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テンポラリー通信

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2011年 05月 31日

汚れちまった悲しみにー燃える春楡(24)

写真家のM・佐藤さんが、東北仙台行の訪問記を今日のブログに記している。
先祖のお墓を初めて尋ね、その後被災地を回る。
そこで出会った瓦礫の中で写真アルバムを拾い、一枚一枚洗浄を続けている
ひとりの被災者の話が記されていた。
自分の写真という訳ではない。
誰とも知らぬ他者の写真を洗い復元しているという。
本業はイチゴ農家の方という。
写真家であるM・佐藤氏は、この作業に深く心を打たれていた。
TV報道等で、流された家族の写真を瓦礫の山の中から探している人、
瓦礫撤去の際こうしたアルバム等を分別して撤去作業をしている姿を
見た事はあった。
しかしこうして実際に見聞した人の話を読むと、さらに深く伝わる
ものがある。
普段どこか机や押入れの片隅に眠っているこれらの写真。
日常、何の役に立つものでもない。
また普段人に見せるものでもない。
しかしこうして何もかもが喪われた時、人は掛け替えのない自己証明
のように、一枚の写真と出会っている。
その極めて個人的な一枚の写真を洗浄し乾かし復元している。
その行為をする人も、誰の為という目の前の目的がある訳ではない。
見も知らぬ人の写真を、ただただ洗い乾かし復元しているのだ。
汚れた写真もそれを洗浄する人も、全く個人的な理由で存在し、行為がある。
この時、一枚の写真も洗う行為も、我々が属している日常から見れば、
全く無為に存在しているはずのものだ。
しかしこの全く個人的な行為・存在が、今私達の心を深く打つ。
有用のインフラに囲繞された利便な日常が逆転して、非実用の存在・行為が
人の心の根底を支えている心的構造が見えてくる。
一枚の写真はひとつの記憶であり、その記憶は過去に属し今ではない。
今という曖昧なものが正に消去されようとする時、過去という記憶が今を
支え、根として甦る力を溜めて存在してくるのだ。
まるで植物の花が枯れたり、嵐で枝が折れたりした後の根のように。
人間も樹や草と同じように、見えない土の下に根を張り生きている。
記憶とは、その見えない世界に根を張る繊毛のようにある。
一枚の写真とは、その記憶という根の繊毛そのものではないのか。
汚れた写真を洗う人もまた、同じ時代の同じ場所を生きている人である。
もしこれらの写真がすべてインクジェットなら、洗浄も適わず汚れ消去され
何も残る事は無いのだろう。
写真一枚にも、文明と文化の記憶の質の差異がある。
私たちは私たちの生の個人的な理由(わけ)を深く抱きしめ、深く開いて、
深く問い直さねばならない。
大量消費し大量消去する記憶の今を、個の記憶の根毛としてを甦らせ、
同時代の根として再生する為に、何かを洗い落とさなければならない。
一枚の写真を洗浄する行為は、その本質的行為を深く示唆していると思える。

*鉄・インスタレーシヨン 阿部守展ー6月5日(日)まで。
 am11時ーpm7時。
*斎藤周展「これから下りていこう」-6月11日(土)-26日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2011-05-31 12:51 | Comments(0)


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