テンポラリー通信

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2006年 03月 31日

若い古本屋さんの夢ー岸辺の表情(18)

夕刻吉成秀夫さんが訪ねてくる。ビールとサッポロポテトを持って来た。彼は札幌
大学OBで今福龍太さんの教え子、ブラジルへ旅立った對馬さんや山口昌男文庫
の小山さん達と同じ仲間だ。今は古書店伊藤書房に勤めて将来自分の古本屋を
開きたいという希望をもっている青年である。退去した後の店を覗き、白樺の木を
見上げたとブログにコメントをくれた人だ。久し振りで逢い熊谷さん留守中の下の茶
の間でビールを飲みながら話が弾んだ。彼の為にある人から本が何十箱も送られ
てきたという話は凄いなあと思った。その人の気持ちの濃さに応える為どう本屋を
創っていくか、彼はどこかで悩んでいた。私は古本という言葉が良くないと思って
いたのだ。newとoldという対立概念は捨てた方がいい。いい本というのは装丁も
大きさも中身も含めて貴重な存在で、時代のオブジエでもありそれを絵に置き換
ればそれを古絵とは言わないのだ。印刷物で複製ではあってもそういう物がもう出
来ない時代になりつつある訳でこれからの古書店は<古>という概念を変えてもっ
と別の観点から店作りを考えたらいいと話した。それがどういう物かを分かっている
訳では無論ない。ただ本それ自体がもっている厚み手触りデザイン等は文庫本や
パソコンのフラットさとは決定的に異質なものだからその貴重性はこれから重要に
なっていくと思われるのだ。開かれた明るい光のなかで美しい古書店は在り得ない
だろうか。古い本もまたレトロではあるが過激なキラキラした本の為の本屋があっ
もいいと思う。いつか一緒にゾーンを創りたいねと話した。そういえばあのレトロス
ペースにあった古い手押しの印刷機械を若いハンコ屋の酒井博史さんがとうとう
館長の坂さんの許可を受け名刺を刷るようになるかも知れない。印字とか印刷と
いう<印>のプレスもまた現在消えつつある技術である。それが甦る時なにかキ
ラキラした新鮮さを感じる、それが本にもあっていいと思う。そんなハンコ屋さんや
本屋さんが並んだらいい街角ができるなあ、とひとり密かに思っている。
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by kakiten | 2006-03-31 16:48 | Comments(0)
2006年 03月 29日

都市というワイルドサイドー岸辺の表情(17)

建築家の梶田清尚さんが来る。ほどなく脚本家の斉藤千穂さんも来て3人で北へ
向かう。以前見た一軒家の内部を建築家の目で見てもらう為だ。梶田さん、斎藤さ
んは‘80年代後半雑誌「パルス」で一緒に編集をした仲間である。梶田さんが中心
となって様々な分野の状況をラデイカルに表出しようとした雑誌で演劇の飯塚優子
さんや創文社の桑名正和さんアイヌ研究家の中川潤さんら8人が編集委員だった
。この頃毎週水曜日に編集会議があり夕張にも一泊で取材に出掛けた。ふたりに
見て貰い内部改装の色々な指摘を指示され参考になる。その後斎藤さんが治療
に通っている札幌華僑会館へ向かう。治療時間までまだ間があるというので周囲
を歩く。ここは以前歩いた所で東屯田通りの東側、新通り市場も近く昭和20年代
の札幌が黒澤明監督の映画「白痴」のシーンのように残っている所だ。柾板の家
、棟続きの長屋、石炭小屋などが一角にかたまっている。一ヶ月ほど前に来た時
は雪が屋根に三段位積もって垂れていたがもう何も無く替わりに立ち入り禁止と立
ち退きを促す看板が貼られていた。まだ何軒かは住んでいるようだったがここも間
もなく更地になりマンシヨンでも建つのだろうかと思う。一軒ではなくここはゾーンと
してひとつの界隈を保っていただけにとても惜しい気持ちがする。8軒から9軒の家
に囲まれた内側に入るとそこはもうレトロな札幌だった。生きたレトロスペースだ。
先日の坂さんの蒐集の過激さをふっと思い出す。現実を阻止する事は出来ない。
その現実に対峙する情熱があの蒐集を支えている。喪われ壊されていく時間と空
間への怒りがその根底にはあるのだろう。治療する斎藤さんと別れ梶田さんとも別
れ事務所に帰ると程なく、玄関で大きな声がして元歯科技工士の上木章一さんが
来た。シンクガーデンで酒井さんに会いここを聞いて尋ねて来たという。二ヶ月ぶり
だ。ギヤラリー巡りの達人で、用としての歯の技術者のキヤリヤは大変なものだが
用でないものの技術、美術へと傾倒している人だ。いつか歯を彫刻で造形した美
術作品を見て、こんな歯は口に入らない、いやあ!と感激していた人である。技術
が自分の積み重ねてきたものと違う世界を創りだす事に素直に感激し驚き感心し
いる。それが今ギヤラリー巡りを支えている一番の情熱だろうと思う。外に出て喫
茶店に入り私の近況や3種類の地図を見せると上木さんの青少年時の記憶が甦
り色んな時間がここでも流れだした。私の生家の二軒先でアルバイトしていたとい
う。案外擦れ違っていたかもしれない。この方も侠気の人である。わざわざ心配し
探し尋ねて頂いた。感謝である。そして地盤地質図や大正、昭和の地図を見なが
らふたりで見えない札幌の時空をしばし旅した。今に残る東屯田通り界隈のレトロ
ゾーンから今は見えないさっぽろへと現実のワイルドサイドを潜り往還した日だった。
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by kakiten | 2006-03-29 16:36 | Comments(0)
2006年 03月 28日

レトロという過激ー岸辺の表情(16)

心挿すと志(こころざし)を読み替えた時内向きになった自分がいた。ふっと内側
に入っていった。そんな時酒井博史さんから電話。山鼻地区のメール便の配達
のバイト付き合ってという事だった。久し振りに彼の車に便乗して東屯田通り界隈
を廻る。60軒位軽快に配達していく。こんなに軽やかな身の動きのヒロシを見る
のは初めてだ。私は地図片手に現在位置を確認しつつ周りをの建物を見る。前に
歩いた時とはまた違う角度で街が見える。小1時間程で配達は終了し「桜庭」とい
う靴を脱いで中に入る喫茶店にいく。本当個人の家がカフエになっている。初老の
婦人がひとり店主だった。そこで酒井さんと話してふっと思い出し坂ビスケットの
レトロスペースにその後向かった。以前館長の坂さんが前の店閉店の折訪ねてき
てくれたのだ。1時間以上も居ただろうかいろんな話をした。内向きに強く濃い人
という印象を受けた。現実に対して鋭い人である。それが前向きの批判という形
をとらず内向きのレトロという形をとって今の現実を厳しく峻別する。そういうタイプ
の人という印象をもった。初めて入ったレトロスペースはその峻別する激しさ強さ
そのままに圧倒的な数と種類の収蔵品が分類され展示されていた。これは只の
懐古趣味だけではない。‘60年代の学生運動のヘルメット、パンフレット、遺稿
集もあって、喪われ去っていったものたちへの痛切な想いと挽歌がトニカとしてあ
る。勿論それが湯たんぽであったりカストリ雑誌であったりもするのだがその個々
の蒐収品については見る人それぞれの分野があるだろう。酒井さんはハンコ屋さ
んだけに活字の印刷機械に嵌っていた。名刺を活字でする小さな機械を小さい頃
扱った事があるという。今度ここの館長の坂さんの名刺を刷るといいなあと思う。
スタッフの女性の方は友川かづきのフアンでご主人は笛の演奏家でもあり酒井さ
んと話が合っていた。館長の坂さんは留守だったがスタッフの方もユニークな人
だった。かって永井荷風が浅草の踊り子やその劇場の巷を飄々と彷徨いながら
戦争一色の世間から一見超越しているように見えながら反権力の視線を貫いて
いたようにこのレトロスペースにも同じ匂いがある。そういえば館長の坂一敬さんの
風貌も永井荷風に似ているなあと思う。心残す酒井さんと閉館時間を過ぎ濃い夕
暮れのなか、又の来館を約して帰路についた。なにか急にビールが飲みたくなる。
そんな濃密な時間の住む館だった。
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by kakiten | 2006-03-28 11:56 | Comments(0)
2006年 03月 26日

心指し、心挿すー岸辺の表情(15)

このブログを書き出した昨年11月末は、3回目の立ち退き訴訟の判決がでてひとり
なにかを言わなければというある決意のような衝動から始めた。それを別の言葉で
いえば、<志(こころざし)>と言う事かも知れない。だからここで書き続ける事それ
自体が自分のメッセージであり遺書のようなものだったのかも知れなかった。写真
も人気ランキングも初めから想定してはいなかった。文章だけで伝え闘いたかった
。25年前の夏周りは木賃アパートが並び植樹した細い2本の白樺の木とピカピカ
の銅版の建物は異彩を放っていた。二階の窓からは円山藻岩山の裾野がまだ見
え煙筒と赤錆びた屋根の間に古い銀杏の木が青々としていた。私はまだその時
実業家のように都心とここを往復しいくつもの仕事を抱えていた。そして時間と共に
そのいくつもの仕事を削ぎ落とし、喪って来た。ここを選んだ時それはすでに予感さ
れていた事だった。生まれたところの街は変質しそこに自分のしたいものは育ちよ
うがなかったからだ。パックされた商空間が地下に潜り空を埋めて巨額な経済原則
が支配していた。訴訟、経済ブローカーの暗躍、疑心暗鬼が渦巻いていた。そこを
脱出し選んだこの地には西に広がる山並みと清冽な川の面影がまだ息づいてい
た。そして街はまだ等身大の家並みが生きていた。そこで自分の時間がゆっくりと
深みを増し拡がっていくのを感じていた。2本あった白樺は1本になり大きく太く空
に伸びた。枯れて去った白樺は同時に今自分の中の何かでもあったような気がす
る。母が死んだ年窓に蔦が伸びてきた。その蔦が母のようにも感じた。建物もまた
時間を刻んでいた。ピカピカの外壁の銅版も薄く緑青を吹き雨や雪に磨かれていた
。私はもう青年でもなくしかしより自分を自分らしく感じていた。場と建物と人が深ま
り溢れようとしていた。しかしその周りの時間は別のあの忌まわしい時間が進行し
ていた。それはもう止めようがない勢いで進み、あの場所の深まりと高さを競うよう
な住のパック群とは大きな落差が生じていた。これも時代という時間であると思う。
経済事件では原告ー被告とはっきりするが時代の時間にはそんなはっきりした区
別はない。選択する意思その志の差異が問われるのだ。それは変る事もある。
その時本当に問われるのはやはり生き方そのものであり、志であるのだろうと思う
。さっぽろに生きる、さっぽろに心挿す。ふっ、花器店らしいしょ!と思わず思う。
場所という器を求め人という花を活ける為に闘っているのかなあ。少し後ろ向きの
今日は日曜日。
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by kakiten | 2006-03-26 11:42 | Comments(2)
2006年 03月 24日

心刺し、心挿すー岸辺の表情(14)

気功の熊谷透さんが中国へ旅立った。1週間の予定で広州の西湖という美しい湖
のある所のようだ。新たな<気>を得てさらに彼の気功は深化するのかも知れな
い。2、3日前及川恒平さんからメールが届いた。28日から一週間ほど札幌へ来る
という。へえ、これでふたりの初対面が実現する。以前このブログに及川恒平の声
に気功をみたと書いたが熊谷さんは今度の旅にも及川さんのCDを持って行った程
ほとんど今彼の座右の音となっているのだ。2人の共通点は実は長距離ランナーと
いう事もある。及川さんはサロマの百キロマロソン完走者で、熊谷さんはボストンマ
ラソンの完走者である。しかし10年の空白を経て復帰第1作となった及川さんの「
緑の蝉」のリズムは熊谷さんの気功のリズムと同じようにゆったりと緩やかな身体
の律動で貫かれていた。決してマラソンのような目的性をもったそれではない。身
体と自然と一体になっていくそのリズムは、及川さんの声や旋律そして詩を律して
いて熊谷さんの気功の律動と同じように私には感じられていたのだ。きっとことば
やメロデイーに囚われ見失っていたものが気功を通して見えてきたのだと思う。長
い空白の後の歌う事のできる喜びが及川さんのその律動の基底にはあったのだ。
今月末ふたりが会う時、その出会いはきっとまた新たな出会いを生んでいくだろう。
そんなふたりの3月を終え、4月私は、岸辺から新たなさっぽろへ再上陸する。
私の志(こころざし)がそれを促す。その志をブログに吐くだけでそれがどれほどの
ものであるのか分からない。でもひたすらにさっぽろで生きる。<心刺し、心指し、
心挿す>それが今想い、今ある私のリズム、私の律動なのかも知れない。
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by kakiten | 2006-03-24 16:39 | Comments(0)
2006年 03月 22日

春の声がするー岸辺の表情(13)

遠くから春の便りが届く。行って帰ってきた人、行ってしまった人様々な所から春
が届く。そういう季節になった。病院に行く。一ヶ月振り。畑先生色々話し掛ける。
どうしてるの?今何もしてないの?前の店に貸店舗の張り紙あるよ。そうか、アネ
ハとか一級二級とか世間を賑わしているから当面はそのまま貸して様子みるのか
と思った。血圧は正常、先生ニッコリだった。このところ歩いているせいもあるような
気もする。病院の帰りその張り紙を見る。汚いへたくそな手書きで東窓のガラスに
それがあった。もう少し貸すなら貸すで愛情篭めれよと感じた。マンシヨンにするな
らするで世間気にしないでド~ンとやれ、建物が好きなら好きでもっと丁重に愛情
込めろ、汗が見えなかった。まあ惹かれ者の小唄ですがね。かえって血圧上がっ
た気がする。先日の對馬さんの濃い写真を思い出した。私有していない人が心で
所有している。そういえば、いつかTVで見た梅原龍三郎の絵の話もそういう話だっ
た。梅原龍三郎のヨーロッパ留学時代の習作の絵を懇願してやっと手に入れた人
がいて、彼は朝起きると必ずその絵を見ていた。しかし彼の死後その絵はどこかに
いって行方不明になるが、後年梅原龍三郎の回顧展が美術館で催されそこに展示
される。その絵を見る為車椅子の老いた未亡人が訪れ呟く<絵はいいねえ、なん
にも変らなくって・・・>彼女の夫が毎朝見ていた時間がその時蘇えっている。習作
なので以前は作家のサインがなかったがその時はサインが記されている。それは
後に現在の持ち主である某政治家が頼み記されたとTVのコメントが語っていた。
今の持ち主は絵の所有者であっても、絵の前で過ぎ去った時間を愛しみその絵
とともに在った夫を想い出し自分を確認していた老婦人の心の在り様の方がこの
絵の真の所有者のように思われた。サインはあってもなくても絵とともにあった
人生の掛け替えのない時間、それをこの絵は保っていたからだ。この時間は普
段個の内に閉じられ結晶してはいるが、同時に他者へと純粋に開かれた時間でも
ある。そこに作品が鏡のように介在して光っている。それがさらに多くの他者をも包
む。有名になった画家のサインをねだった某政治家の私有する絵にはその光りが
ない。話は飛んだかも知れないがそんなことを思い出していた。それはきっとベル
リンにいる谷口さんやブラジルに行く對馬さんが思い出させてくれたのだろう。
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by kakiten | 2006-03-22 16:49 | Comments(0)
2006年 03月 21日

風雪続く日にー岸辺の表情(12)

一日中風雪強く寒い日。なにか寒気がする、疲れか、風邪の前触れか。札大OG
の對馬千恵さんから電話。今日会いましょうと言う事だった。彼女は今福龍太さん
の教え子で優秀な人である。小山玲子さん吉成秀夫さんと前の店で吉増剛造さん
の話から知り合った。その後吉増さんの詩「石狩シーツ」の朗読、夕張ー江別ー
モエレ沼ー石狩河口の札大一泊シンポジュームの企画等いろんな場面で共に動
いた仲間である。今月末に一年間ブラジルへ行くと言う。そのお別れ会というか送
る会が今日になったのだ。酒井博史さんと午後3時過ぎに会いその後6時過ぎに
居酒屋楽屋で落ち合う。着くと山口昌男文庫の小山玲子さんとふたりが先に来て
待っていた。吉成君たちは連絡取れず来ないので3人で飲みだす。ふたりとも私の
ブログを読んでいてベルリンのケンちやん(谷口顕一郎さん)のメールの引用が話
題になる。丁度そのコピーを持っていたので見せると對馬さんが急に涙一杯になり
泣き出した。なにか胸に迫るものがあったのだろう、ブラジルへ発つ前の心の不安
や異国にいる人間からのさっぽろへ寄せる想いに打たれたのか分からないが、小
山さんとふたりでただ黙って見詰めていた。感情の嵐が去ってこれ見せると言って
對馬さんがノートパソコンを取り出し画面に写真を映し出した。それは退店した後の
あの店の写真だった。窓から覗き込むようにして撮った店内の光景、壁に残された
大野一雄の石狩公演のポスター、外の白樺と建物が空に俯瞰する光景、テンポラ
リースペースの黒い壁とその前のナナカマドの木、どれもが深い思いがなければ
撮れない視点だった。退去してすぐの2月の厚い雪とツララ、冬の青空と黒々とし
た無人の建物それに絡まるような樹の梢、枝先、白い幹そして電線の黒い直線そ
れらがまるで嵐が丘のようにあって私は思わず<そうだ、嵐が丘のヒースクリフ
だ!>と呟いた。死んだ恋人の墓を暴く強烈な人間の想いそれが今の私には共鳴
するように、その写真を見ている自分の内に感じられた。いい写真ですねと呟いた
。引越しの最中その内側から撮った外の風景は及川恒平さんと森美千代さんの傑
作があるけれど無人の退去後の写真は、對馬さんの写真が初めてである。すご
いなあ、みんなのあの場所あの時間に対する思いの深さをまた改めて感じる。そう
していると楽屋のマスターの松崎軍夏さんが一枚のCDを持ってきてこれ聴いて下
さいという。その曲は酒井博史さんが決め手でいつも歌う「夢よ叫べ」のオリジナル
遠藤賢治のそれだった。初めて聴くエンケンの歌声は渋く低く心に響きまた酒井さ
んとは違った味があった。しかし最後のフレーズ”負けるな友よ、夢よ叫べ!”は同
じように私の胸の中に響いたのだ。<いつもブログ読んでますから>と呟くように
松崎さんが曲が終わると言った。對馬さん小山さんも言葉なく頷いていた。こうして
ブラジルへ旅発つ若いひとりの人を送る夕べは終わった。でも何か私の方が多く
励まされ勇気を頂いた気もする。感謝です。對馬さん、そんなさっぽろでまた会い
ましょう!御元気で!
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by kakiten | 2006-03-21 13:15 | Comments(4)
2006年 03月 20日

sichihukuさんと当別ー岸辺の表情(11)

当別駅前の歯の健康プラザで個展をしているsichihukuさんの絵を見に熊谷さん
の車で行った。途中平岸のかりん舎の坪井けいこさんの所へ寄り個人的なお願い
をした後熊谷さんの案内でロイズの工場やスウェーデンヒルズを廻った。丘陵地帯       でもあり石狩川の流域でもある当別が豊かなゆったりとした地域であることを体感
する。そういう所であるゆえゴルフ場がやたらと多いようだ。ビルとゴルフ場、どちら
も埋め立てそしてゴミ処理場なにか三点セットだなあ。スウェーデンヒルズもなにか
テーマパークみたいで<住>のリアリテイーが感じられない。ここの天地ともっと繋
がったものが見たい気がする。それは何処だ。午後も大分過ぎて個展会場に着く。
初対面の熊谷さんを作家のsichihukuさんこと佐藤久美子さんに紹介する。熊谷
さんは当別駅前の電気屋さんの生まれで店は今ないが同じ当別、お店の事はよ
く知っていてすぐふたりは打ち解けた。熊谷さんもブログを4月から立ち上げるので
またブログの師匠のsichihukuさんの弟子が増える。会場はギヤラリーとしては
雑多な感じだが作品はかえってその会場に馴染んで暖かくキラキラしていた。私に
はやはり店の引越しを描いてくれた絵が一番良かった。斜めに構図され、お祭りの
ように勢いがダイナミックでいい。もうひとつ一番初期のトイレに座っているちよっと
すねた自画像の絵がよかった。お茶を四杯くらいご馳走になり会場を出て熊谷さん
のご実家に寄る。弟さんのお嫁さん純子さんに歓待され夕食にジンギスカンをご馳
走になりすっかり寛いで吹雪のなか帰った。雪が真横から正面から吹きつけ当別
の野を熊谷さんの車は快走した。彼もなにかが吹っ切れている。それは車の運転
にも顕われていると感じた。及川恒平のCDを今日も持ち歩き、sichihukuさんの
会場でもかけてもらっていたがその出会いも大きいのだろう。人がなにかを通して
人と出会う。そのなにかが音楽だったり絵であったり人そのものであったりする。時
にそれが風景や自然のこともある。熊谷さんの実家の庭と人に今日は当別を見た
気がする。庭の桜の木と梢が雪明かりに浮かびその影とその内にいる人の暖かさ
がこの日の私の感じた当別だった。奔放な線と色彩のsichihukuさんの絵にもそ
れがあった。風景としては今日見つからなかったものが絵と家にはあった。人を通
してそれがあった。
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by kakiten | 2006-03-20 13:02 | Comments(2)
2006年 03月 18日

友を見舞うー岸辺の表情(10)

一軒のスペースを見に河田雅文さんと行く。内部の状態の確認の為だ。天井、床
の状況を第三者の目で見てもらう。オーナーの方はお蕎麦好きと聞いていたので
その話から今度いつか是非お蕎麦を打って下さいと言ったら喜んでいた。ふっと
陶芸の下澤トシヤさんを思い出し、こういう人がいると言ったら下澤土泡さんに陶
芸を習った事があると言って、その息子さんですよといったら吃驚していた。おそ
ばが縁となった。ふたりの蕎麦打ち名人が揃って楽しみが増えるなあ。それから
昼食は自然とお蕎麦になって札幌駅近くの盤渓蕎麦を選ぶ。その後旧曙小学校
の野上裕之さんを訪ねる。酒井博史さんたちが骨を負ったアートのスペースが1
部あって野上さんの工房もそこにある。折り良く彼もいてしばし話す。大木裕之さ
んの映像個展がきっかけでテンポラリースペースで心に残るいい個展を昨年一昨
年と開き今伸び盛りの彫刻家である。秋にはメキシコに行く予定と言う。フリース
ペースプラハの大橋拓さんが入院していると聞き札幌医大付属病院へその後向
かう。病室探してエレベーターを下りると丁度手押し車の大橋さんに会う。1階ロ
ビーでしばし話す。顔色少し黒く自力で歩けないが話していると以前と変らない。
漂流中のギヤラリストと入院中のギヤラリストとが今後のことを話し合っている。
なんとも侘しい光景だが本人たちはいたって明るいのだ。書いていてそう思った
。元気になってのまたの再会を約して病院を後にした。後刻ブログを開くとヤナイ
さんからのコメントがあり、モエレ沼はゴミ処理場の前は水田だったという指摘が
あった。そうか、私の記憶に残るモエレ沼は曇天の性だったのか空が低く天と地
が灰色に染まって境がなく町育ちの私には見た事のない不思議な光景だったのだ
。空は厚い雲で低く繋がり、地は湿地と水の拡がりが漠として続き水の成分で世界
が繋がっているような感じがした。そこに水田があったとしてもその広く漠とした印
象は多分訂正されないだろう。ただゴミ処理場と湿地帯の間にもうひとう水田という
近代があったと言う事は面白かった。水田という農地が次に団地やマンシヨンでな
くゴミ処理場になるのはモエレ沼という場所が保つ湿地という世界のゆえだったの
だろうと思う。
*1950年と75年の地図では荒地マークと一部牧草地の記号が記されていた。
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by kakiten | 2006-03-18 12:42 | Comments(0)
2006年 03月 17日

モエレ沼とイサムノグチー岸辺の表情(9)

美術家で環境アートを志している小川智彦さんからモエレ沼公園のガラスの
ピラミットで開催しているウイリアムの展覧会見て欲しいと連絡があり出かけた。
冬のモエレ沼公園は初めてだった。折悪しく小川さんは公休で会えなかったが
ウイリアムの作品はガラスのピラミットの内部から透明に屈折して外界を取り込
み淡い光の揺らぎのように在った。外界と内界の境目ー皮膚の触れる感覚を視
覚化するとこういう作品になるのかも知れない。このモエレ沼のもつ場所の特性
にはピッタリかも知れない。それにしても曇天の冬のモエレ沼の風景は天地が同
色で雲を透かして太陽が鈍く光り広々ととしてモノクロームな世界だ。この公園自
体には賛否がいろいろあるようだ。なかでも最近目にした論ではこんな立派な物
はいらない、自然に戻して何もなくした方がいいという主旨のものがあった。私は
これを書いた人の<自然>という概念を疑う。この場所は旧石狩川の痕跡が沼
として残りもともと低い地形で湿地帯のようにあったものだ。陸地としても川として
も中途半端なところからゴミ処理場として使われそれをイサムノグチが現在の形
に再生したものである。ゴミの山をヘルメットをかぶり歩いているイサムノグチの
映像をTVで見たことがある。このゴミは現代のゴミ、かってあった学校のグランド
や路地の隅の焼却炉では燃やせないゴミである。今石狩の河口や夕張の二股
峠といったかって美しいハマナス畑や源流の泉であった所を占拠しているそれ
である。一方湿地帯は現在ラムサール条約ができ国際的にも保護されるように
なったが10年で何ミリしか植物の成長しない極めてナイーブな場所でもある。
そこに現代の凶悪なゴミをもって埋め立てそれを放って置けばいい<自然>とは
どういう自然なのだろうか。戻す事などできる筈がないのである。インテリの頭の
中だけの自然とはただの理念、概念であり現実を見据えていない。それなら札幌
ドームのアートグローブなる森とそこにあった月寒の丘との関係をも批判すべき
である。現代のゴミこそが地球規模のコンテンポラリーな問題である。この現代の
ゴミには都市生活の矛盾が凝縮されている。それは破滅の音符その序曲なのだ。
どう回復するのか、どう阻止するのか、モエレ沼公園の方向はそのひとつの答え
でもある。政治や経済が不可能なことを文化が成し得るかもしれないという応えで
もある。復元はできないが再生はできるかも知れないという微かなそれである。
湿地帯は人体に例えれば粘膜のような存在だと思う。一番敏感なところだ。触れ
る所だ。帰る時、灰色の空を一羽の鳥が飛んだ。空と地と水が一体になって触れ
ている白いモエレの風ににふっと早春の声を感じた。
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by kakiten | 2006-03-17 12:43 | Comments(2)