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テンポラリー通信

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2008年 09月 18日

浮世・同時代ということー夏の末(sak-kes)(23)

Aさんのシベリア旅行記を久し振りに読み返していて、ツングースの人たちと踊り
の輪にいて感じたという<圧倒的な時間>を、今心で反芻している自分がいた。

<いろいろなことがあって今があり、それは自分だけの選択ではなく、知らない
 選択も紡ぎだされた糸のようにつながって、これからもつながっていく。>

胸にこみ上げてきたのは、その時間のなかに自分がいるという確認だったとAさ
んは書いている。この言葉がずーつとどこかで響いていたのだ。
率直に実感を篭めて言えば、この確認こそ、コンテンポラリーというものではな
いか。そう思っていたのだ。con(ともに)と、temporary(それぞれ仮の)を結ぶ
<糸>の事だ。手をつなぎ輪をつくり、わけもわからぬ言葉を一緒に繰り返して
おばあちゃんーおばさんー若い女性ー子どもと、世代を超え、民族を超え確認
されるものがある。縦軸の時間を横軸の時間が交叉し、<確認>として存在す
る。この<con=ともに>の位相を、同時代と呼ぶのだ。
別の場所での記述に、孤独についての述懐がある。ツンドラの荒野で山に登った
時の事だ。

<山というより崖だった。文字通り、這い登る。・・・私たちのキャンプは、あっとい
 う間に小さくなっていた。白いテントは、緑の中の小さな点にすぎず、自然の中
 の人間が占める場所なんて、本当にちっぽけだ。・・ふと思う。すると孤独という
 ものは、心の内に果てしなく広がっていくのではなく、心の外に、自分をすっぽ
 りとくるむものとしてあった。>

共同体と対極の孤独について彼女は心の内にではなく、心の外のものとして語
っている。それは、きっと新鮮な発見だったに違いない。輪になって踊った時の<
con=ともに>と対位する外部の存在を、Aさんはこの時自然ー人間(自分)とし
て発見している。敢えて別の言い方でいえば、開かれた孤独ともいえる。
内側に閉じていた孤独が、外へと開かれ自分をすっぽりとくるむものとしてある。
社会という第二次環境に外部として囚われている我々の日常から抜け出て、自
然という圧倒的な外部世界に触れた時、人間は内部内外部のおぞましさに気付
く。<心の内に果てしなく広が>る孤独ではなく、真の外部の発見から孤独の位
相は大きな転位を見せるのである。

新明史子展には、女性性としての視軸と作家としての視軸が、もっと小さな自然
、家族を通してAさんと同様な視座を獲得していると思える。
日暮れの早くなった夕刻の会場で照明が次第にその光を増し、モビールのひとが
たが壁に翳を濃くして揺れている。そこは様々な時間軸が揺れているのだが、光
と影のそれらの揺らめきは、同時に人間社会の<浮世>とも見えて、<すっぽり
とくるむものとして>空間があるからである。
世代という縦の時間軸と家族という横の時間軸が、光と影の内に交叉し浮世と
いう孤独な現在が揺らいでいた。
人は何処で人と出会うのか、人は何処で孤独を感じるのか。
contemporaryな視座を探る、作家の閉じない孤独もまたそこにはあるようだ。

*新明史子展ー9月16日(火)-28日(日)am11時ーpm7時(月曜定休・休廊)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2008-09-18 12:47 | Comments(0)


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