テンポラリー通信

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2016年 06月 26日

裾野と高嶺ー回路(9)

共にかって雑誌などを出していた友人に電話する。
吉増展レセプションで顔をあわせ、その前に民芸
研究家のM氏とともにテンポラリーを訪ねてくれ
たからだ。
彼の東京での吉増展の感想も聞いてみたかった。
”ありゃ、駄目だ。あんな広い処で・・。お前の
処のほうが余程良い・・・。”
この一言で、もう何か話が続かなくなる。
優れた翻訳家であり某外国文学の一方の雄でもある
Kだが、お互いの生き方の相違は薄々感じてはいた
が、やはり現実だった。
今回の吉増展は、詩人としての作品を主に展示して
いる訳ではない。
勿論作品も含まれてはいるが、その作品の地場を
道具たちやメモ帳・日記帳・録音カセットと作品を
生む裾野をモノとして顕在化し、作家の生きた時代
を根の風景として展開・展示されているのだ。
個々の作品評価は現代詩・文学の世界で評価され
幾多の賞も受賞しているから、今回の美術館での
展示はもっと直接視覚的に声・映像・打刻銅板・
原稿用紙草稿等を通して時代を生きる作家の全身を
主題として展開されている。
いわば高嶺の白雪を見る視座ではなく、山裾から
山全体の存在を問う展示なのだ。

現代はふたつの視座に価値観が分かれているのかも
知れない。
アベノミックスの果実を裾野まで、という喧伝が
参議院選挙で与党側から盛んに口にされるが、これ
も先ず高嶺の視座から裾野を見る思想である。
有名産地の偽装メニューとか、足場の杭を抜かした
豪華マンションとか、社会現象にもなっている裾野の
より高嶺の評価からものを見る風潮が生まれている気
がする。
新幹線の速さとかオリンピックの経済効果とか超高層
ビルの乱立とかも高嶺の白雪効果を主にに喧伝される。
結果優先の尖端社会構造は、地味で緩い時間の裾野
の無名な根元の風景を軽んじる。
もし痩せた裾野、痩せた尾根の高嶺を想像すれば、
それはタワーか送電塔のようなひどく貧しい風景の
高嶺となるだろう。
森の有機的な豊さもなく、ただ先鋭に痩せて直線に
限りなく近づく、山とは言えぬ世界である。

一方で裾根の世界から自らの時代を耕そうという
視座もある。
吉増剛造の真摯さ・凄みはこの一点にある。
自らの時代の裾野を掘り返し、もう一度根から裾野
からの頂きを再構築しようとする行為であるからだ。
その果敢な試みに満ちているのが今回の美術館での
個展でもある。
その視座をばっさりと無視し、展覧会を否定した
古い友人に、私は暫く寂しく憂鬱だった。

*「石狩・吉増剛造 1994」展ー7月31日まで。
 am11時ーpm7時:月曜定休(水・金 都合により午後3時閉廊)
*「声ノマ 全身詩人、吉増剛造」ー8月7日まで。
 am10時ーpm5時・月曜定休。
 東京都国立近代美術館ー東京都千代田区北の丸公園3-1

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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by kakiten | 2016-06-26 14:50 | Comments(3)
Commented by 中村惠一 at 2016-06-28 11:57 x
吉増剛造展、見てきました。率直にいって吉増さんの思考の過程をたどる旅をしてきた気分になりました。しかも、その思考の過程がもやは論理的ではなく、感覚的、直接的、肉体的でもあってレベルが格段に高くなっているのを感じます。頭で考えてわかるものなんてタカが知れています。肉体の痙攣ベースに近づいているのを強く感じ、面白いと思いました。大野一雄さんとの釧路の映像をみたとき、まだ吉増さんは若かったせいか、痙攣の域にあったのは大野さんで、吉増さんはそこまで到達していなかったように見えました。いかし今、彼の詩(あの絵画は詩です)は痙攣レベルに達しています。なぜ現代美術館ではなく、近代技術館でやるのかは私には理解できませんでしたが。
Commented by kakiten at 2016-06-28 14:11
中村さん>痙攣スルって面白いですね・・。
近代・現代とどこで分かれるのかは、難しいですが
現代の裾野に広がっている懐かしいような、例えば
カセットテープとかが、近代ではないでしょうか。
現代というのは進行形ですから、どんどん新は旧を
駆逐して行くでしょう。その先端だけの痩せた峰ではなく
中腹・裾野も含めた記憶を内包して現代と私は思います。吉増展の桟敷分けはこうした近代の道具たちである事で、近代であり、現代であったと感じます。
Commented by 中村惠一 at 2016-06-28 21:37 x
そうですね。吉増さんの思考は現代的でもあるが、近代モダニズム的でもあり、縄文的でもあって自在ですね。そういう意味では箱はどこでも良いのでしょう。でも、近代美術館はなんとなく物故作家をやる館という感じがして「現代」じゃないんだ?と思った次第です。


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