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テンポラリー通信

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2008年 09月 26日

村岸さん母子のことー夏の末(sakーkes)(30)

昨日は暗く、風強く、涙雨の降るような一日だった。
朝、第一報の衝撃が一日中続いた。
華奢で小柄な、山芍薬のように透明な人だった。
あの長身の村岸宏昭さんを産んだ人とは思えなかった。
一夜明けて、ふたりのことを想う。
膝小僧を抱く村岸宏昭、白樺を抱く村岸宏昭。
このふたつの抱くと言う行為が、彼の生きてきた行為を象徴している。
<抱く>という行為は、深く閉じつつ、
同時に他者(外界)に対し深く開く行為でもある。
北大入学前後の膝小僧を抱いた、暗い色調の油絵が遺されていた。
そして、最後の個展となった「木は水を運んでいる」では、
円山川源流域の倒木の白樺の幹を会場に吊り、その幹に装置された
川の水音を幹を抱き聞くというインスタレーシヨンを設置した。
このふたつの抱くという行為の間には、白樺と膝小僧という抱く対象の差異がある
。この差異は自己と他者(外界)への回路の差異でもある。
膝小僧は、自分を抱き締める事で終止する。世界は自己の内部に閉じられる。
白樺は、その幹を抱く事で外界の川・森とつながり、同時に同じ行為の人とも共有
する回路を保つ。村岸宏昭が最後となった個展で示唆したのは、その他者(外界
)との回路の存在だった。抱いて深く閉じつつ、深く開く。
村岸宏昭さんが白樺を抱いたように、お母さまは宏昭さんを深く抱きしめつつ深く
開いていたのではないか、と今思う。
知らない宏昭を知るのはとても楽しいのですと、昨年の追悼展へ到る中でいつも
そう語っていたのを思い出す。
ともすれば、過去への追憶へと流れがちな追悼展の組み立ての最中、その流れ
を過去のものとして閉じず、外へと開かれた作品展へと歯止めしたものは、お母さ
んの知らない息子を知る喜びの新鮮さがあった所為かも知れない。
透明な柱のようで、いつも静かで凛としたお母さんの存在があって始めて、私たち
の村岸宏昭展は成し遂げれたと、思う。
さらに今年一冊の本として、未知の人たちにも問うものが上梓されようとしている時
、その事を確かめる間もなく亡くなられた事に深い哀しみを覚えつつも、思うのだ。
村岸宏昭さんは白樺を抱き、お母さんは宏昭さんを抱き、ともに閉じることなく、他
者(外界)へと深く開いていた事を。
倒れた白樺が他者(外界)の回路であったように、お母さんにとっては不慮の事故
で倒れた村岸宏昭さんが、白樺であった。
息子の宏昭さんを知る事で、きっとお母さんは未知の他者(外界)を知り、息子を抱
く行為を通して我々と共有していたのだと。
それは、白樺を抱く行為と同じ位相にある他者(外界)への回路だったのではない
だろうか。
一冊の本となって、未知の多くの人の前にそれが差し出される前に、村岸さん母子
の深く抱く行為は閉じつつ、深く開く事でもう完遂していたのである。
その事を今、私は遺された眼差しのように愛しく、ふたりの優れた母子に感じている


*新明史子展ー28日(日)まで。am11時ーpm7時:最終日午後6時。
*梅田正則展ー10月1日(水)-7日(火)
*阿部守展ー10月9日(木)-19日(日)
*中岡りえ展ー10月23日(木)-29日(水)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2008-09-26 13:16 | Comments(0)


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