テンポラリー通信

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2007年 11月 28日

美術館を見るー冬の輪舞曲(28)

久し振りに北海道立近代美術館に行く。現在展示中の「Born in Hokkaidoー
大地に実る、人とアート」展を見る為である。平日の午前中という事もあり私以外
誰も観客はいなかった。会場を管理する膝に毛布をかけたお姉さんの視線が気
になる。入り口傍の青木美歌さんの展示は暗室となっていて入ってうっかり肩に
かけたバッグを落としたらすぐにカーテンが開いて厳しい視線が入ってきた。別
に悪さはしておりません。そんな言葉にならない会話を交わした気がした。隣の
真砂雅喜さんの部屋も同じように暗室でここでもゆっくり見ているとなにか逆に監
視されているようで落ち着かない。ふたつの暗室を出て各作家のコーナーを見て
回る。そこにも角々に毛布を膝にかけ椅子に座った女性がいた。なにか作品を見
るというよりも拝見させて頂くという感じがする。今日は特に人が他にいない所為
もありそんな感じが強いのだ。前にも書いたがこの展覧会のコンセプトが安易な
割りには展示状況は物々しく<In>hibitionである。<Ex>hibitionではない。
個々の作家も見出しだけの感が多くもっと個人の厚みを保つべきと思う。親しい
作家では昨年暮れから今年1月にかけてここで個展をした野上裕之さんのコー
ナーにしても断然ここでした個展の方が良かったと思う。初めて見る青木美歌さ
んの作品は廃自動車にガラスが氷のように浮かんでその対比が美しいけれど今
日の寒気に美術館の池に氷結した水面もそれに負けず美しかったのだ。池に設
置された作品と自然の凍った池面の対比は自然光の中で束の間のインスタレー
シヨンとなっていた。ここに青木さんの作品があったらどうだろうと思った。閉じら
れ照明に充てられた均された空間の均一性よりもはるかにどきどきするなあと思
うのだ。何故囲い込まれた特権的空間に現代美術が置かれなければならないの
か。とりあえず(temporary)という日常性を遮断してComという冠だけにスポット
を充てる。タバコの宣伝みたいにマイルド、ライト、1ミリとかを強調する事に似て
いる。基幹が薄弱になる。なにかショーウインドウだけを見て店の中に入らずに
歩いているような気がした。窓辺の百人展とか500mの地下道アートストリート
とか仕掛けこそ表層的に違っても構造的に同じ展示形態なのだ。ウインドーショ
ッピングの商品と同じ構造がアートの親近感を生むと思うのは錯覚でありそれは
結果としてアートのファッション化である。今只今のワイルドサイドがない。札幌は
道庁所在地であるからか札幌の美術館だけが地域名が付いていない。函館も旭
川も帯広も頭にその地域名が付いている。何故札幌も道立札幌美術館としないの
か。<大地に実る、・・>と謳われた<大地>に固有の地域は存在しないのだろう
か。-日本の最北に位置し独特な自然環境と・・・-と書かれたフライヤーの宣伝
文が妙に浮き上がって見えるのだ。函館と帯広だけでも相当違う自然環境ではな
いだろうか。全国目線の日本の最北とかいう形容詞が白々しい。これは基本的に
札幌が不在の目線なのだ。だから札幌が消えて北海道立近代美術館となる。Bo
rn in Hokkaidoもせめてサッカー並みにunder twenty位の発想があってもい
い。せめて、である。美術館という立派な箱や地下道という箱やはては街のショウ
ーウインドーという箱まで動員して箱ばかり並べて収めたところで肝心のさっぽろ
という場はその気配さえない。さっぽろ自体が<日本の最北に位置する>箱に収
まった形容詞の存在でしかないからである。<日本の最北>という視座にある札
幌には土壌がない。ショーウインドウの中のような不思議な都市である。札幌の花
瓶化である。その下には土壌がない。ー北海道の大地に根を張り、枝を広げ、実り
をむすぶ一本の大樹のようにーと、この展覧会を謳っているが一体何処の大地を
言っているのか空々しいのだ。大樹と称された作家たちは如何?でしょう。
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by kakiten | 2007-11-28 15:55 | Comments(0)


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