今週は展示が空いたので、一昨日見損なった藤谷康晴展を見に行く。
一昨年7月無機質な都市風景を細密画で描き、昨年は一転して毎月ライブドロ
ーイングに明け暮れた藤谷さんの着地を示す展覧会だった。注目したのは、都市
のビル群が上部にあり、その舗道の下の情念が怪しく乱舞している絵だった。
大きな色紙に収められた他の絵も含めて、この色紙自体が都市の壁のように思
えた。ライブドローイングの中に引かれた直線もその象徴であると思える。
鬱屈し潜行する情念が、一昨年の個展以降爆発して、再び都市の内に対峙して
いる。無表情にして見詰めていた内なる激情が爆発したのが、昨年一年間のライ
ブドローイングであるなら、今回の個展は再びその蹉跌と向き合い対峙して、両方
をせめぎ合うように表現しているかに思える。かって都市の街角でマネキンのよう
に無表情だった顔が、今回は歌舞伎のおどろおどろした表情のように顕われてい
る。
衛生・安全・管理の都市に対し隠された凶器のようにあった殺意は、取り澄ました
無表情の仮面を引き剥がし、素面で立ち顕われてくる。
ライブドローイングに見られた、情念の迸る抽象の線は、より現実的な形・容(か
たち)となって憤怒の様相を帯びている。
この都市と対峙する藤谷康晴の行程は、今後いかなる方向へと進みのか。
この情念のテロリストの今回の着地は、これからが正念場である事を予感させる
。場所も含めて今回の個展は、彼の対象ともいえる都市の内部へと、再び回帰し
たからである。
一二の三と、この3年間の助走の時を経て、真のスタート地点に今立つたと思え
るからだ。
都市と個、時代と個、ここで私情の<私>という情念を如何に都市という公と対峙
し得るかが問われるのだ。
彼の熱く燃えたぎる情念の溶岩が冷えた軽石となるのか、燃えるまま焼き尽くし泥
流となり流れ続けるのか。
次なる荒野の予感に立つ姿が垣間見えるのだ。
それが1年後か、2年後か分からないが、次なる場を何処にするかもまた、大きな
意味を保つと考える。
彼の身体の地下に潜んでいたテロにも似た情念は、ライブドローイングの形で肉
体化して顕われ、その矛先は対象となる都市風景を疾駆してきたが、燃え盛るマ
グマはもうすでに冷却の時間を迎えている。
自己を<私憤>から如何に個の鋼に研ぎ澄ますか。
その凝縮する過程に、今後の藤谷康晴の都市へのテロの刃の行方もある。