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2007年 04月 29日

凪ぎと波ー春のにおい(64)

目まぐるしい1日だった。何もかも焼き尽くす炎の原因は朝のお灯明だったらしい
。先祖を手向ける合掌の癒しの灯。灯りの奥にある火の力。暴力。水と同じように
凪ぎばかりが水面ではない。津波もある。風も同じだ。そよ風だけが風ではない。
暴風もある。木村環さんの絵が人の心の悪意のメルヘンからほとけのメルヘンへ
と変ってきたように、福井優子さんのキヤンドルの灯りがライトセラピーにもなれ
ば祈りの灯明が火災の原因となる事もある。その両側面が自然という神に近い
存在なのだろうか。良し悪しではないのだ。その両側面を含めて存在しているの
だ。人間もまた。閉じる事もあれば開く事もある。工藤家の不幸は不幸として今
そのようにしか自分自身も含めて彼に懸ける言葉はない。学生時代にロープシン
の「蒼ざめた馬」を訳し東京の出版社からデビューしてロシア文学者として順調に
歩んできた人生最大の生活上の試練に今面しているのだ。ひるがえって今自分
に何ができるか。その事をずーっと昨日から考える。
朝早目に家を出てテンポラリーに着く。開廊してすぐにIさんが来る。ゆで卵や煮付
けの差し入れを頂く。ツブの煮付けが美味しい。2点木村さんの作品を予約してく
れる。それから程なく葉脈コンビのトモヨモンさんとかひさんが来る。沖縄旅行の
おみやげとパンを頂く。ふたりは詩と写真のコラボレーシヨンを及川恒平さんのホ
ームページに葉脈手帖として連載している素敵なコンビである。今日もその取材の
日のようだ。ゆっくり作品を見てふたりが帰った後岡田綾子さんが来る。今年教育
大を卒業して現在モエレ沼公園に勤務したばかりの彼女としばしモエレ沼と古石
狩川の関係について資料を交えて話す。イサムノグチの設計で現在知られるモエ
レ沼と本来の石狩川の河跡としての成り立ちをきちっと交差して見て欲しかったの
だ。場と作品の両方の理解がなければそこで働く本当の意味は浮上してこない。
ある意味でモエレ沼のゾーンは地形的にもさっぽろを俯瞰できる位置にあるのだ。
中心部の市街地は沈み西の山並みが一望できる場所である。海へ向かって低い
地形にあるからその分反対の山々が遠く迫ってくる。中間の高さは沈むのである。
都心では喪われた景観が復活してくる。それとモエレ沼の江別からの川筋を結べ
ばさっぽろのほぼ全域に近くを展望しながら仕事ができるのである。そんな職場は
そうあるものではない。その認識がそこの場所での仕事の質を決めていく。資料を
色々見せて話は弾んだ。彼女は興奮して歩くぞ~と声を出していた。
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by kakiten | 2007-04-29 15:55 | Comments(0)
2007年 04月 28日

火災という災難ー春のにおい(63)

友人でありロシア文学者・詩人の工藤正廣さんの家が27日朝全焼したと連絡あ
る。奥さんは煙を吸い呼吸器に火傷入院。お子さんと本人は無事。ただ家は外壁
のみ残し全焼。着の身着のままという。最近お嬢さんとともにここを訪れ昨年5月
死去した美術家であり詩人の村上善男追悼展を来月しようと話しあったばかりだ
った。その村上善男の資料も火災で焼失という事になる。北大を退職したばかり
で研究室の資料も自宅へ持って帰りそれも焼失という事になればパステルナー
クやサビンコフの翻訳者として貴重な仕事をしていただけに大変なショックだろう
と思う。奥さんの知子さんもイタリア文学の翻訳家として優れた仕事をしていて何
よりも体の様態が気にかかる。灯りという火もあればこのような人に牙を向く火も
ある。火災の原因は分からないが裸一貫になって蓄積された知力の一から再び
立ち上がらなければならない。それだけの実力を保っている男だ。ともにまた頑
張ろう!そんな深い心の友情を今感じている。しかし何か続く5月だなあ。佐々木
徹さんの入院、工藤正廣の災難。辛い3月4月が5月に影を落としている。災い
転じてとする5月でなければならぬ。大木裕之さんのマネージャー藤田敏正さん
より速達で5月5日の水戸芸術館への航空券と宿泊予約券届く。さあ待ったなし
の5月が始まりだした。過日映像作家の石田尚志さんからもトークグスト参加の
電話あったので天才と怪人のふたりに挟まれてえらいこっちゃと観念する。それ
だけ深いさっぽろ体験があったという事だ、逆に言えば私のような者ですら何か
必要とされるという事は・・。段々工藤情報入る。作務衣一枚で避難し本当に何も
かも炎の中に無くしたという。最後まで消火に当った奥さんは顔と手と肺にも火の
損傷があるという。身ひとつという現実だ。今日からとりあえずホテル住まい。服
は近所の方からお借りしてという事だ。こう書いているとまた電話が入る。工藤宅
を訪れた笠井嗣夫さんからで工藤氏には会えなかったが家はもう惨々たる状況
で生きているのが本当に幸運だったような焼け跡だったと言う。病院にも行ったが
工藤氏とはすれ違いで会えなかったと言う。いづれ折をみてふたりで工藤氏に会
おうと言って電話を切った。そこへ5月に個展を依頼したK・Nさんから電話が入る
。5月末に一週間個展をしたいと言う。ずーつと考えていたと言う。なにか心が通じ
たというか不思議な感じがしてしばらく頭が混乱した。K・Nさんは今が旬なのだ。
この今の空間にはぴったりの作家である。もう3年ほど前に某スペースで会場構
成を見て以来どこか頭にあった作家である。波乱の5月の幕開けである。
木村環さんは今日明日とART-MANでライブドローイングの藤谷康晴さんの会
場へ行きここでの制作はお休み。一昨日の道新夕刊にふたりの個展が併せて掲
載される。その性か見にくる人が絶えない。

*木村環展「LIFE GOES ON」-5月6日(日)まで。月曜休廊。am11時ーpm
 7時於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8
*藤谷康晴ライブドローイング「白と黒のサテイスファクシヨン」-4月28、29日。
 於ART-MANam11時ーpm7時札幌市中央区南4条東4丁目1-4
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by kakiten | 2007-04-28 12:43 | Comments(1)
2007年 04月 27日

灯りと夜の自転車ー春のにおい(62)

陽だまりのなか今日も木村環さんが描いている。机を用意したけれど床に座り2
種類のペンシルを片手にひたすら描いている。陽だまりの暖かさと明るさが描く
のに快適なのだと言う。細かい線で埋めていくのに陽光の明るさがいいと言う。
それとこのところの寒さの戻りに陽だまりが暖かい。午後の陽の移動とともに場
を移動する。猫みたいと言って笑った。作品が出来る度に結び目を解くみたいに
閉じていたものが毎日ひとつひとつ解けていくと言う。陽だまりのなかで凝結して
いたなにかが解(ほど)けていく。それが作品になっている。描かれた頭部から
幾つもの顔が胞子のように広がって飛んでいる。もうそこにあの悪意の翳はない
。ほとけのメルヘン。灯りのマンダラ。。ふんわりと立ち昇り、ふわりと揺れている。
公開制作という今回の方法は木村環の世界がゆるやかに変化しつつ解けていく
過程を見せている。灯りは灯りのままに。ひなたはひなたのままに。かって彼女
の描く頭部の周りを閉じて浮遊していたシニカルな胞子のようなものは開き、ほ
どけて、ひだまりに跳んでいる。あと10日あまり、作品はさらに展開していく。
そして年末の藤谷康晴さんとのジョイント、ふたりのライブドローイング展まで彼
女の陽だまりは繋がっていくのだろう。
先日夜、自転車での帰路エルムトンネルの上で無灯火の自転車と正面衝突した
。あっという間の出来事で相手は図体の大きな詰襟の学生だった。応援団か体育
会系の人に見えた。自転車もハンドルが横一直線で大きく私の方が飛ばされた。
倒れたが怪我は無く何度も大丈夫ですかと聞かれた。大丈夫と言って立ち上がり
再び自転車に乗ったが空回り。チェーンが外れている。仕方なく暗いので押して
帰った。翌日自転車修理工場でバイトした事のある中川潤さんに電話で相談。簡
単だよと一言。あっさりと言われて逆に不安になる。それでやはり詳しそうな山内
慶さんにもメールする。すると今日ふたりとも来てくれて私が昼食中にもう直って
いた。木村さんの作品とは全く関係ないが夜はやはり灯りを点けて自転車に乗ろ
う。そしてふたりの友情という灯りに感謝。まあ無器用な私には過ぎた友だと思う
のだが。
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by kakiten | 2007-04-27 17:06 | Comments(0)
2007年 04月 26日

雨の日のグールドー春のにおい(61)

うららから一転して小雨降る肌寒い日。久し振りにグレングールドのバッハ「二声と
三声の為のインヴェンシオン」を流す。LPの時に聞いて以来レコードは2枚すり減
らす程聴き込んだ。何故あんなに聴き入ったのだろう。その時はこの音だけが信じ
れる気がした。各楽曲毎の出だしを暗唱するほど聴いた。後年音大出身の従妹に
聞かせたらこれはピアノを練習する時弾いた曲でよく知っているけど順番が違うと
言われた。グールドが自分の曲として演奏する為原譜の順序を変えて構成してい
るのだ。ピアノのペタルも外し演奏中に声もあげている。当時のクラシックのアカデ
ミズムから云えば論外の事だったと思う。ピアノで演奏する事自体がタブー視され
ていたのである。バッハの時代にピアノという楽器は存在しなかったからである。そ
れを敢えてピアノで演奏をしたラデイカルな初期の演奏がこの一枚だ。グールドの
若い繊細な顔が印象的なジャケットである。バッハも宮廷音楽士の立場にありなが
ら宮廷を出て巷の酒場で民衆の音楽に親しみそれを楽曲に取り入れ当時の保守
的なアカデミズムから大いに批判、非難されたと聞いた。表現者はいつも個として
群れようとする価値観と闘うのだ。新たに新鮮に開かれた普遍を求める為孤立す
る闘いを純粋に実行している。その個の純粋な試みが別の新たな普遍性を獲得す
る。その孤独な過程がこのグールドのバッハにはあって私はある時期この音だけ
が信じられるような気がしたのだ。今もその切迫さがあるかと問えばそれは曖昧で
ある。しかしそう思える時もある。音楽の保つ直接性のようなものは生きている時間
と密接で時にそれはキーシンのショパンだったりする。同じバッハでも音楽の捧げ
物のミユーヒンガーの演奏だったりもする。ただこのグールドのバッハは時を越え
てやはり私の原点であるように思う。小雨の降る静かな昼、そう思って聴いていた。

*木村環展「LIFE GOES ON」-5月6日(日)まで。am11時ーpm7時公開制
 作月曜休廊於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め
 通りtel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-04-26 12:25 | Comments(0)
2007年 04月 25日

春うららー春のにおい(60)

うラルーもや・かすみ。とアイヌ語である。春のうらら。どこかで通底している言葉
だ。漢字渡来以前の日本語の響きには文字をもたないアイヌ語と共通する響きが
ある。眼で見る言葉。耳で感じる言葉。言葉は音声が先にあってその響きに直なる
共通性を含有している。靄・霞は目に見える文字だがうららは空気の様態のように
感じる。目に見える以前の存在。皮膚感覚に近い5感で感じる総体のようなもの。
だからアイヌ語で感じる言葉の幅は一領域を越え一分野を軽々と越えて存在する
。「まぅ」という言葉もそうだ。呼気ー風ーハマナスの実と包含される。身体。気象。
植物。と3分野の言葉がひとつに包含されている。これを繋ぐものは5感の想像力
である。ふ~っという呼気は風。海岸の砂丘に咲くハマナスは風の実。砂丘は風
で形成され動くのだ。そこを命の原点とするハマナスの実は風の実でもある。そう
いう解釈が歩きながらだとすーっと体に沁み込むように理解される。こちらも風景
の中を動き歩かねば見えては来ない。身体学、気象学、植物学と閉じると見えて
来ない。そういう自在な生理のように文字以前の言葉は存在する。言霊(ことだま)
というものだろうか。そうした文字以前の”ことだま”を視覚化しようとする時に絵画
の成立もあったようにと思う。木村環さんがもう10点近く作品を仕上げている。空
中を漂う精霊や妖精たちの姿がもうシニカルな表情ではなく悪戯っぽい顔をして
あどけなく笑っているようだ。彼女自身が霊感の強い性格で私の不調をすぐに見
抜いた。腰の上のあたりに靄がかかっていてどうも腎臓のあたりのようだとすでに
指摘していたのだ。何人かが肩を揉んでくれたが腰の腎臓を指摘した人はいなか
った。人を見て悪い所には白い煙が立って見えると言う。私は最初全体がもや~
つとして全身疲労そして腰の上と見えたと言う。”うらら”ならいいが、もやとかすみ
では仕様が無い。春はうららときているが私の身体はもやに包まれ病んで、かす
んでいるのかしらねえ。と、少しぼやきになっていたら電話が入る。東京の石田
尚志さんからで5月5日の大木裕之さんの水戸芸術館ゲストトークに一緒に参加
したいとの事。ついでに翌日横浜美術館と横須賀美術館の石田さんの展示も一
緒に見て欲しいと言う事だった。大木さんも私の体調薄々感じて石田さんにも声
掛けたと思う。私は別々にさっぽろで知り合い大木さんと石田さんはもともと映像
で知りあいである。それがさっぽろでともにいい仕事をして3人一緒にというのは
初めてだ。なんかすごい事になったなあ。かすみとかもやとか言ってられない。
ウララ、ウララと頑張りましょう。

*木村環展「LIFE GOES ON」-5月6日(日)まで。am11時ーpm7時
 月曜休廊於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大
 斜め通りtel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-04-25 13:55 | Comments(2)
2007年 04月 24日

吸気の谷・呼気の浜ー春のにおい(59)

血圧と気管支炎と腎不全。三点セット。冷えは良くない。暖かな食事。綺麗なお水
。昨年から畑内科さんに行かず不摂生だったなあ。高血圧の治療薬中断は良くな
い。丈夫な積りでも丈夫でもない。まあ美丈夫と申しますか。誰かにバ~カと言わ
れそうだ。bi-suiさんの~風の吹くままに~ブログで先日の酒井博史さんのライ
ブ記は傑作だ。午後7時スタートの予定がお店が開かず7人のお客さんの為廊下
で急遽唄うことになる。1時間誰も帰らず怒らず聴いている。すごいなあ~。実力で
すね。その後9時から12時頃まで店の中でライブが続く。この間のbi-suiさんの
見聞記は彼の唄への愛情と敬意に満ちていて素晴らしい。また栄通記のブログ
の木村環さんのここの展覧会評も素晴らしい。サード・イアーという所で一昨日ま
で展示していた木村さんの作品と現在展示し日々創りつつあるここでの作品の比
較を交えながら鋭く、暖かく批評しているのだ。人を見、作品を見、その微かなしか
し時に決定的な動き、変化を見逃さない批評は望んで得られるものではない。作家
の精進と受け手の精進が合致しなければ起こりえないのだ。ジャンルは異なっても
このふたつの優れた受け手の批評は今日弱りがちな私を励ましてくれた文章だっ
た。吸気の谷間、呼気の浜辺。其処を往還する命の川。送り手と受け手の呼吸の
妙を幸せに感じるのは身体も自然も作品も同じなのだ。後藤和子さんがお見舞い
がてらお庭の花の写真をメールで送ってくれる。まだ花が咲く前のシラネアオイ、
カタクリ、ヤマシャクヤク、どれもが花咲く前の息吹に溢れている。土と草の命が
溢れている。光の風が流れる季節はもうすぐだ。

*木村環展「LIFE GOES ON」-5月6日(日)まで。am11時ーpm7時月曜
 休廊於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-04-24 11:31 | Comments(0)
2007年 04月 22日

暁に咳すー春のにおい(58)

夜となると胸が咳き込む。気になりだすともう目が冴える。来週はやはり病院へ行
こうと思う。春「呼吸器の変」だ。息が上り、息が切れる。朝、昨日まで無かった路
辺に土筆が立っている。そう、もう山菜の季節だなあ。先日ブラジルから帰った對
馬千恵さんが盛んに行者ニンニク、キトピロを食べたがっていた。食采ナシヨナリ
ズムに陥っていた。異国に行き、普段の日常の蓄積が反射的に立ち顕われてくる
。その一番直接的なものは食采であるだろう。食のナシヨナリズムを発見した對馬
さんはこの後どう動くのだろうか。キトピロはまた北の大地の山菜でもあり政治上
の国家とは違う南、北という異国なのだ。つまり日本中何処でもある山菜がキトピ
ロではない。キトピロもきっと南の地方にとっては異国の食采だ。食のナシヨナリ
ズムはもっと風土性に近づく。政治経済上の国家とは基盤が異なってくる。ブラ
ジルまで行って一番恋しかった食采がキトピロなら對馬さんの発見した国は日本
でもブラジルでもなく<北>という国だ。その国をどう見詰めどう持続するか、食采
という直接性と国家という間接性がしばらくは彼女の内部である闘いを生じる筈だ
。山菜の保つ旬という自然の直接性はグローバリゼーシヨンの間接性と対峙して
あるからだ。国境線を越え異国で暮らす。そこに政治経済人種の相違があるのは
勿論だろうが食采はもうひとつ別の軸で自然という風土の相違を見せてくれる。日
本国内にもそれがある。その時もうひとつの国が存する。そこから世界をもうひと
つ見る。例えばキトピロ国家圏。文化軸も多分そこと近いところから発する。ゴー
ヤ国家圏。サツマイモ国家圏。味覚としては貪欲に交流しつつも出自としては断
固として国が違うのだ。山菜という旬の食采はその事を率直に伝えてくれる。ブラ
ジルとキトピロ、それはブラジルと即日本ではない。石狩はまだ早いけれど道南や
日高ではもうキトピロが採れる時期だ。呼吸器を早く治癒して山野の空気を思う存
分吸いたい。そうしてキトピロ国家人になれば身体も回復が早いだろうに。

*木村環展「LIFE GOES ON」-5月6日(日)まで。am11時ーpm7時
 月曜休廊於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8
 北大斜め通りtel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-04-22 14:57 | Comments(0)
2007年 04月 21日

春眠暁を・・・ー春のにおい(57)

春眠暁を覚えずというけれどここのところ呼吸器の変で春眠暁を数えるだ。咳で
何度か途中目覚める。その度に外の明るさを見る。明けるのが早くなりオレンジ
色の濃い光が見えてからまたうとうとと眠る。熟睡がない。こんな事で水戸芸術
館の大木裕之さんのゲストトークに参加できるのだろうか。大木さんとマネージャ
ーの藤田さんから再三に渡り招請があり行く事に決めたばかりなのに。そろそろ
九州やドイツや沖縄とお声の掛かる所へはどんどん出て行こうかなあと思い出し
ていた。昨年1月からずーっと突っ走ってきた。あえぎあえぎだが。やはり辛い3月
4月に疲れが溜まる。5月花開く光の月。心身開放したいなあ。シラネアオイの透
明な吸気の谷川を歩きたい。呼気ーまゥのハマナスの夏・秋を目指して1年があ
るのだ。さっぽろの、いしかりの1年が。冬の年の終わり、夏の年の始まり。今朝
も奥三角に”my love”と挨拶。少し力を貰った。
今日の道新朝刊に大きく写真入りでドイツ・ケルンのアートフエアに出品中の谷
口顕一郎さんの記事が掲載されている。今年11月3日から2週間さっぽろで個
展の申し込みを先週受けたばかりでその際来週からケルンに行くと伝えてくれて
いた。<来週からはケルンのアートフエアに出品して来ます。世界最古のアート
フエアなんですって。11月に勢いをつける意味でも、はりきってきます。>
呼吸器の変から、maw(まぅ)-呼気・風・ハマナスの実とアイヌ語の言葉を思い
出し、吸気の渓谷シラネアオイを重ねて古アイヌの考え方夏の年の始まりと終わ
りを考えていたら本当に11月個展の谷口さんの事が今日呼応するように出て来
た。先程花田さんの電話で”ケンちゃん今日の朝刊に出てるよ”と教えられたのだ
。<中森さんがよくいう、一番辛い時期にがんばれると勢いがつく。ということ、今
年の1月2月に実践できました。暖房がないアトリエなので、くじけそうにもなりまし
たが、その辛い時期にがんばれたのが、春が来てからの僕の自信になっています
。・・・ケルンより戻ったら、報告します。それでは。>なにかこちらの事を見透かさ
れたように10日前のメールが甦ってきた。今日の新聞記事はそのまま今日の私
へのエールだった。呼気、吸気、と呼応する魂の。ケンちゃんありがとう。今日の
さっぽろからのご報告です。


*木村環展「LIFE GOES ON」-5月6日(日)まで。
 am11時ーpm7時月曜休廊於テンポラリースペース
 札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-04-21 12:24 | Comments(2)
2007年 04月 19日

マイラブ、我が友よー春のにおい(56)

南円山から円山北町まで自転車の置いてある所までいつも歩く。途中、あるポイ
ントで私の心の山、奥三角のその端正な姿を見る事ができる。ビルとビルの間の
隙間からである。その時いつも呟く。my love!何故か日課になっているのだ。
そして界川遊歩道を分断している大通りの上の分離帯を過ぎる。その分離帯には
木が植樹されていて本来川の上の位置にあるその木だけは他の木と比べて大き
く姿も堂々としているのだ。やはり地下の水脈に根ざして元気がいいのだろうか。
それに気付いてからいつもその木にタッチして呟くのだ。やあ!我が友よ!と。
my loveは琴似川の源流域、我が友は界川の流域そしてこのふたつの川は今
いる北大ゾーンの川たちとも合流して北東のパラト・石狩へと向かう。見えない川
の流れとともに私の朝は始まる。今日も快晴。競馬場横の円山川、界川、琴似川
の合流地点を自転車は軽快に走る。エルムトンネル上の微かな残雪。芽吹く北大
農場の濃い土。獣医学部脇に聳え立つ巨木。風はまだ少し冷たいが春である。
木村環さんは今日で3日目。毎日会場で作品を創っている。時間が早いと言う。
シニカルな彼女の毒気がここでどう変化していくのだろう。初日から燦々と陽射し
が入り床に座って制作している。見に来て戸惑う人も多いようだ。急な個展に対応
してここで創り続けあくまで新作で勝負。その気持ちがこの滞廊制作という形にな
った。藤谷康晴さんのライブドローイングに触発され何かが弾けているのだ。年末
の彼女の個展では藤谷さんとのコラボレーシヨンも予定されている。木村さんの絵
に藤谷さんが描き込んでいくライブだ。ある意味男と女、剛と柔の作風が同じシニ
カルな醒めた毒同士でぶつかり合う。藤谷さんが弾き、木村さんが弾きそしてふた
りが重奏へと進む。楽しみな冬である。E教授が来る。個展の提案に年内は無理
との答えだった。見る前に跳べ、そう思う。頭の意識では先へと触れる。しかし身が
来ない。木村さんや藤谷さんとはそこが違う。ある程度表現者として位置を保った
人はその発表までの距離を意識する。段取りを考える。周囲との関係性も意識化
する。そこに既成の社会関係が作用する。先にそれらがあっては駄目とも思う。関
係性は行動の後から着いてくる。EXが先だ。だからEXHIBITION。立場、立場だ
から強引には決め付けられないが私の結論はそうだ。いい作家なのでここで是非
一皮剥けて欲しい。ロシア文学者の工藤正廣さんが娘さんと来る。1990年代弘
前の村上善男とテンポラリースペースで出会って親交を深めた彼の顔を見てふっ
と提案する。ちょうど5月が村上さんの一周忌、追悼展をしないかと言った。詩人と
しての村上善男、画家としての村上善男。両方から展覧会を組み立てたい。それ
には工藤正廣は詩人であり、津軽人であり適任なのである。佐々木徹さんが病で
倒れ5月の空白に頭を痛めていた。工藤氏快い反応だった。私の所の資料と工藤
氏の資料で展覧会を組み立てる事にする。及川恒平さんのライブも組み込めるな
あと思う。

*木村環展[LIFE GOES ON」-5月6日(日)まで。
 am11時ーpm7時(月曜休廊)於テンポラリースペース
 札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-04-19 12:48 | Comments(2)
2007年 04月 18日

翳は翳のままにー春のにおい(55)

翳は翳のままに、影は影のままに、ゆらりと立ち、ゆらりと震える。人の心に潜む
悪意のメルヘン。毒の無い生物などない。イカにもお芋にも牛にも鳥にも。翳のな
い水銀灯、影のない蛍光灯。深夜のコンビニ。でも隠しようも無く黒々と立ち上が
るその上、囲む無人のビル。夜は明白だ。昼は曖昧。白昼に翳は狂気のように潜
む。そこから植物のように形を顕す悪意のメルヘン。人間の毒。毒を中和しあるい
は消したふりをする仮面を前提とする均一な嘘ののっぺらぼう。光だけを増幅する
翳を消す過程。その清潔安全の嘘こそが真の毒だ。木村環の描く悪夢のようなメ
ルヘンにはそういうメッセージが篭められているようだ。隠花植物のような人間の
顔。そこから萌え出す梢、時にはみ出た眼、鳥の巣、砂丘のような頭部。これらは
みな正統な人間の翳から萌え出ているのだ。正統な悪意。薬一方の効用能書きを
嘘と見抜く正統な毒。毒には毒を持って制す。薬漬けの毒に対峙する心の、精神
の正統な毒。その萌芽を丹念に育てる事。それが唯一白昼の増幅された翳の無
い敵と闘う手段である事を彼女は直感的に見抜いているのだ。衛生安全で薬効と
化した社会の毒と闘う為には。灯りの揺らぎが照明だけを効能的に増幅させた時
揺らぎの翳は死ぬ。翳は翳のままに。毒は毒のままに。それが正統で真っ当であ
る事を証明すること。それが木村環の絵画の芯にある闘いのありようなのだと思う
。表現は美という衣を鎧のように纏いながら美に流されずその身体を闘いの筋肉
の梁で支えられている。その事実を抜きにコンテンポラリーな共感はない。
効能を増幅した食、住が反転して凶器の毒として襲い掛かる。<頭と手の間に機
械が入って分断してしまった。>ー「海からの贈り物」リンドバーグ夫人(落合恵子
訳)この40年以上前に<機械>と表現された頭と手を分断する増幅装置の存在
はそれからあらゆる場面で翳の存在を消す装置として揺らぎを消し定着しているの
だ。政治と経済の利便的合理主義から発するこの毒に文化の軸足からどう対峙し
回復していくか、そのひとつの答えが木村環の描く正統な毒の復権という視点でも
あるだろう。

*木村環展「LIFE GOES ON」-4月17日(火)-5月6日(日)am11時ー
 pm7時(月曜休廊)於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-
 8北大斜め通りtel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-04-18 12:07 | Comments(0)