テンポラリー通信

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2006年 07月 30日

函となって溢れるー界を生きる(33)

とうとう今日搬出。村岸さんの白樺、どなたかが欲しいと言っているそう。その場所
に合わせてまた立ちつづけてほしいと思っている。復元はできないがその木の心
を再生する事は出来る。人の心の作用として。そんな不可能を可能にするかのよう
な六番目の身体、幻想の物体が人の五感を刺激し解放してくれる。日々の現象に
潜んでいる本質のコアへと触れさせてくれる。個々の感受性が様々な虹を架けて
くれた。人それぞれが鏡のように光を反射する。その光の中に作品が存在した。
只の倒木の幹がある本質的な存在となるのはその光が在るからだ。作品にとっ
てその光を発する万華鏡のような装置、函、それがギヤラリーという空間である。
箱ではない。集まり、溢れる函なのだ。大函、小函と川の水の集まり溜まり溢れる
その函だ。閉じてはいけない。exhibitionのEXは外へ前にであってINではない。
私が出来る事はその函にひとつひとつ立ち会うこと、そのことだ。一回一回がかけ
換えの無い時間である。テンポラリーと名づけたのはそういう意味である。歩行の
ように一歩一歩である。急に頂上に至るのではない。下りもある。急に海に出るの
ではない。谷もある、平野もある。トータルでコンという頂きを保つ。トータルでコン
という海を保つ。contemporaryは結果なのだ。無目的な恣意的なtemporaryで
はなく根には時代がある。それぞれのtemporaryがあってそれぞれの時代があ
る。その時間を函が共有する。そこに同時代がある。同じ時代を生きる。その本質
の時間を絶やしてはいけないのだ。少し独白的になった。搬出前のふっと感傷かも
ね。次回は1980年代を駆け抜けたある作家の近作展を是非実現したい。
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by kakiten | 2006-07-30 12:29 | Comments(3)
2006年 07月 29日

白樺の夜ー界を生きる(32)

夕暮れが濃くなり行き交う車のライトが光を増すころ、白樺の傍で村岸さんのギ
ター演奏が始った。低く音を確かめるようにギターに耳を寄せ最初の音が弾き出
される。車の音が気になる。金曜日の夜どこかへ出かけるのかひっきり無しにエ
ンジン音が響く。ちよっとやりにくそうだった。最後バッハの曲を弾き終わり休憩
に入る。後半は二階吹き抜けの窓際ベンチに演奏のステージを移動する。聞き
手は下の床に座布団を敷き座る。途中二階の窓を閉めに梁を渡ろうとして白樺
を吊っているワイヤーを引っ掛け一瞬危なかった。木もろとも落下するところだ
った。幸い木も私も無事。なにか昨日の自転車事故といい続いたね。
暗闇でうっかりワイヤーのこと忘れて梁を渡ったのだ。そんなハプニングを経て
吹き抜けの上から演奏が始る。音が格段にいい。窓を閉めて車の音も薄まる。
白樺にスポットが一灯だけ当たり上部の村岸さんには蝋燭の灯が灯された。
心地よくギターの音色が響き渡る。そして夜の空気に溶け込む。終演後前回
展示した藤谷康晴さんほかふたりが残った。そして程なく酒井博史さんが遅れ
て来た。酒井さんのためにと村岸さんがもう一度上に上がり演奏しだした。激し
い弦捌き、あっという間に彼は全身の力を振り絞りやがてベンチにうつ伏せに
倒れこんだ。その後酒井さんがお返しに一曲朗々と歌い、村岸宏昭展最後の
白樺の夜は終わった。展示は一応30日まで延長しビデオ撮影その他の記録
をする。まだご覧になっていない方是非見てあげて下さい。作家も夕方には
在廊しています。「木は水を運ぶ」この<運ぶ>は<porte>で入口という意味
を持つと会場にパネルで掲示されている。アイヌ語のイパル、イフツのようで
興味深かった。テンポラリースペースその入口を飾るに相応しい白樺の木の
<porte>。村岸さんありがとうございました。昨夜のコンサート十分に言葉
に置き換えることは出来ません。また敢えてしたいとも思ってはいません。
特に最後の演奏は言葉になりません。あの激しさは多分村岸さんにとっても
初めてのことだったのではないでしょうか。あなたも<porte>-(ある分野へ
の)入り口、扉ーを、昨夜開いたのでしょう。この白樺の木とともに。
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by kakiten | 2006-07-29 12:49 | Comments(0)
2006年 07月 28日

人、自転車、自動車ー界を生きる(31)

昨夜も自転車で帰る。途中ランドクルーザー系の車が舗道を塞ぎ止まったので
後ろを通り抜けようとしたら急にバックしてきて引っ掛けられた。転倒したが大丈
夫でそのまま帰ったが夜右の肩が痛んだ。倒れた時咄嗟に右腕で受けたのが
肩に負担をかけたのかも知れない。柔道の受身のし損ないだな。昨日の道具と
機械でも書いたが人、自転車、自動車とパワーの違いが事故の損傷力の違い
にも出てくる。最近自転車に乗るようになって思うことだが歩く人には自転車も
横柄である。そして自転車にとつて自動車は横柄である。特に自動車はその
種類によって性格がでる。要注意は先程のランクル系で特に黒っぽい色のそれ
だ。砂漠か荒野を走る類の車に乗り街を走るような人はきっとどこか傲慢になっ
ているのだ。軽乗用車のチヨロチヨロ急に曲がってくる自己本位な車も怖い。小
ずるいというか小生意気というか油断ならないのだ。尊大なランクル系はもう避
けるに越した事はない。自動車という機械の力が人の心の増幅を直に反映して
いる。車に乗ることは人がある権力を得たことに等しく小さな権力者が沢山巷に
徘徊している事に等しい。自転車もまた舗道を走る時普通の歩行者にとっては
子育て時期のカラスみたいで急に横から襲ってくるのだ。やはりこつこつと歩く
のが一番性に合っている。速さ、利便さとこのコンピユーターに象徴される現代
社会のリズムとどこか対峙するリズムを鍛えなくてはいけない。
有本紀、ゆかり夫妻が来た。ゆかりさんの小樽の個展は見に行けず残念だった。
ふたりはゆっくりと会場にいて村岸さんとも会って話していた。見ていただきたか
った人たちである。今日の村岸さんのギターコンサートには来れないそうで代わり
にチラッと村岸さんが演奏を聞かせた。同じミユージシアンの有本紀さんがじっと
聞いていたのが印象的だった。十日間に渡った展覧会も今日で終わる。
村岸さん、白樺さん、ありがとう!今夜のコンサートきっと最高でしょうね。
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by kakiten | 2006-07-28 12:05 | Comments(0)
2006年 07月 27日

機械と道具のあいだー界を生きる(31)

今朝の気功講習会は中止となる。熊谷透さんの弟さんが危篤との事で急遽そう
なったのである。昨夜自転車を置きに熊谷宅に寄り危ないんだという話しを聞いた
ばかりで私はその時勘でいつも当別に帰る木曜日の気功の日は気を付けた方が
いい弟さんはその日を知っているだろうから何か安心して気が緩んだりするよと
言ったのだ。それが現実となって今日は最初のここでの気功講習は中止となった
。村岸さんの白樺の作品の前で気功を体験したかったので残念である。
先日中川潤さんが来て左手に包帯を巻いているのでどうしたのと聞くと電動鋸で
切ったという。40針縫ったと言うから相当の怪我である。幸い指の腱も神経も切れ
ていなくて指の動きには支障ないという。後日包帯を取った傷跡を見たがそれは椎
茸のように黒くデコボコに脹れ上がっていた。村岸さんは今回展示した白樺の倒木
を1日半かけて鋸で切ったというがこれは手動の鋸でもし怪我をしても電動とは違
って40針も縫うような怪我にはならないだろう。電動と手動の違いは道具と機械の
差でもあり便利さが増すだけその反動も大きい。森が恐ろしい勢いで消えているの
は勿論機械に拠る所が大いにあるのだ。ただ道具や機械はその使い方という技術
の要素もあるがその技術的な面をもっとシンプルにして最も一般的な人間に近い
道具はお金だろうと思う。この人間に最も近い存在である金銭、銭かねという道具
は先程の電動鋸とは違った牙のむき方をする。心を干上がらせ人間関係を疎遠
にする。今年1月末から当面無職無収入になりさっぽろを漂流していた頃ポケット
に5円玉と一円玉しかないときもあって惨めだった。そんな時喫茶店でコーヒーを
飲むのも人からお金を借りる始末でその後なにかその人とも疎遠になった。自分
では気にしない積もりだったが人の目は違ってきたように思う。お金のない裸の王
様状態でお金と言う道具が人の評価まで変えてしまうのである。何かを得るため
の道具が逆転して人の志、想いまでその多少で計られてくる。何もなくなって今も
四苦八苦の経済状態だがひたすらさっぽろを歩き廻っていた冬の2月3月4月は
特にそうだった。お金がどんどん入ってくる道具立て、そういう環境も知っていた
から機械ではないがそういう環境構造を切り捨てる生き方を選んだ自分に自覚
的であってもそれは自分の問題で決して他者はそんな風に見てくれる訳ではな
い。今現在の結果を先ず見るのだ。そしてそれはそれでひとつの正解なのだ。
ただお金は軽んずる物では決してないけれど、道具は道具でありその道具立てと
いう社会構造が機械のように化けて大きな逆転をしてこちらの心の身体さえも獲り
こむようになったらそれもひとつの構造的貧困死だと思う。お金がない貧困死もい
やだけれどこちらも嫌だね。中川さんの松笠のようになった傷跡を見ながら思った
こと、道具と機械の違いが痛々しく連想した事である。
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by kakiten | 2006-07-27 16:48 | Comments(0)
2006年 07月 26日

ナウシカの木ー界を生きる(30)

四、五日前に来て二階吹き抜けのベンチがすっかりお気に入りの真下沙恵子さ
んが村岸さんの留守中待つている間今日もベンチでお昼寝をしていた。風が通り
ポカポカと暖かな陽射しのなかうつ伏せになって眠っている姿は下から見上げる
と円山のようだった。そのうち土田彩織さんが来た。彼女は医大の学生で感受性
豊かな人である。吹き抜けの円山に気づき静かに会場で話もせずゆっくりと座っ
ていた。小1時間ほどして帰った後彼女が書いた芳名録の感想を見てああと思っ
た。<ナウシカの「フカイ」の地下の美しい水を浄化している木を想い出しました、
耳を傾けると心に水がしみわたってくる気がしました。>そうだよなあ。あのフカイ
の下で必死で荒廃した世界を浄化している木の根たち。その近未来的な映像は
今も何処かで悲鳴のようにこの地球の地下で日常的に繰り返されている光景な
のかもしれないから。そう思って夜、床に寝っ転がって仰向けになって見てみた。
絹糸で吊られた筒型の金属の鳴子竹の鳴子が揺らめき、木の幹が立つて見る
時とは違って天に浮いている。暗い上部に本来の立ち姿のように立っている。絹
糸の線が水の滴りのように尾を引いて筒状の鳴子が水滴のようだった。夕刻午
後の光の中で昼寝をしていた真下さん、下から見上げナウシカの「フカイ」を感じ
取った土田さんと若い女性たちの深い豊かな感受性には脱帽である。後刻村岸
さんと話したが男性陣は概してこの木は何処から持って来たか、音はどういう装
置で出てくるのかといった探求する質問や捉え方が多く、女性たちはもっとすっと
作品と同化しそこからの感想や行動が直接的なのだ。この両方の感性を持った
時人は初めて人間という本質的存在に至るのだろう。男女という現象がトランスペ
アレントし人という本質的存在に至るまでその過程が生きるという行為そのもので
あるのかもしれない。
今日はフアイバーアートの作家田村陽子さんが来て村岸さんの足型を取っている。
踝から下の素足を太目の藁のような糸で編んでいるのだ。写真で見せて頂いた
門馬ギヤラリーでした彼女の個展は足型が会場の細長い空間の壁にベンチの
ように並びキノコの森のようだった。なにかこの直接性具体性そしてその抽象力
女性たちはすごいなあと思う。
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by kakiten | 2006-07-26 13:19 | Comments(2)
2006年 07月 25日

来る人、来ない人ー界を生きる(29)

定休日溜まっている色んな事あってギヤラリーに出る。留守録音ある。九州の阿部
守さんからだ。程なくまた電話が鳴り阿部さんだった。9月の個展の打ち合わせで
13日来廊の事と会場の広さ等の問い合わせが主な用事だった。阿部さんは5月
プレオープンの時ニユージーランドの銘酒ラフロイグをお祝いに送ってくれ、同時に
新作のカタログも併せて送ってくれた。「火焔鉄」というタイトルで彼の鉄の作品を陶
芸の窯で炎に晒し再焼成した過程を記録したものである。彼が3年前のテンポラリ
ースペースの個展で「もう一度鉄という素材そのものと向き合う」と言っていた事を
思い出した。さらに彼は作品を炎にかけ、鉄その物の出生にまで遡ろうとしている
ように思える。阿部さんのこの極めてラデイカルな方向性は素材そのものからもう
一度自分の作品を見直していこうとする真摯な姿勢から来ているのだ。現在福岡
教育大学で美術の教鞭をとりながらも北への熱い想いは今も変らずあって9月の
滞在制作は彼にとってとても大切な事である。今回は川と水をテーマにするという。
思えば遠い近いに関りなく遠くても来る人は来るし近くても来ない人は来ない。その
差は何処から来るのか個別な問題もあって一概には言えないが詰まるところは問
題意識の差、共有する意識の現場の違いとでも言えるのかもしれない。以前の空
間との違いから来なくなる人もいるし関係なくさっぽろを第一義に真っ直ぐ来てくれ
る人もいる。私にしても作家の大事な転換点に今回立ち会う事が出来ればこの場
所を立ち上げた労苦も報われるのである。前のスペースでは出来たが今の場では
できないなどと決して言わせはしない。

*28日(金)まで。村岸宏昭展「木は水を運んでいる」
*28日午後7時から村岸宏昭コンサート
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by kakiten | 2006-07-25 15:13 | Comments(0)
2006年 07月 23日

痛々しさと愛しさとー界を生きる(28)

背の高い岡田綾子さんが来る。彼女は教育大の学生で村岸さんとここのペンキ
塗りを手伝ってくれた健康な女性である。今回の作品を見て第一声が「なにか白
樺が可哀想!」だった。吊られていろいろな物付けられて、倒れたままにしておけ
ばいいのに、という感想だった。そうかあ、岡田さんは素直で優しいのだなと思っ
た。なんらかの原因で倒れた木がそのまま朽ちていくのは自然であり、その自然
に逆らって人は余計な事をしているのかも知れない。しかしもし木を切りそれが何
んらかの道具に加工した物だったら同じように”可哀想!”と彼女は言うだろうか。
素材その物が形を残して提示されているから、その現実のもつ一種生々しさに反
応しているからと思う。食材となる鳥や魚や獣の事を考えればもっと分りやすい。
西洋の婦人が初めて焼き鳥を見て何と可哀想、残酷なと言った事を思い出す。し
かしその本人は牛を食べ豚を平気で食べているのである。愛しさの方から見る視
線と痛々しさの方から見る視線その両方の狭間に私たちはきっと生きているのだ。
そしてその両方ともが真実なのだろうと思う。昨日の看護師さんの感想は現実に
患者さんという生死の境を日常見ている人の視線であり、岡田さんの正直なしかし
健康な日常の視線とは1本の木そのものを巡っても評価が分かれるのである。
翻って根もなく梢もなく針金で吊られている一本の木の存在とはその痛々しさに
措いてあるがままのもうひとつの現実であり、その愛しさも含めて私たちの生の
現実であると思える。今日この時間にも世界中でマンシヨンにダムに大豆の畑に
樹が切られ倒れている筈だ。その無自覚な事実の累積に鈍知である日常に、痛
々しさと愛しさの軸が入った時それは鈍知な現実を一歩超え私たちを取巻く世界
が一歩深まって顕われる事ではないだろうか。私には村岸さんの展示した白樺が
その痛々しさと愛しさの界に立ってさらにその事にすら鈍知の現在に対峙している
と思える。

*28日(金)まで村岸宏昭展「木は水を運んでいる」AM11時-PM7時
 最終日午後7時から村岸宏昭ギターコンサート
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by kakiten | 2006-07-23 12:54 | Comments(4)
2006年 07月 22日

陽の光が人を運ぶようにー界を生きる(27)

村岸宏昭さんが大きな網元の末裔である事をご親戚の方が来て初めて知った。
大きな袱紗を持参されその真ん中に家紋が染め抜かれている。百年以上も前の
物という。お祝いを包む時に使うそうで少しも古びていない凛としたものだった。そ
の袱紗に包まれた心こもる数々の贈り物を戴き村岸さんは幸福そうだった。そうい
えば円山川の源流から倒木の樹を切り、自転車でここまで運び込んだ力技は漁師
の血筋なのかも知れない。大きな太巻き寿司の差し入れを私たちふたりにしてくれ
その親戚の伯母様が帰られた後次々と人が来た。午後の光が燦々と煌くように会
場を包み二階吹き抜けの窓辺のベンチに人が座って笑い寛いでいた。鳥のようだ。
そしてそれは夜遅くまで続いた。白樺の幹に耳を当て今日は何度白樺は人に抱か
れた事だろう。触り、聞く、そして見る。空間自体が一日の光の変化と共に1本の
白樺の森の庭のようにある。幹を抱いて川の音に耳澄ませるその行為が作品と
観客の境を外してくれる。そして人は自由に空間を動き回り感性を開いてゆく。
根のない、梢のない樹の周りで人はいろんな事を感受している。生きている事の
どこか根源的な時間を知らず知らずに体験している。そんな気がするのだ。耳を澄
ます、木肌に触れる、倒木の在った場所の地図を見る。その地図も実はスピーカー
になっていてその森の鳥の声が響いている。見るだけではない。耳も澄ます。その
時この小さな空間は森の庭になり、森の樹の感覚が再生される。村岸さんの音へ
の感覚が音楽演奏とはまた違った形で今この作品には生きているのだ。展覧会を
見た看護師さんから1通のメールが届いた。
<先日は私も白樺の木のそばに立って、触れましたが、(中略)「見て触れて聴く
事」、いつも私が私なりに方法で、人に対してしていることを、白樺さんに対しても
、すっとできました。白樺もひとつの命として生きているということ、同じような、感覚
になりました。>
普段仕事の上で日常的に生と死に向き合っている人の飾らない真っ直ぐな感想が
村岸さんの今回の作品に対するなによりの言葉かと思う。
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by kakiten | 2006-07-22 12:00 | Comments(0)
2006年 07月 21日

隙間なく光そそぐー界を生きる(26)

村岸さんの会期中初めて晴れる。午後、光溢れる。初めて白樺に陽光が隙間なく
ふりそそぐ。やはり白樺には陽光と青空がよく似合う。夕刻電気の光だけになる頃
石狩在住の美術家石川亨信さんが来る。彼は実家がお寺で僧侶でもある。今年
1月退去前のスペースに来てくれた時”一度はここで展覧会したかったなあ”と言
って持参した年賀状に「惜」の一文字を記して手渡してくれた。普段あまり深く話し
をした記憶はなかったからその時初めて彼の心情に触れた気がして嬉しかった。
今日は初めてここを訪れてくれお祝いに一升瓶を持ってきてくれたのだ。ゆっくり
と見てくれる。いつもは割とクールでそんなにゆったりとした姿をみせて会場にい
るのを見たことがない。二階吹き抜け部分に上がりそれから下の会場と見てその
うち床に座り込む。時間がゆっくりと過ぎていく。彼に頂いたお酒を開ける。途中来
た熊谷透さんと四人で呑む。よもやま話をしているうち酒井博史さんを良く知って
いると言う。酒井さんの家は石川さんの檀家だそうで昔からよく行っていたと言う。
「拗ねた子供がいたなあ」。世の中狭いもんだ。酒井さんもとんだところでガキの
時代の姿を語られる。今もあまり変らないからいいでしょうけれど。午後9時過ぎ
に仕事の都合で来る予定の村岸さんの友人を待つつもりが石川さんの来訪で待
つという感覚がなくなり10時近くまで時間が過ぎた。結局その友人は来なくてそ
の後村岸さんと食事をして帰る。美味しくて安く量のたっぷりなカレーだった。
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by kakiten | 2006-07-21 15:30 | Comments(0)
2006年 07月 20日

音の雫降る降るー界を生きる(25)

村岸宏昭さんの展示がほぼ完成する。吊り下げられた白樺の周りには筒状の
竹や金属の触ると音ので出る「茂み」という作品が幾つも雨の線のように上下に
吊られている。吹き抜けの二階から白樺を囲むようにそれらがある。見る人は自
由に触れ音を発する。さわやかな音色が響く。また白樺の幹に耳を当てるとそこ
には白樺の木が立っていた傍の川のせせらぎが聞こえる。根を失い枝を失った
白樺は今しかし雨の線のような音を立てる「茂み」に囲まれかっての生きていた
場所の川音に抱かれ立っているのだった。山の中の一本の倒木がこうして今体
内の水を静かに発散しながら仮構の自然のうちに居る。何らかの原因で倒れた
樹を元に戻す事は出来ない。しかしその樹を愛しみその樹を通してその樹の生き
た時間を再生しようとするある行為を人間はする事が出来る。そのある行為とは
表現として虹を架ける心挿す行為だ。現実の進行、結果その物に制止も変更も
叶わない。その不可能を見定めた時に何故かその不可能を超える心の行為を
人は現実を再構成するように成し遂げようとする。芸術や文化が力を保つのは
そういう時である。政治や経済が発する力とその基盤が違うのだ。何もなくなっ
た時死の時にこそその力が発揮される。本当に心が自由になる時間は現実の
解体の後にこそ訪れる。それは祈りのような時間かも知れない。政治や経済そし
て社会が管理し支配している時間の外にあるその止むに止まれぬ衝動のような
力、その現実的な結果の向こうにきらきらと輝こうとするものを人は何故形にしよ
うとするのか。五感の凡てをフル活動して、第六感、第六体として存在させようと
する。村岸さんがストレートな形で表現した空間はそこを根にしている。倒木の
1本の白樺の木が意味を持つのはその時間に存在するからだ。樹は根を喪った
が、作家はその樹に別の根を与えたのだ。そしてその樹は私たち自身の生と死
の界に今立っている。
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by kakiten | 2006-07-20 13:18 | Comments(2)