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テンポラリー通信

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2008年 11月 28日

サラリーマン宮沢賢治ーNovember steps(22)

「宮沢賢治ーあるサラリーマンの生と死」(佐藤竜一著)の書評を読む。
川成洋さんが書いている。
<中学1年の頃国語で「雨ニモケズ 風ニモマケズ」を習い><その後、この詩
は私にとって身近な存在となり、困った時の「激励歌」として心の中で反芻した>
と振り返る。
宮沢賢治は、悲惨な農村を何とか救う為肥料の炭酸石灰の会社員として、販路
拡大に奮闘したという。その宮沢賢治の混迷と挫折の人生を、サラリーマンの側
面から、詳細に明らかにした本という。
<理想を抱き、果敢に現実に立ち向かっては、次々と挫折し・・あらゆる辛酸を
 舐め、死の床に横たわって書いた「雨ニモマケズ」。これこそ賢治の自画像で
 ある、と本書は結んでいる。私には、何故か、遺言のように思えるのだが。>
死後手帳に鉛筆で書かれて見つかったこの詩を、著者は賢治の自画像とし、評
者は遺言と思えると結んでいる。
今でいえばいわゆる負け組の宮沢賢治が、自費出版で世に問うたものは、たった
2冊の詩集であったが、現在彼に関する本の量はその何万倍にも達するのだ。
公というものは、いつも後から付いて来るものである。
私という一点を穿つ個の存在を、この短い書評からも窺う事ができる。
公と私という不毛な対立概念の範疇では、<私>という存在はいつも負け組に属
す。しかし、<私>が自費出版であろうと公(おおやけ)にしょうとした行為は、
私から脱した<個>として発する<公>の位相にある。
公私の隘路に属さない個の表現の位相である。
そしてこの<個>は、時に世間という<公>から孤立し、無視され、「混迷と彷徨
の人生」ともなる。しかし、個の位相から発した公(おおやけ)への視軸、この視線
と拠点の先にこそ、Republicされる真の<公>があると思える。
我々の時代は、公共という名の<公>が近代を推進してきた現実がある。
それは、今もその基本構造において変わらないと思う。
都市もそうである。そして公共という概念は、あらゆる分野に渉っている。
中央ー地方という概念も中央を公と置き換える事が可能である。
公共の公は、市街地にも交通機関にも到る所に転がっている。
そこで<私>は、地方・僻地・場末のように貧しく存在するのだ。
真の公共とは、私を個の位相まで深化させ、反転させる事からしかRepublicされ
得ないと、私は思う。
些細な<私>の内に沈んでいる<個>の結晶こそが、その原石である。
生きる・表現する小さな個が<おおやけ=公>へと反転する視点にこそ、表現と
いう生も生まれる。
無名の見えざる多くの個の営為に拠点を保たず、公に吸収されるPublic art(
公共美術)などに、貧しい<私>の自己顕示を堕してはならないのだ。

*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月30日(日)まで。am11時ーpm7時

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2008-11-28 13:25 | Comments(0)


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