昨年の11月のライブから酒井博史さんが立って唄うようになった。椅子に座った
まま沁み入るように暗い歌を唄う彼が立って唄うのはある意味画期的な事である。
12月のバースデイライブも勿論そうだった。誕生日を前に彼は文字通り三十にし
て立つたのだ。もうひとり、三十台はとうの昔に超えたMさんが昨年暮れにとうとう
自分のブログを立ち上げた。それまで掲示板の投稿が主たる場だった彼がミクシ
イーに入りさらに自前のブログを開いたのである。美術を主体に優れて硬質な批
評精神を保つM氏が栄通りの名でさらに開かれた展覧会評をこれから展開してい
くだろうと期待する。M氏もまたン十歳にして立ったのだ。立つといえば昨日、東京
の根津から札幌に帰省していた小山内裕二さんが野上さんの作品を見て、帰り際
にぽつりと洩らした言葉がある。”祈りがあるね、今までになかったもの”どこかでタ
ブーのように禁忌していた意識の奥に在った言葉だった。そう、垂直に立つ線木の
三体の作品に共通していたのは両手を合わせて真っ直ぐに伸びる祈りの行為その
目線であったのかも知れない。立つ、立てるという行為にはいつもどこか祈りの視
線があるのだ。古来そうした祭儀にはその原行為が必ず包含されていたのだから
。立てる、祈る、その視線の先には神がいる。捧げようとする何かがある。そこへ
向かって立つ、立てる。素朴なジャコメッテイーの背、五本の指のように開く扇状
の立つもの、高く伸びた三角の椅子の重ね合わさった線木の背。野上さんもまた
この作品を通して立つという行為を祈りの眼差しから表現したのかも知れない。
昨年から今年にかけて我々が何処か意識の奥に共通にしまい込んでいたのはそ
の祈る行為の意識だったのかも知れない。ふらっと来てふっと出た小山内さんの
感想はその芯の部分をすっと指さしていた。さらに一昨日来た京都の橘内光則さ
んは”野上さんの作品にバランスが出てきたなあ”と感想を洩らした。”もうこれで
心配しなくていいや”。両手を合わせるように一点の三角の頂点が獲得された時に
人はバランスを保ちその一点の先にほとばしる祈りのような立つ姿を保つのかも
知れない。身を立て、目を上げそれぞれが’06から’07に架けて何を見詰め何を
祈ったのか。それぞれの志(こころざし)の一年が始っているのだ。
*野上裕之展[NU」-14日(日)まで。AM11時-PM7時月曜休廊
於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8