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テンポラリー通信

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2012年 04月 04日

大荒れー光陰・4月(3)

猛烈に発達した低気圧が通り過ぎていく。
台風並みの風にマンシヨンビル風が加わり、街路を突風が走る。
春一番という浮かれた気分ではない。
猛烈である。
そんな荒れた天気の中で齋藤玄輔さんの撤退作業が続いている。
暗闇の会場に光が射し込みいつもの風景が戻って来た。
美の暗室。
暗視を明視に転換して浮き上がらせた、名も無き草花の有機的な美しい姿。
草花の名前は記されず、押し花を暗転して光に浮かび上がらせる。
その無名の美へのこだわりは、有名・明視の現実への対峙として暗渠の要塞
のようにあるのかも知れない。
有機的な植物の生命の姿は、それ自体がある完結性を保った美でもある。
古来先人たちはその姿に美を見て、草花紋様にしさまざまな様式でデザイン
化してきた。家紋・着物・活け花・建築様式の装飾と。
日本だけではなく、草花紋は洋の東西を問わず見られるものである。
もし齋藤さんの草花への視座とそれらとの違いを見るとすれば、それは
暗視の内にその美を浮き上がらせる暗室の設定という光の装置だろうか。
押し花の版画をカーボン紙に削り落として、その剥落した部分に光を透過
させる。実体としての植物が剥落した虚の部分として光に浮かぶ。
この虚を実として反転させる行為に、斎藤さんの現実への批判精神・反転
への強い批評精神が込められもいると思える。
しかしそれは同時に暗室への閉じた美の要塞とも化して、時に自己完結
する密室構造の陥穽も用意されている気がするのである。
植物の有機的な生命の立ち姿は、本質的に光・水・風と有機的に関わって
在る姿である。
一瞬たりとも固化された生命ではない。
水に触れ、光に触れ、風に触れる連続する命の形である。
その命の輝きを一瞬のものとしてではなく、ある永遠の形象として固化する
行為を時に人は芸術家の宿命として考えるだろう。
斎藤さんの暗室行為は、その意味で光の押し花装置とも思え、無名の草花
を光の宇宙(COSMOS)へ転換する行為と思える。
そしてその行為の仮設装置という意味では、暗室インスタレーシヨンと言って
も良いのである。
この暗室インスタレーシヨンの2週間、偶然私は敬愛する人の死を見詰めて
いた。この暗室は冥界の青い部屋のようにあり、草花は星座のようにあった。
かって死者とともに歩き回った山野の草花の大地の陰画のように、この暗室
は存在した。そう思えたのは、この暗室の草花には、色彩が無かったからで
ある。この暗室の彩(いろ)は、暗闇の青い光彩であって色彩ではないからだ。
死者との想い出には、陽光の色彩が輝く森、草、花、そして暁の光があった。
死者はなによりも、誰よりも、朝の人であった。
それは決して早起きとかいう意味ではない。
朝の光が一番似合う光彩の色彩人であったのだ。
八木保次氏、光の色彩(いろ)の画家であったから。

*追悼・八木保次・伸子展ー4月中旬予定。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax-011-737-5503

by kakiten | 2012-04-04 14:36 | Comments(0)


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