村岸宏昭さんの展示が始っている。白樺の幹が会場中央に吊られて薄いスピー
カーが五ケ所取り付けられ耳を当てると川のせせらぎが聞こえてくる。同時に視
覚的には生命維持装置を付けた集中治療室の存在にも見える。心臓や鼻等に
線を付け何かをあてがっているあの風景だ。白樺の幹に耳を当て水音を聞くとい
う行為とは別のもっと痛々しい姿だ。本来は春に水を吸い上げたであろう白樺が
今は水を吸い上げる根を失い水を送るべき枝先を失い宙に浮き人工の水音を
聞いている。倒れてまだそんなに時間の経っていなかったこの白樺は水分がまだ
多く切り口に白いキノコが生えたという。そんな白樺の為にキーシンのショパン「
ピアノ協奏曲一番」をかける。13歳のキーシンが弾く私には川の一生のように聞
こえる名演奏である。黒く蔽う空の雲、そして雨粒の一滴のようにキーシンのピアノ
が打ち下ろされる。源流、渓流、淀み、平野の伏流水、泉、そして合流、大きな河
やがて海へさらに海の中を流れる川そんなイメージがこの曲にはある。さっぽろの
具体的な場所さえ思い浮かぶ。その間白樺の幹に耳を当て水音を聞いてみた。
目を瞑ると音と音楽が木霊している。眼で見たときの痛々しさ、眼を瞑った時肌に
触れる触感と耳に響く音の触感その眼と耳の落差は村岸さんの音楽家として
の一面と美術家としての両面でもあるように思われた。表現者として眼と耳との
両義性がそのままここにはある。樹の生命力水を運ぶ力が萎えた時、樹は死ぬ。
生命維持措置を付けたように見える視覚的な樹の存在はそのまま現代に対する
村岸さんの視線なのかも知れない。目を瞑り木に触れ耳を澄ますとそこに土に
触れ水に触れ生きている本来の樹の命がある。それは梢が光に向かって空に根
を張り、根は水を求めて土に枝を伸ばす木の保つ命の脈動を感じる事でもある。
村岸宏昭さんの荒削りな、しかし眼と耳両方に渉った果敢な表現の挑戦はスト
レートに樹を通して私たちの時代の断面を提示している。「木は水を運んでいる」
と題された展示の作業の昨日今日、空も水を運んできた。雷が鳴り、豪雨だ。
会場の白樺の木もまた、横たわらず天と地に向かって立っている。本当の雨音、
本当に立っていた処の川音を聞きながら。
*村岸宏昭展「木は水を運んでいる」18日(火)-18日(金)AM11時ーPM7時