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テンポラリー通信

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2007年 03月 10日

樹を見る、歩くー春のにおい(22)

藤谷さん搬出。街の蜃気楼が消え白い壁に戻る。明日は斎藤周さん展示。今朝
は歩いてくる。露地以外は路面が黒く出ている。桑園高架下から国際交流会館
脇を抜け、北大苗園から陸橋を渡り北大構内ポプラ並木傍を通って、教会脇から
斜め通りに入る。ミズナラの大木、ドロの木、ハルニレが美しい。幹と繊細な枝先
が空に伸びている。緑の葉の時もその下に立つと一本の樹の世界が広がって抱
かれ安らぐが、今の季節モノクロームな樹の線だけの世界も好きだ。精神の立ち
姿を感じて背骨が凛とする。生きている時間がシンプルに姿になっている。そして
同じ形はひとつもない。当たり前の事が当り前にしかし新鮮に樹たちは語ってくれ
る。足元の根の、見えない梢たちも水という光の源を告げている。川という土中の
風の道。根もその枝先に水という光を求めて地中に梢を伸ばしている。梢が光と
いう水を求めて空に根を張るように。空と地を繋いで樹が立つ。樹そのものが現在
である。例え枯れて倒木となっていても死を生きている。海外や道外のブランドで
埋まる駅前の消費街から僅か数百メートルの所に本来のさっぽろの空と地があ
る。外から埋めた物ではなく地から産まれた空間がある。二百万に近い人口の都
市と近接して自然の天地がある。近代と現代のすぐ傍にガイアが存する。中世も
近世もなく近現代のすぐ傍に自然がある。さっぽろが最もコンテンポラリーな場と
感じるのはそうした位置があるからである。突きつけられるのだ、今を。近代と現
代を、樹一本に。長い人間の歴史が造った自然ではない。自然そのものと直、今
が問われる。空間を埋めるように植樹され大きくなった樹とかっての原始林が残っ
て立っている樹とは命の勢いのようなものが違う。その違いが現在を撃つ。私の
今を問う。さっぽろにほんとに触れ咀嚼しているか、その精神の立ち姿を問うので
ある。

*斎藤周展「3月の次から」-3月13日(火)-25日(日)AM11時ーPM7時
 月曜休廊於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8

by kakiten | 2007-03-10 14:00 | Comments(0)


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