お盆という時間自体が、大きな<ふたたび>と思う。
そのお盆の前に、<ノオモア・ヒロシマ・ナガサキ>という
再びあやまち繰り返さないと誓う被爆の日がある。
<ふたたび>は慚愧と反省の過去を見詰める軸でもあるが、
時空を経て蘇る、心の拠点として顕れる新たな踵軸の場合
もある。
さっぽと芸術祭吉増剛造展の「石狩シーツ」がそうだ。
また網走の漁師画家佐々木恒雄の描いた海の絵もそうである。
夜空に月、一艘の小舟に独りの漁師、そしてその前には無数
の細波{さざなみ)が月光に煌めいている。
ガソリンはタンク内部にさざなみをつくり僕らは海を知らない
山田航の歌集「水に沈む羊」を主題とする作家展で、佐々木は
この一首を撰び、日々自らが経験するオホーツクの海を描き、
対峙した。
一度は都会に憧れ離れた故郷の海。
ふたたび意を決して8年前故郷網走へ帰ったのだ。
父と同じ漁師の仕事で日付の変わる暗い朝から海へ出る。
その経験がさざなみひとつひとつの燦めきに籠められている。
オホーツクブルーの煌めく光ひとつひとつに、一度捨てた故郷の
海が新たな輝きを保って、目の前にある。
山田航の<ガソリン・さざなみ>の一首に、この無数の美しい
細波を描いて、彼は彼の<ふたたび>を屹立させたのだ。
ふたたびの故郷。
それは悔恨や懺悔の<ふたたび>ではない。
故郷やお盆という<ふたたび>は、本来再発見や再会の喜びを
保っている。
2011年3月11日を契機に志された吉増剛造の「石狩河口
/坐ル ふたたび」。
今年お盆初日の佐々木恒雄と絵を通したS医師のオホーツク
ふたたび。
本来<ふたたび>とは、こうした新鮮な出会いに溢れ、あたかも
あの月下の海の細波のように、燦めき放たれるものだ。
しかし現実は、封印や回避を前提とするふたたびの時季でもある。
<ふたたび>を、煌めく細波へと取り戻さなければならない。
<ふたたび>の豊穣な土壌を喪いつつある現実に、私たちは
対峙しなければならない。
今年8月吉増剛造の石狩、佐々木恒雄の網走。
<ふたたび>は煌めいていた。
あの丘はいつか見た丘
ああそうだよ
ほら 白い時計台だよ
好きな<ふたたび>の歌だな。
*「大野一雄の記憶ー公演ポスターを主に」ー8月27日(日)まで
火・木・土・日am11時ーpm7時:水・金am12時ーpm4時
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503