阿部守さんの彫刻を見ていて大野一雄の石狩河口公演の事を思い出していた。
海抜ゼロー高さも深さもゼロの場所。太陽も真っ赤なゼロとなって沈んでいく。水
も土も空も一体となって茫々と海へと溶けていく。虚のゼロではなくそこには豊か
なゼロがあった。還元され再生するゼロである。流木も鍋も動物の死骸も。ただそ
のなかでも還元されず鮮やかな色彩を放つ物があった。プラスチックで出来た物
たちである。これは腐れず還元せず死すら宿らない。用を無くしただけで廃棄され
たものだ。それ以上でもそれ以下でもない。用と無用の間だけに存在している。こ
のゼロは虚のゼロである。人間が鬼っ子のように誕生させた現代の妖怪である。
土にも水にも戻らないのだ。腐蝕という生命すら宿らない。用の為便利さだけで
造られその後捨てられた色鮮やかな空虚なゼロである。そうした文明の罪も含め
て海抜ゼロの河口はとうとうと流れていた。茶褐色に濁った濁流が青い海へと絶
え間なく流れ込んでいる。その無心の深い力のような豊かなゼロの表情が安部さ
んの作品には宿っている。ただぼんやりと見ていて見飽きる事がない。この作品が
石狩のどこかに常設して置ければ良いと思う。野外でも良い。雨に打たれ雪に埋
もれて錆が深くなる。それでも良い。ぽつんと在るだけでも良い。空気に馴染んで
くるのだ。よく見る街中や野外の尖がった野外彫刻ー変なパブリックアートとは比
較にならないのだ。九州には帰したくない。これは北の大地の生んだ作品と思う。
その精髄が篭っている。伏篭。そんなタイトルを付けてみる。
昨夜故石田善彦さん一周忌追悼展の打ち合わせに山内慶さんが来る。彼の努力
で石田さん関係の出版社から石田さん訳の本を多数お借りする事が出来そうだ。
取りあえず百冊を目標にする。どう展示するか、本以外の資料をどうするか。まだ
端緒に着いたばかりで村岸宏昭さんの展覧会とは違って翻訳本が主体となるので
ビジュアルな見せ方に工夫がいる。前のテンポラリースペースで月一回していた”
ポップスを訳す”シリーズのロバートジョンソンやビョーク、シンデイーローパー等
の歌の訳詞も資料として展示したい。彼の翻訳によってこれらの歌の印象ががら
りと変って聞こえたものだ。翻訳家としての大きな業績とともに音楽青年だったひ
たむきな仕事にも光を当てたい。ここでも何をしてきたかと何をしようとしたかの両
軸が問われる。田中綾さん、山内慶さんのふたりの石田さんへの想いが少しずつ
形になってくる。ふたりを通して死者が会場を満たしてくれる。ここでなければ出来
ない時空がまた形成される。<貧>しても<鈍>してはいられない。
*阿部守展ー23日(日)まで。17日(月)休廊日。am11時ーpm7時
*中嶋幸治展「Dam of wind、for the return」-25日(火)-30日(日)
*毛利史長・河合利昭展「産土不一致sand which」-10月2日(火)-12日(
金)
*柏倉一統展ー10月16日(火)-21日(日)
*石田善彦追悼展ー10月23日(火)-28日(日)
*谷口顕一郎展ー11月3日(金)-18日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り入り口
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