八木保次・伸子さんのお別れ会に出る。
会場のホテルには多勢の人たちが集まっていた。
黙祷や献花等のセレモニーの後、宮の森のアトリエでご夫妻が語る映像
が大画面に映し出された。
何度もかって訪れたあの場所の記憶が甦る。
山の上の光溢れる部屋だ。
その後、それぞれの想い出を語るひと言リレーが行なわれた。
当たった人が次の人を指名するというリレーである。
そうはいっても途中から司会の人が然るべきお偉い方、遠方からわざわざ
見えた方へと配慮して指名をし、全部はリレーとならない。
そこでそれぞれのお話を聞いていて、故人への想いの実感に差異を感じた
のである。
総じて然るべき人やお偉い人の話程、実感が薄いのである。
実感という点では未知の人や教え子さんたちの話の方が、より故人を彷彿と
させ心打たれる所が多かった。
故人との交流の深さが、言葉となって心に沁みるのである。
この実感の差は、不思議と社会的立場と反比例してその濃淡の差異として
顕れた。
追悼の会に出席するだけで充分に弔意を表している訳だから、もうそれ以上
語らなくても良い場合もある。
何人かの偉い人たちは、そういう感じの内容だった。
それに引き換え、身近に故人を見詰め語ることの出来た人たちの話は、じんと
心撃つ話が多かったのである。
追悼とは、最終的に実感の事ではないのか。
長く生きてこられたおふたりの人生である。
いろんな合縁機縁のしがらみがあって当然である。
従ってすべてが実感だけで、お別れ会が行なわれるものでもない。
ただ今回の会は葬式ではない。
儀式を排した分、より本音の実感をが主役であった筈である。
もっとたくさんの実感が、あの多勢の参列者の胸の内にはあった気がする。
*追悼・八木保次・伸子展ー4月中旬予定・
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503