一昨年10月の野上裕之展の写真が出てきた。幼少時から使っていた木の頑丈
な椅子を阿修羅のようにハンマーと鑿を振るい彫刻した後の生々しい写真である
。朝の光に鑿痕と飛び散った木片が散乱している。彼はこの時自らのトラウマを
彫刻するという行為に賭けて、自らの家族自らの生い立ち自らの現在すべてをそ
の椅子に彫り刻んだのだ。そして、そのかろうじて原形を保っている椅子の上に
小さな真鍮の椅子が置かれていた。それは自らが創った椅子、自らが生んだ椅
子の卵のようだった。今回制作された静謐で垂直な線木の椅子の誕生を予告す
るようにひっそりとそれは在って、一昨年の荒ぶる椅子と今回の静謐な和ぎの椅
子とを繋ぐように存在するのである。深く存在する椅子。どちらもがそこにひとりの
人間の座るという何気ない日常行為の内に潜む苦悩や安らぎを刻印して存在し
ている。ひとりの人間の固有の記憶(moment)がここでは固有のひとりの人生
の碑(monument)たり得ているのだ。彫刻をするという、唯一自分が獲得した表
現の武器をもって自分が自分たり得る為の孤独で意志的な行為の結果がそこに
は在る。消えていく移ろいやすい心の時間、それを留める人の精神行為それが芸
術の優れて基本的な存在理由だろうと思う。昨日メールが入って旧A小学校に入
居しているアート集団の人たちが旧A小学校の建物から退去の通知を受けここで
相談の集まりをしたいという連絡があった。この日は故村岸宏昭さんの追悼集出
刊の初めての集まりの日でもありできれば一緒にしたいという内容だった。野上さ
んの個展を見ていない人達も多く、村岸さんの最後の個展も来なかった人も含ま
れ、何かあれもこれも一緒くたにする神経が透けて見え嫌だった。野上さん酒井さ
んもその話を聞いてむっとした顔をしていた。野上裕之展を見る。村岸宏昭の追悼
を考える。旧A小学校の今後を考える。其々がひとつづつきっちりと大事な掛け替
えのない問題である。場を生きる、椅子に座る。その行為に繋がる椅子の存在は
野上さんの椅子の深さに比して比べようもなく浅い。