かって初めて冬山登山をした時山の先輩の友人がポケットウイスキーを一杯飲
ませてくれた。かなり消耗していたのでその時のウイスキーのひと口は五臓六腑
に沁みた。隅々までカッと暖かい液体が冷えた身体に届いたのだ。街で飲む酒と
は違った。またある時登山を本格的にしていなかった頃普段の散歩でふらりと道
を間違え知らない山道に入り込んだ事があった。行けども行けども見知った道は
なく途方に暮れた。暑い日であせりもあって喉がやたらに渇く。頭もぼんやりとし
て急に何処かにコーラの自販機がないかと考え出していた。普段もコーラをそん
なに飲む訳ではないのに何故か冷たいもの即コーラ自販機とうろたえて頭に浮か
んだ。後に登山をするようになって水はいつも必需品で持ち歩くがコーラを持つて
行った事は皆無である。水が一番なのだ。たとえぬるくても。都会の延長で山道
に迷った時は都会の飲料の設定で冷たいものを捉えていた。だからコーラの自
販機だったのだろう。また冬山で初めて飲んだウイスキーは身体の内側から暖
まり沁みた。夏山のぬるい水も美味しかった。どちらも体が正直に応えていた。
コーラの自販機をうろたえて探したあの時の自分は水の種類の設定に囚われて
いた。身体が本当に内側から乾いて欲したのは単純な水であり、キヤップ一杯
のアルコールで充分癒されるのだ。都会の飲料はその外側の種類で選び判断
する。箱の外側で選ぶ。しかしある極限の選択の時には中身に身体が応える。
ウイスキーの銘柄でも冷えたコーラでもない。箱ではない。身体が函なのだ。
某政治家の、女性は産む機械という発言が問題になっている。この発言には母
性という内から溢れる発想がない。外箱としてその特性を判別しているだけなの
だ。逆に言えば男は種まきの機械という事だ。物流の発想がそのまま人間にも
当て嵌められていてその意味では正直に現代文明の風潮を反映している。個の
内側からの価値観ではなく量数や効能という物の形態を判断基準にしているから
だ。産む、創造するという個の内側のプロセスを見ず役割、効能で外箱的に決め
る。箱と函の違いなのだ。箱は閉じ、函は開く。涵養という過程が省略され結果を
優先する価値観はのつぺらぼーうなタワービルの風景で、裾野の楽しさも中腹の
辛さもある山の風景ではない。