を見失っ
てはならない。

*いずみなおこ展「森の記憶」-25日(日)まで。am11時ーpm7時
*福井優子キャンドル展「Cold Fire」ー12月11日(火)-23日(日)
 :11日(火)午後7時~あらひろこカンテレコンサート入場料1500円
 :16日(日)午後3時半~佐藤歌織ピアノとオカリナコンサート入場料1000円
 :23日(日)午後7時~酒井博史ライブ・ギターと唄ー入場料1000円
*木村環×藤谷康晴展ー12月25日(火)-30日(日)
*森万喜子展ー1月8日(火)-20日(日)
*高臣大介冬のガラス展ー1月22日(火)-2月3日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-11-21 12:06 | Comments(0)
2007年 11月 20日

谷口顕一郎展終るー冬の輪舞曲(21)

谷口顕一郎展が終了する。最終日夜ガラスの高臣大介さんが洞爺より来る。札
幌で一泊すると言う。谷口展だけに来たのだ。人の付き合いの深まりは会う事で
ある。ましてベルリンと洞爺ではそうそう会う事はない。人も作品も人と会う事で
深まるのだ。最終日に終了した展示は凹みの作品が1階会場に全面的に展示さ
れ当初1階にあったペインテイングの作品は2階吹き抜け壁に移動した。カッテイ
ングされていないプラステイック板とカッテイングされたものとが併せて展示され
作品の制作過程を表わす展示となった。路上や壁の痕跡を透明なフイルムに型
取りしそれをカッテイングしさらにそれをプラステイックかステンレスに転写して立
体的な作品に仕上げていく。さらに部分部分に蝶番をつけ折り畳み可能なものに
仕上げる。今回蝶番まではできなかったがそれ以外の製作過程をすべて展示し
た事となる。この一連の工程を見ていると洋服の仕立ての工程と近似している事
に気付いた。隣がテーラーさんである事もあるが工程がほぼ同じと思えるのだ。
期せずしてアートとファインアートの違いがそこにはあった。服の仕立ては注文主
に納品して完結するが谷口さんの作品は特定の誰かの注文でもなく納品の当て
もない。自分の美意識を<かたち>にするだけである。動機と目的が異なるのだ。
しかしそのプロセスは全く同じように展開する。型取りーカッテイングー仮仕上げー
仕上げ。原型となる人と凹みの違いはあるが元の場所に嵌め込む作業まで工程
は共通している。その後谷口さんの場合は蝶番をつけさらにかたちを折り畳む行
為を可能にしより個人性の要素が加わってくる。洋服の場合は着こなしのようにな
るのかもしれないが決定的に違うのは注文主の存在で出来上がったものが個に
閉じて完結する事とより他者に開かれ不特定である事である。完成までの動機と
結果が違うのである。最初から最後までひとりで為される作業の労は同じだが目
的と動機の違いがアート(技術)とファンアート(芸術)の違いである。洋服の評価
は注文主の満足度だが作品の評価は不特定多数なのでその評価は必ずしもすぐ
出る訳ではない。芸術家が孤独たる所以である。ゴッホのようにまた他の多くの作
家のように死後初めて評価が定まる事も多いからだ。生前の不遇、困窮が多く語
られるのはよく聞く話であるだろう。谷口さんの作品には芸術家の過程がその制作
過程にはある。洋服の仕立ては最終的に注文主の体型に納まって完結するが彼
の作品は元の凹みに納まって完結する事なく蝶番の装着によってさらに<かたち
>の変幻を幾つも可能にする事で素材(原型)からの独立を作品として果たそうす
る。普段見捨てられ無視されている何の変哲もない痕跡を<かたち>として採取し
自立させ<かたち>の美として精錬していく行為は純粋<かたち>至上主義者と
しての芸術行為といえるが今後何故その偶然の痕跡に惹かれていったのかという
内省的な動機の深化がより問われるように思う。都市は痕跡を消去して発展する。
痕跡を残さないのが現代の都市の在り様である。それを繁栄と見なしている。痕跡
が多いのは発展の反対に位置するからだ。歴史上の意味とか事件によってその痕
跡の意味に偏ればそれは純粋<かたち>至上主義とは異なってくるだろう。無名
の路上や壁に刻まれた痕跡の意味はそうした有名性と無縁の処にあるからだ。谷
口さんの今後はその無名性と同時にその<かたち>に惹かれる自らの内面の深
化においてこそ問われ続けるだろうと思われる。

*いずみなおこ展「森の記憶」-11月20日(火)-25日(日)am11時ーpm7時

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-11-20 12:46 | Comments(0)