テンポラリー通信

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2007年 02月 28日

コンビニの視座ー春のにおい(13)

来廊中、人の見ている時間が長い。ゆっくりと角度を変え歩き座り立ち見ている。
作家が居る訳ではない。作品の世界にいる。三越、パルコ、セントラル、アルタ、
旧丸善、池内、マツモトキヨシそれらの建ち並ぶ道都の繁華街がコンビニの位置
の視座で切り取られ白黒の精緻なペン画で再現されて目の上の四方を囲んでい
る。23日のライブドローイングで描き込まれた蔦のような曲線と渦紋状の花のよ
うな模様が実物大のマンホールと排水口の上を覆って整然としたビル群とその下
で対峙している。そのビル群の上をまたフロッタージュされ切れ切れに再縫製さ
れた路面の布が被さるように覆っている。最初に展示された吹き抜けの壁に貼ら
れた街の寸景はすべて取り除かれ南壁のパネルも取り払われ目の上を取り囲
む一番街とライブドローイングの描き込まれた作品だけが会場を構成している。
「肉体vsCONCRETE FICTION」。肉体とタイトルに表示された文字通り身体
を使って8時間描き込まれたドローイングは虚構の市街地に対峙してシンプルに
今展示されてある。現代の雑貨屋であり駄菓子屋であるコンビニエンスストアー
の視座で道都のショッピイングビル街と対峙した藤谷康晴の世界は見る人をして
様々な想いに導く装置のようにあってそこではそれぞれの自問自答が行われて
いるようだ。帯広から来たというMさん、ライブドローイングに途中まで立ち会った
Wさんはもう三度目。一緒に来たSさんは椅子に座って見ると街が静止し、立って
見ると街が動くという。三人とも1時間から2時間近く会場にいた。普段何気なく行
き過ごしている街の風景がこんなにもそれぞれの原風景として問い掛ける。同じ
街の街路にはパブリックアートの彫刻群も設置されているのだがこの虚構の街
路ほど人の足を止め問いかけることは無い。その差はどこからくるか。それは
街を支配するリズムその構造と対決していない事からくる。札幌という政治を軸
として開発された街。経済を軸として構成されたビル群。その政治と経済のパブ
リックワークがもたらした公共空間。そこに寄り添うパブリックアート。個という軸
に訴えかける思想がない。しかし藤谷さんがその街を見据えた世界の軸には現
代の原風景のようにコンビニの視座がありその現代の駄菓子屋という路面の視
線が非等身大の街と対峙する軸となってある。彼の作品はそうした個の原風景
の軸を喪失した安直なパブリックアート彫刻群への痛切な批判ともなっている。

*藤谷康晴展Ⅱ「肉体vsCONCRETE FICTION」-3月9日(金)まで。
 AM11時ーPM7時(月曜休廊)於テンポラリースペース
 札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り
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by kakiten | 2007-02-28 12:28 | Comments(0)
2007年 02月 27日

優しく激しい亀裂ー春のにおい(12)

どこかでもう春の気配を感じている。しかし目に見えるものはまだ冬。皮膚も冷た
い。昨日の陽射しは春のそれだったが今日は曇天。寒い。この繰り返しにこの季
節の果て、冬の疲れが残る。体は正直だ。気管支と肺のあたり、腰にそれがくる。
私は多分自分の来し方、自分の体験を藤谷さんの描く一番街の風景に重ね合わ
せて見てきた。仲通は消えビルの谷間、商品の搬入口になり屋根が消えた街。か
って人は原風景を「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」と唄った。私にはそんな
野山はなく街の仲通りの風景が小さな頃の原風景である。ある世代からその原風
景は明るい深夜の煌々と蛍光灯の輝くコンビニエンスストアーのように思える。20
代前半の人の写真でそんな夜の水銀灯と蛍光灯に輝く建物だけを白黒で撮影し
た街路風景だけで構成されているのを見た。人の気配は無い。白い光だけが夜
の闇に輝いている。かっての駄菓子屋のようにおじさんやおばさんという人と物が
一体化した店ではなく商品だけがきらきら並んで電球ではなく翳の無い蛍光灯の
世界なのだ。店はコンビニというショップになりその感覚で、その色彩で、繁華な
白昼のショッピングビル群を切り取れば藤谷康晴の描く世界となる。路面から身
体大の大きさに街は眼で切り取られる。そして深夜のあのモノクロームな蛍光灯
と水銀灯の色彩に。人の気配は無く。彼は色彩と物と群集に溢れた昼の街を夜
のコンビニ風景と等置に透視している。何故ならそれが彼の原風景だからだ。昼
の原色のスピード、騒音、人の群れ、強引な高さ、等身大を引き裂くもの、それら
を排除して自分の身の丈大に街を奪還しようとする。もしその行為を現実行為とし
て孤独に実践したなら限りなく彼は宮崎勤の犯罪に近いところにいる。酒鬼薔薇
少年の<透明な存在>の位相なのだ。このコンビニ世代の凶気が作品表現とし
て廃墟に生い茂る蔦や花のように渦巻き都市構造に亀裂を生み出すのはある意
味で画期的なことだ。そこには命の直接性が復活しているからだ。白昼の街が廃
墟の街へと転換する。そして生命がその亀裂に生まれる。テロと革命がコンビニ
の暗室から反転する。眼のテロが眼の命に革まる。世代を超えて私が藤谷康晴
の作品に同時代性を感じるのはその謂だ。私の仲通り、私の路地裏が雑草と共
に街路の優しい亀裂として原風景のように幻視されるから。その優しい亀裂を肉
体として意識化した時対峙した街もまた別の身体性を保つ。切れ切れに裁断され
た街からある総体性を保つ街へと。そのルネッサンスへの希求こそが文化の保
つ力だと今思う。

*藤谷康晴展「肉体vsCONCRETE FICTION」-3月9日(金)まで。
 AM11時ーPM7時於テンポラリースペース
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by kakiten | 2007-02-27 14:28 | Comments(0)
2007年 02月 26日

真っ白で真っ青な天地ー春のにおい(11)

ライブドローイングをメインに残して藤谷さんの新たな展示を終え日曜日は休む。
今日は休廊日だが家に居て何もしないでいたら腰が疲れて今日は歩く。桑園を
抜け北大第一農場を横切る道を選ぶ。石山通から農場へ入るとなにもない。真
っ白で空は真っ青。振り返ると手稲山、迷い沢、百松沢山、藻岩山、手前に三角
山、奥三角、円山と一望に広がっている。真っ白な大地、真っ青な空、そして山並
み。もうこの場所でしかこの風景は見られないだろうなあ。旧帝国大学の当時の
力を思う。ポプラ並木はもう片側だけで並木ではないがこの農場の広さがあって
西の連峰が一望できるのだ。藻岩山方面はマンシヨンの翳がありパノラマを一部
消している。雪焼けしそうな陽光の反射を顔に感じながら山スキーで奥手稲山に
登った事を想い出していた。樹氷をかじり軍艦のように見える手稲の巨体。鋭角
的なとど松の大木。深夜着いた奥手稲小屋のどっしりとした建物。月光の明るさ。
小屋で焚いた火の暖かさ。山岳画家熊谷榧さんと登り50号の油絵となって今も
手元に残っている。道を間違え何度もシールを外しまた装着して沢から沢へと登
行した。両手両足そして呼気吸気。ひとり逸れて途方にくれた時もあった。それは
無意根山にやはり山スキーで行った時で他のパーテイを見失い別の道に迷い込
んだ。膝と手と足だけが等身大であとは白い稜線と樹と空だけ。今日のように真
っ白で真っ青な山と空。疲れてくると遠いはずの山の稜線がぐつと迫って来て遠
近感が狂ってくる。樹は樹の大きさ。山は山の大きさ。人間を中心にしたスケール
が無い。目に見える膝と脚と手以外に自分の等身大のものは何もないのだ。遠く
の尾根を黒い影が疾走った。呼ぶ声がした。その時ふっと自分に戻った。大きさ
が回復した。普段人間の大きさを基準に囲まれて生きているその基準が喪失した
時大きさの錯乱が起きる。遠いはずのものが近くに感じ遠近法が消える。冬山の
美しい恐ろしさはシンプルな雪の白と空の青にある。吹雪の一面白い闇はもう言
うまでもない。ポンと自然の中に孤絶すると人はほんとうにきっちりと自分だけの
身体を感じる。外界は自分の大きさでは存在しない。それぞれの大きさでしか存
在しない。自然の真っ只中で人間は裸の王様でしかない。そしてそこから始まる。
五体五感のすべてを動員して。五体五感がバラバラでは困るのだ。生きる為それ
が一体になる。等身大が復活して前を見る。生きる事も表現も根っ子は同じと思う
。個の身体性の見えない表現行為は嘘だ。

*藤谷康晴展Ⅱ「肉体vsCONCRETE FICION」ー3月9日(金)まで。
 於テンポラリースペースAM11時ーPM7時札幌市北区北16条西5丁目
 1-8北大斜め通りtel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-02-26 13:21 | Comments(1)
2007年 02月 24日

暖かい廃墟ー春のにおい(10)

マンホールが向日葵のようだ。排水口が輪舞している。藤谷さんのライブドロー
イングはアスファルトも渦、渦と渦巻いて生命体の復活のように壁をさかのぼり
街路の下からさらに吹き抜けの壁,天井へと増殖するように描かれていった。
暖かい廃墟。直線の街に対峙する生命の曲線。見捨てられた炭都。私は’80
年代に初めて訪れた夕張の風景を思い出していた。当時さっぽろは市街地の
再開発が進み地下街とビル群が天と地を覆っていた。書き割りのような街。山
並みがビルで仕切られ風景から消えていく。それは今郊外にまで及び歩く視界
からどんどん遠ざかっている。都市が風景を修正していく。消去していく。藤谷
康晴が画の上で描いたことはその正反対の仕事である。彼は都市を修正して
いく。自分の眼の高さにビル群を切る。足下のアスファルト、マンホールもめくれ
て立ち上がる。そこに生命体のような増殖するものを<肉体vsCONCRETE 
FICTION>として1日白い修正液で描き込んだのだ。私は修正液を使うと聞い
た時さらに街が漂白されそれを透明な殺意のように感じていたのが昨夜の彼の
ドローイングはむしろ生命の復活、ルネッサンスのようにあったのだ。休みなく8
時間連続の描きこむ傍で立ち会いながら私は都市の廃墟が廃墟のままにあっ
た優しさ暖かさが甦る、あのさっぽろから訪れた最初の夕張の時間を思い出し
ていたのだ。自然が植物の形をして復権し、人の営みが衰退した時の緩やかな
時間が息づいている事の当り前の幸福のようなもの。廃れる事が悪であるような
鋭角的な価値観の対極にあるもの。ふかぶかと下っていく坂道のような時間。
廃墟は廃墟のままに。そこに立つたとき高い壁だけが残ったガラスのない窓の
向こうには緑が豊かに茂っていたのだ。なにかの機械の残骸さえ赤錆びて美し
いカロの彫刻にさえ見える。一方現代の廃墟とも言えるランドフィルー最終ゴミ
処理場はのっぺらとした原色のプラスチックゴミが斑な丘を作り人間をもう絶対
に信用しないぞといった眼付きの捨て猫がじーっとこちらを見ていた。ここには
廃棄物の山はあってもあの暖かい廃墟はなかつた。都市の裏表が要と非要と
いう生と死で投げ出されているだけ。要で作られた街の裏側が廃棄の場だ。石
狩河口で大野一雄の舞踏を企画した時川辺のゴミを清掃しながら同じ光景を
見ていた。原色のプラスチックゴミと流木や猫の死骸。命あるものには死にも時
間があった。産業廃棄物には死の時間が無い。死する時間を保つものは死すら
美しいのだ。廃墟は廃墟のままに。藤谷康晴が表現しようとした明視の街はその
明るい原色の死、明るい死を本来の命の廃墟として復権しようとした行為と思う。
彼が肉体vsとして対峙した街はその時夢のように同じ無彩色の姿をしながら渦
巻き、花のように開いて直線のコンクリートの市街地を下方から命の有機体の
ように破壊し復権しようとしたのだ。ライブの行為の意味はそこにある。その行為
に立会いその8時間の結果に集まった人たちの拍手はしばし鳴り止まなかった。

*藤谷康晴展「肉体vsCONCRETE FICTION」はそのライブの結果を残し
 展示を一部変え藤谷康晴展Ⅱとして3月9日(金)まで展示致します。会場を
 現場とした新作を是非ご高覧下さい。
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by kakiten | 2007-02-24 12:42 | Comments(0)
2007年 02月 23日

雨降るー春のにおい(9)

藤谷康晴展最終日。雨降る。屋根の上を雨音が響く。冬を殺す刺客。雪を消す。
藤谷さんの白いインクで画き続けるライブドローイングの今日にはピッタリかもし
れない。北国の二月の雨。厳寒の雪の大地が雨で消去される。雨のテロ。精密
に画かれたマンホール、排水口、アスファルト。白い修正液でどう消され、どう形
をもつのか。「殺風景」と題された道都の繁華街。そのショッピングビル群を目の
高さで切り人の群れを消し、看板も色も消去し足下の路面を擦り出すように顕在
化させそこに肉体vsというタイトルで1日挑む。消しつづける。その結果なにが生
まれるのか。さあ、画家の酒鬼薔薇さん、お手並み拝見です。君は「透明な存在
であり続けるボク」なのか!定刻。藤谷さん来る。”雨とはなあ”と呟く。しばらく息
を整えるように歩き回る。白いインクを筆に浸し描き出す。待ちかねたようにMさん
が来る。しばし注目、そして撮影。雑談しながらも眼は藤谷さんの筆を追う。天井
桟敷の役者だった平川勝洋さんが来る。初めて見て会場を歩き回り二階吹き抜
けに座る。壁に飛んで展示されている一枚が気に入り購入する。色めく日常と題
されたシリーズの一枚「ドーン」という作品だ。その間も描き続けている。形が見え
てくる。花だ。マンホールに花が咲く。意外な展開。蜘蛛の巣状の模様も出てくる
。マンホールに時間と生き物性が絡まる。漂白されたモノが時間を備えてくる。命
が芽生えてくる。そうか、夕張の暖かい廃墟の風景。都市が廃れ壊れその後に命
が復権するように。その暖かさ、ねい猛さそんな渦紋状の植物の蔓のような線が
這い回っている。廃墟の復権。ピカピカの新しい廃墟ではなく命の正当な廃墟。
さっぽろと夕張。産業遺構物が堂々と立ち寂れていた時の夕張。その都市の優
しさ暖かさを思い出していた。さっぽろの表通りには明るい廃墟しかなかった。朽
ちる自然がなかった。藤谷さんはそれを今再現している。彼が凝視した明るい廃
墟の下で。見る見るうちに覆われていく。蔦が茂り命の曲線で覆われる。グレン
グールドのバッハをかける。
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by kakiten | 2007-02-23 10:47 | Comments(0)
2007年 02月 22日

疲れの残る街ー春のにおい(8)

陽気がいい。雪解けが一気に進んでいる。体調はいまいち。だが食欲は健全。ま
た近くの中華料理屋で昼の定食。量が多いが苦にならない。帰ると若いデザイン
系の学校の一年生という子が来ている。ここが三越ここがパルコと藤谷さんの絵
を説明すると目を円くして驚いていた。それから吹き抜けの二階に上がり街の寸
景を食い入るように見ていた。印刷された小画集をとうとう買うと言う。銀行でお金
を下ろしてくるといって外に出る。そこへ美術家の後藤和子さんが来る。昨年一昨
年の個展のファイルを持参して独特のブルーの世界を見せてくれた。今回の藤
谷さんの展示が大いに刺激になったようだ。前回見えたときはガラスの高臣大介
さんの展示の時で会場構成ががらりと違うからだ。そこへキヤンドル作家の福井
優子さんがお連れの人とふたりで来る。よく見ると後藤さんも福井さんもブルーの
装身具と衣装をしていてその事からどちらもブルー好きと分かり話が合う。雪の中
の青、日の長い夏の青。そんな形でふたりそれぞれの個展が実現できれば素敵
だ。若い子が藤谷さんの小画集を買ってくれみんなが帰った後ビリーホリデイの
初期の唄を流す。なにか疲れ気味の体調にゆっくりと音声が沁み込むようだった。
栄通記のブログを見る。先日の酒井博史ライブのこと、熱く記している。聞き手の
熱さも伝わる優れた見聞記。酒井、藤谷ふたりの写真もいい。
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by kakiten | 2007-02-22 18:16 | Comments(0)
2007年 02月 21日

出会いの街角ー春のにおい(7)

今城恵子さんが帰って1日後後映像作家の大木裕之さんが来る。函館松前の映
画製作を’91年より続けている彼は最近「メイ」という作品を一昨年から発表して
いる。この作品は毎年5月に撮り続けていて10年近く続ける予定という。現在水
戸芸術館現代美術ギヤラリーで2月3日から5月6日までその作品が「メイ 200
4ー2006年」として発表されている。石狩河口ーモエレ沼ー夕張の映像が前の
テンポラリースペースとともに撮影されて私も出てくるようだ。「オカクレ」という
大木さんのお父さんを追悼した作品はテンポラリースペースを軸に撮影され彼
のエポックともなった作品でこの作品制作の過程で関った野上裕之さん、岡和
田直人さんが共に作家としての転機を孕んでいく。今回も恒例となっている松前
とメイの撮影に向けての来札で藤谷さんの会場でしばし語り合う。2,3時間後
風のように苫小牧に向かい去って行った。また5月と言って。この日道新の夕刊
一面に村岸宏昭さんに関連した記事が大きく掲載されていた。故村岸さんが出
演したロイストン・タン監督の「モンキーラブ」がフランスの短編映画祭で実験映
像部門の最高賞に選ばれたという記事だった。昨年8月川で事故死した村岸さ
んの死んだ後も続く様々な波紋がこうして今日もこの日藤谷さんの昨年7月以
来の個展の最中にも起きるのだ。また大木さんの来訪中にこの記事を見るのも
不思議だった。大木さんが今住んでいる高知県に野上さんのいる尾道から訪ね
て村岸さんの事故は起きたからだ。昨年7月前半藤谷さんの個展の搬出日に村
岸さんが個展の白樺の搬入に入りそこでふたりはバトンタッチ、ハイタッチと言っ
て手を高く上げて挨拶をしたのだ。一昨日尾道へ帰った野上さん、大木さんの来
訪、藤谷さんの個展と揃った所で村岸さんの記事となにか示し合わせたように時
間が重なる。新聞の記事は村岸さんの事を多く取り上げお母さんの「亡くなってか
らもプレゼントをくれた」という談話で締めくくられていた。そうですね、亡くなってか
らも彼はたびたび訪れて来る。今日もふらりと来た陶芸家の河合利昭さんが村岸
さんの新聞記事の話をして急に彼の遺作の「星置ー銭函」のCDを聞きたいと言い
出しそれをかけた。藤谷さんの描く細密な無人の街角に昨日も今日もまた心の人
が立ち顕われ色めくのだった。。石田さんの追悼ライブをした碇昭一郎がライブの
後の語らいで石田さんの死の2,3週間前自宅に来て熱く何時間も村岸さんの事
を語っていたという話を披瀝していた。一度会いたかったなあと碇氏はここに飾っ
てある遺影に目をやりながらポツリと言った。音楽青年3人のバトンタッチ、ハイタ
ッチ今こうして掌を合わせて挨拶しているのかもしれない。無人、離人の透明な
街角。ここでは人の魂の往来が今日も溢れているよ。そして今日村岸さんの音楽
の恩師南先生からメールが届く。第一希望の追悼ライブ会場その日予約が取れ
たという内容だった。そう、亡くなってからも友人先輩恩師を呼び寄せ賑やかだぜ
、村岸さん。そうですね、お母さん。

*藤谷康晴展「CONCRETE FICTION」-23日(金)まで。
*ライブドローイング「肉体vsCONCRETE FICTION」
 23日AM11時ーPM7時作家が終日展示作品に直接描き続けます。
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by kakiten | 2007-02-21 12:56 | Comments(0)
2007年 02月 20日

透明な街角ー春の匂い(6)

朝吐く。夜やたら喉が渇き水やウーロン茶を飲み朝歯を磨いていて急に吐き気
に襲われ盛大に吐く。噴水みたいだった。ふらふらしてギヤラリーに着く。昼時
なにを食べようか迷う。近くの中華料理屋に行くが満員。少し先の昼二時間しか
やっていない三太というラーメン屋さんにも行くがここも満席。お婆さん一人でや
っている味はピカイチの隠れ家のような店だ。スープが美味しい。後味がさっぱり
して後に残らないのだ。知る人ぞ知る名店と聞いた。お爺さんの味をお婆さんが
守っているのだろう。無理せず昼二時間だけの店である。仕方なくまた中華の店
に戻る。席が一席丁度空いてあんかけ焼きそばを頼む。胃に優しいものが欲しか
った。出てきたのは大皿一杯の量でさすが学生街といつもの事だが思う。酢をか
けなんとか平らげる。胃は大丈夫だった。昨日からの胃の中は空っぽだったので
落ち着く。帰って間もなく山内慶さんが来る。お土産に喉飴を貰う。キンカンと蜂蜜
の飴でなんとなく欲しかったもので嬉しかった。山内さん曰く”なにか今日すっきり
してますね”と言う。それは今朝吐いたからでしょうと答えた。理由はと問われここ
のところ濃い時間が続いてと酒井さんのライブの話をする。男の生理ってとブログ
を読んでいてそっちに話がいく。そうさ、あのライブは酒井さんの三十歳にして立
つた後の初潮みたいなライブでほとんどコメントなしで濃かったと言うと山内さん
は笑いが止まらなくなった。藤谷さんの作品とその展示には以前の個展もみてい
るので大いに感嘆していた。私はふっと宮崎勤の酒鬼薔薇(さかきばら)少年の「
透明な存在であり続けるボク」という言葉を思い出して、藤谷さんの描く市街地は
その透明感に近いと話した。離人と無人の透明な市街地。コンビニ世代特有の原
風景。そんなものを感じていて、そこにライブで人と音と声が満ちまた一昨日のよ
うに女性の元気が溢れると何か凄いことになるんだと山内さんに話した。だから、
むんむんと男の生理女の生理にあてられて参ったんだと言うとお大事にと言って
つれなく彼は帰っていった。本当は肩のひとつも揉んで貰おうと思っていたのだ
が言いそびれてしまった。今夜はコーンスープでも飲んで熟睡したい。藤谷さん
の画く街は人を消すある種テロリズムで画かれている。そこに会期中対峙するよ
うに熱い生身の人が立ち入ってくる。その見えない闘いのようなものが渦巻いて
いる。明日以降体調整え見届けなければならない。そう思うのだ。
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by kakiten | 2007-02-20 16:06 | Comments(0)
2007年 02月 19日

さやめく街角ー春のにおい(5)

昨夜、一昨夜のさやめきをそのまま保つようにこの日も不意に人が訪れる。午後
も3時過ぎに美術館の今井里江子さんがふらりと来て今日東京から今城恵子さ
んが来ると言う。映像作家大木裕之の私設マネージャーをかってでている優秀
な人だ。前回来札の時は吉増剛造さんと工藤正廣さんの対談がありここでお会
い出来なかった経緯がある。全国を駆け回り先月は九州で仕事と大木さんのプ
ロデユースの企画も進めている。本業は某全国チェーン企業の事業本部に籍が
ある逞しい女性である。昨年初めてここを訪れた時は僅か三十分の来訪でその
多忙さに驚いたが後で彼女のミクシイのブログを読み目頭が熱くなった事がある
。熱い人だ。少し疲れ気味の今井さんもやがて来た今城さんを見て元気になる。
どっさりと食べ物と飲み物を持って今城さんと教育大の卒業制作展を終えたばか
りの岡田綾子さんが来て宴が始まった。藤谷さんの無彩色な街が華やぎだす。
仕事を終えた藤谷さんも現れ作品批評と感想が入り乱れる。評価は概ね高い。
映像の人、美術の人、若い作家の卵の人、それぞれが女性ならではの見方もあ
って面白かった。お酒が周って今度はそれぞれの生き方や経験の話になる。午
後7時過ぎに飛行機の時間がきて今城さんが帰った後も若い岡田さんと先輩の
今井さんの話が続いた。今井さんは車で来たのだが、もう車はここに置いていく
と言って飲んでいる。沢山あった食べ物もあっという間になくなって藤谷さんのお
母さんが差し入れてくれたツマミ類を出した。私は連日の疲れが早い時間からの
お酒で回り途中で中座して二階でひと寝入り入りする。やあ、女性は逞しい。藤
谷さんがずーっと付き合っていた。休日の今日は午後からギヤラリーに顔を出し
た。今晩尾道に発つ野上裕之さんが来る。酒井さんとのコラボレーシヨンの印鑑
の彫刻、「渾」の字の捺印した紙をわざわざ表具して額に入れ持って来てくれる。
そこに今年5月個展予定の佐々木徹さんが来てしばし話し込む。さやめき、ざわ
めく街角。今週の藤谷さんライブドローイングまで後4日だ。

*藤谷康晴展「CONCRETE FICTION」-23日(金)まで。
 am11時ーpm7時
*ライブドローイング「肉体vsCONCRETE FICTION」
 最終日23日am11時ーpm7時終日
 於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目ー8
 北大斜め通りtel.fax011-737-5503
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by kakiten | 2007-02-19 16:24 | Comments(0)
2007年 02月 18日

脈打つ街角ー春のにおい(4)

ほぼ実寸大のマンホールそして排水口。それら路面の風景がめくれて立ち上が
り正面に展示されている。タイトルは「コンクリートフイクシヨン」。その上をぐるり
と四方に繁華街のショッピングビル群が脱色されたモノクロームな精巧な姿で林
立している。タイトルは「殺風景一番街2丁目3丁目通り」。そしてその上を擦り出
(フロッタージュ)されたハガキ大の作品が幾十枚も重なって暗雲のように吹き抜
けの壁を這うようにつたわって天井へと昇っている。正面左の北壁には静謐な窓
の作品が閉じた窓、半開きの窓と四点「エロチック住宅街」というタイトルで並ぶ。
正面右の南壁には電柱が様々な物を背負って黒の背景に白く浮き出て十点並
んでいる。タイトルは「無言のパレード」。さらに二階吹き抜けの北壁には「skin
 destruction」と題された昨年11月フロッタージュした路面の大きな布に1日ラ
イブで画き込まれた作品を新書大に切り再び一枚に縫い合わした大きな布の作
品が群雲のようにちようど三越の建物の真上を覆っている。また吹き抜けの西
窓を中心に空いている壁にはハガキ二枚程の大きさの「色めく日常」と題された
街の寸景が飛天のように散らばって飛んでいるのだ。作品はすべてモノクロー
ムでペンによる細密画である。この街が凍結したかのような人も看板も色もない
空間で一昨日は故石田善彦さんを追悼するjazzの暖かい音が響いた。そしてこ
のモノクロームな街は凍結した空気を震わせ揺らぎ流れ出したのだった。そして
昨夜。酒井博史ライブでは街が生理を保ち色づいたのだ。声には生理がある。
呼吸し、発汗し、意志し、挫折する。弦が切れ戸惑いまた唄う。酒井さんは30歳
の心身のすべてをぶつけるように藤谷さんのコンクリートフィクシヨンの前で唄っ
た。聞き手は私もいれて僅か四人。でも人数は関係なかった。藤谷さんの描いた
無人の街景の中で酒井さんの声が血脈のパルスのように真っ向から声の肉体を
晒したのだ。そこには男の優しさ、脆さそして激情。断念、憧れ、そして怒り。すべ
てがあった。彼は三十歳の男の生理をすべて声に打ち込み表現した。それが同
世代の同じ街に生きるもうひとうの<CONCRETEFICTION>だった。市街地か
ら物と人を漂白した無人の街。その消去法に対峙する声の生理。それが酒井博
史のもうひとつの<CONCRETE>だった。未完ではあったが彼は自作の曲も
初めて披露した。人が人を思い演奏されたJAZZの夜に動いた空気が昨夜は熱く
迸って動悸を打ち街は生理を保つたのである。音と声が白と黒のコンクリートの
街をconcrete(形ある、具体的な)なconcrete fictionに転位したのだ。こんな
時間はそうあるものじゃない。最終日今度は本人自身が展示作品にライブでドロ
ーイングをすると言う。この時再び空間はどんな熱を発し転位するのだろうか。

*藤谷康晴展「CONCRETE FICTION」-23日(金)まで。
 am11時ーpm7時(月曜休廊)
*ライブドローイオング「肉体vsCONCRETE FICTION」
 最終日23日終日
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by kakiten | 2007-02-18 12:04 | Comments(0)