テンポラリー通信

kakiten.exblog.jp
ブログトップ
2016年 05月 17日

同時代という旗ー鉄橋(31)

旧国道5号線、車のショウールームが多く立ち並ぶ国道沿いに
坂ビスケット、ベル食品などのある一角にレトロスペース坂会館
がある。
一見怪しげな人形とかが飾ってあるのが見える。
内部は山のようにジャンルを問わぬ近代の生活・日常・趣味嗜好
の物品たちが、所狭しとひしめいている。
かって身近に存在した多くの物たち。
父母・祖父母とともに日常に同じ場所で呼吸していたこれらの物
は、何時の間にか身の回りから消え、記憶の片隅に住んでいる。
その記憶が突如、物としてたくさんの量として目の前に過激に
出現する。
一個二個ではない。
同じ用途のものが種類を変えどっと陳列され、他ジャンルの物もまた
ひしめいているのだ。
懐かしいという感傷では括れない、ある過激さがこの蒐集の量には
籠もっている。
そのレトロスペースが今立ち退きの危機にあるという。

館長の坂敬さんは全共闘世代の闘士だったという。
その精神が、このレトロスペースには生きている。
最前線から最後尾へ。
しかしその目は背を向けず真っ直ぐ前を見据えて、後方にじりじり
進んでいる。
お会いしてそんな感じを抱いた。
只のマニアやコレクターではないのだ。
時代全体を抱きしめ、切り捨てられる価値の尊厳を死守している。
自らとともに歩んだ時代総体を、物たちの中に価値として見ている。
最新性という用の一点だけで、それ以前は旧いと切り捨てる価値観
の根と闘っているのだ。

現代美術をコンテンポラリーアートと言うようになった。
かってはモダーンアートと言ったと思う。
最近ではモダーンは近代となり、モダーンアートミュージアムは近代美
術館と呼ぶ。
新旧ではなく、temporary(とりあえず・・)な断片が、ともに・・・(con)と
結集して同時代を意味する、一時の最新性に囚われない時代性を表意
したからと思う。
とすればレトロスペース坂に集積されているモノたちは、我々の生きている
時間の周辺で日常化していたかってのとりあえずな日常そのものでもある。
それらが集積して、ある時間を、ある時代を無言で縁取っている。
新旧の一点で切り捨てられた存在が、トータルとして生きてきた時代を
顕している。
父母、祖父母の想い出、自らの幼少期、、青春の記憶。
それらすべてを含めて、我々が今生きている時代なのだ。
その同時代性を新旧の一点で切り捨て去る事の愚かさと闘う姿勢が、この
レトロスペースには深く濃く感じられる。
坂館長が個人的趣味やマニアックな蒐集家ではない所以である。
最前列で在った物達が、何時の間にか最後尾にいて忘れ去られ消去される。
そうした時代の偏向を、同時代への愛としてモノたちの包含する時代の記憶
として、モノに偏らずすべてを留めるコンテンポラリーな精神の蒐集なのだ。
またそうして集まってきたモノたちであると思う。

最前列で最後尾
背後には黒々と街の灯

坂敬館長は正に最後尾の最前列、都市帝国主義、個的ファシズムからの
解放区としてレトロスペースを造り闘う闘士であると思う。
モノたちの用という使役を同時代という記憶・心に変えて闘うラデイカルな
闘士である。

 道端に 咲きし名も無き花なれば 踏まずに行こう我と重なる
                             
                             坂敬「言葉集」から

 *「石狩・吉増剛造」展ー6月5日まで。am11時ーpm7時:月曜定休:水・金午後3時
 
 テンポラリースペース札幌市帰宅北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
[PR]

by kakiten | 2016-05-17 15:12 | Comments(0)


<< 同時代という旗(Ⅱ)ー鉄橋(32)      内臓言語・筋肉言語ー鉄橋(30) >>