人気ブログランキング | 話題のタグを見る

テンポラリー通信

kakiten.exblog.jp
ブログトップ
2013年 03月 26日

林檎・蜜・光ー風の夢・弥生(17)

選んだ一首の一字一句を深く自分の世界に引き寄せ、自らの主題
として深く切り結ぶ佐々木恒雄、野上裕之、アキタヒデキ、藤谷康晴、
中嶋幸治のような作品もあれば、歌の保つ情景がそのまま絵画化し
造形化して感じられる作品もある。
しかしその両方ともが歌の原作者の意図はほとんど関係なく、本人
の保つ主題が展開されている作品がほとんどではある。            
例えば書の森美千代さんの作品。
その選んだ一首は

  掌のうへに熟れざる林檎投げ上げてまた掌にもどす木洩れ日の中

<熟れざる林檎>に自分の子供を暈ねこの書を描いたという。
しかしこの一首は、青いリンゴのような青春の鬱屈と倦怠を顕していて
子を思う母の心とは遠い処にある。
何故なら原作者は今だ独身であり、まだ20代にいる青年だからである。
しかしして、森さんの気持でこの一首を読めば、確かにこの熟れざる林檎
は、また我が子を掌に戻すような母の気持に読み取れてもくるのだ。
作品はもう作家から独立して、固有の世界を広げてゆく。
森本めぐみさんの実際に蜂蜜を入れた小さなカップ3点だけの造形作品

  世界といふ巨鳥の嘴を恐れつつぼくらは蜜を吸っては笑ふ

さらに氷海を描いて、水を主題としてきたテーマを歌に近付けた久野志乃
さんの絵画作品。

   粉と化す硝子ぼくらを傷つけるものが光を持つといふこと

森さんが林檎に我が子を見て書で顕したように、この女性ふたりにも共通する
のは一首に含まれる複数系の人称の共通性である。
<ぼくら>は<蜜を吸>い、<ぼくら>を<傷つける>という。
一方野上さん、アキタさんに代表されるように、男性は<わたし>という世界
に深く沈殿してゆく。
従って森さんが憂鬱や鬱屈を個的な一人称の世界に見ず、息子を想いその
関係性の中に林檎を見たのも、女性という精神性の為せる自然でもあったの
かも知れないと思うのだ。
まだ未婚の他のふたりが<ぼくら>と記された歌を選んだのも、やはりそこに
繋がる女性の精神性の故なのかも知れない。
そんな事もふっと感じたのである。

+山田航歌集「さよなら バグ・チルドレンっをめぐる変奏」展ー3月31日(日)
 am11時ーpm7時。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503





  

by kakiten | 2013-03-26 14:24 | Comments(0)


<< 大人と子供ー風の夢・弥生(18)      鼎談とライブの夕ー風の夢・弥生... >>