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テンポラリー通信

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2006年 09月 01日

風を漕ぐー秋のはなし(2)

陽射しにはまだ夏の強さがある。しかし風は秋の味がする。大家さんのテーラー
岩澤さんが日曜日夕方外でバイキングして飲もうと言う。村岸さんを想い出してさ
と言う。夏の終わり村岸さん追悼のバイキング、気持ちだよね。お通夜にも御参り
に行ってくれた。村岸さんのホームページに白樺を抱いて川の音を聞いている人
たちの写真が載っている。最後の一枚に岩澤さんの写真がある。個展のあの時
間があって追悼がある。それが無くてバイキングもない。それだけ作品が何か人
の心に残したという事。いろんな場面に彼は出没していたが、7月の個展はやは
り彼のひとつの集大成であった。音の人、文の人、川の人、美学の人、語学の人
。そう最後にそれら全部を自ら演出し構成しようとした展覧会だった。見えない川
の音その水音がテーマだった。目の前に無い水をどう見えるように感じさせ得る
か。1本の吊り下げられた白樺の幹が象徴としてありそこから波及する連鎖のド
ラマに時代に対する批評も自然に対する愛着も幅広く込められていた。それは
具体的でストレートで時に素朴ですらあったから人は木を抱き耳を澄ましその展
示の演出に素直に頷いていたのだ。村岸さんのかけらをテーマに追悼展を考え
る人たちがいるようだが欠片は欠片でしかない。彼の中のいろんな要素を自らが
それらをオーバーフエンスして志した眼差しの共有こそが真の追悼になるだろう。
22歳の若さと不慮のしかも川での死という衝撃にこっちもアップアップしてはなら
ない。思い出の欠片を拾い集めるお通夜の延長をいつまでもしても仕方がないの
だ。森美千代さんが多重露光の村岸さんの写真を持って来てくれた。親戚の方が
個展中に届けてくれた家紋入りの袱紗と彼の横顔、白樺が一つになって写ってい
る。横顔の後頭部に家紋と白樺が重なっている。彼の展覧会自体を象徴するよう
な写真だった。多くのものへの関心そしてそれを表現する才能。それらををひとつ
にそれこそ多重露光するように企画した個展だった。彼が個としてオーバーフエン
スしようとした表現のある高みに時代の死としてのMがいる。一個の肉体の死が
残された生者にとっての社会的な死となりその死の道具立ての劇的状況に興奮
する当初の波紋が消えた時にこそ本当の意味が生きている者に問われるのだ。
映画に出演し、ライブハウスに出演し、文学の同人誌に所属し美術のグループ展
に出品し、大学の美学の講義に参加しと諸々の場面に彼の姿はあった。どれもが
彼であったろう。最後となった個展はそれらを包含しつつ自分を作り上げる結晶作
用を試みたものであったと思う。その自らの内部のオーバーフエンスこそが見えな
い水音をトニカに表現された個展のドラマであった。残された者は今日の生の現場
でそのMという結晶を多重露光するように引き受ける。それは欠片では、もうない。
陽射しに残る夏の光が秋の風とともにMを運んできた。’80年代の佐佐木方斎さ
んの夏のひかりに’80年代に生まれたMの風が吹いたのかも知れない。

*’80年代の軸心 佐佐木方斎展近作「格子群」を中心にー10日(日)まで
 am11時ーpm7時(月曜休廊)

by kakiten | 2006-09-01 13:26 | Comments(0)


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