人気ブログランキング | 話題のタグを見る

テンポラリー通信

kakiten.exblog.jp
ブログトップ
2008年 10月 05日

飲む・漂う・夜ー夏の末(sak-kes)(38)

1時間近く溜まりに溜まった話を見知らぬおばさんに聞かされて、ふらふらしてい
た梅田さんに、写真家のFさんに続き11月個展予定のNくんも来て、ほっとした
時間がおとずれる。若いふたりの作品に対する新鮮な反応が、梅田さんを甦らせ
たようだ。床に腰を下ろし、アルコールが入った。夕闇のなか、灯りに浮いた球体
が揺れている。酔いも、その揺れに合わせるように漂う。
透明なビニールの直径2・3mの球体が、不思議な安らぎを与える。
球体という円は、何故だろう、見ていて少しも見飽きないのだ。
Fくん、Nくんがぽつりぽつりと話している。梅田さんも寛いで、その話を嬉しそうに
聞いて相槌を打っている。ゆっくりと酔いが回ってくる。
こんな時間がきっとあるなあと、思っていた。
カチ、カチと気圧計が鼓動のように音を刻む。
透明な球体の光の揺らぎと呼応して心臓の音のように聞える。
命の原点、細胞の一個に添うミクロの存在になっているかのようだった。
病気という身体の負荷、それに対峙する心の両手。
生きるという事の最も根の位置。
そんな感慨が少し大袈裟に、酔った頭に想念となって浮かんだ。
人間は何故、こうしたものを表現として保つのか。
二歩足で立ち、観念という頭を持ったときから、人は人の宿命(さだめ)のように、
そう在るのだ。
梅田さんは、今回の個展を通して病気に向き合い、その病の原(もと)に可能な限
り表現として対自化したと思える。病もまた人間の生活のひとつである。
病を得る事で、日常は死の翳を深め、より切実な位相を保つ。
その事が作品の深度を深め、その回路を開かれたものにしている。
病を背負う事が、心の両手を日常の深部に触れさせる。
夜の深まりとともに、心の身体は水母のように漂流して
日常と非日常の波間にいた。そして、ふっと思い出していたのだ。
同じように会場中央に吊られた作品の在った事を。
白樺の幹が吊られて、さらに2年間その作品の子供を抱き締めて先月亡くなった
母と子のことを。
透明で大きなこの球体がまるで、その母の心のようにも見えてくるのだった。
内部に綿に包まれてぶら下っている小さな白い白樺。
その白樺を心に抱き締めて、
深く閉じつつ深く世界に開いた母性のように
それは、あった。
酔いの周った頭にその想念が浮かんで、
ここに今ふたりの魂が浮かんでいるかに思えてならないのだ。
Nくんにそう洩らすように話すと、彼は頷いてそうですねと言ってくれた。

*梅田マサノリ展「Scenery of cell 細胞の風景」ー7日(火)まで。
 am11時ーpm7時(最終日午後4時)
*阿部守展「場に立つ」-10月9日(木)-19日(日)
*中岡りえ展ー10月23日(木)-29日(水)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2008-10-05 13:21 | Comments(0)


<< 雨そして雀ー夏の末(sak-k...      視差それぞれー夏の末(sak-... >>