夏の終わり秋が長い。暖かい雨が続く。少しおかしいなあと思っていたら道東で
竜巻が発生して死者が出たと言う。あまり聞いた事が無いよなあ。やはりどこか
変なのだ。温暖化で北海道も本州並みになった訳でもない。でも温暖化は進んで
いてそのひずみのようなものが出ている。それが竜巻なのだろうか。しかし、紅葉
は続いている。雪に備えて葉を落とす。暖かいのでその分紅葉が長い。葉が落ち
ない。いつだったか急に雪が降り葉が落ちていなかったので雪が溜まり枝が折れ
樹の多くが損傷した事があった。我々が美しいと思って見ている紅葉も樹にとって
は生きる為のプロセス、一過程に過ぎない。それも冬に備える必死の行為なのだ。
美とはなんなのだろう。一本一本の樹がそれぞれに紅葉し雨に濡れ輝いている。
どれといって同じものは無い。街を歩くと灰色のビル群の空に樹だけが美しい。赤
信号さえ紅葉して見えるのだ。樹が美を意識する事はない。その命の現場から少
し離れた人間だけが意識している。命の必死さをどこかで感じ受け止めている。
そうでなければならないのだ。樹が生きていく為の衣替え、その過程を生の現場
として捉えず、こき混ぜて最大限に量として観光のように見るのは人間の贅沢、
傲慢である。樹の命の個に向き合わず量として向き合う。時にわざわざライトアッ
プまでする。樹は人間でないから言葉で文句は云わないかも知れないが生の現
場としては迷惑な事なのだ。そこに本当の美への敬意はない。生きる事への芯は
無い。紅葉の名所でなくてもいい。街路の小路の小さな名もない木もあっと云うほ
ど美しい処がある。排気ガスとゴミの路地にも樹の命の生の現場がある。美しい
のはそこに個としての樹の必死さがあるからだ。美は結果に過ぎない。過程に過
ぎない。しかしそれ故美しい。悲しいほど美しい。命がうつろうからだ。命を忘却し
て美はない。トロール漁法のように美を漁る。ごっそりと底引き網のようにコキ混ぜ
て最大限に量的美をばらまく。観光業者のチラシのように。紅葉のサイトツアー。
それと同じ構造の文化ツアー美術ツアーが行われている。一本の樹への個として
の共感、敬意を喪失して美のビエンナーレ、トリエンナーレって恒例紅葉祭りみた
いな虚しさを思う。生と死の交錯した夏の年の終わり。個の記憶の深まる時間の
中で幾つもの命に出会った。一回ずつの掛け替えのない星の光を保っていた。
人間も美しく紅葉する時がある。