先入感はなく、その分囚われず、自由に感じたまま体全体を使って
表に表わす。そんな子供のリアリテイー溢れる批評なり、行動を、
時に天才少年の演奏として聞く事もある。
キーシンの13歳の時演奏したショパンのピアノ協奏曲がそうである。
この演奏を聞くまで私はこのショパンの曲が、甘ったるく感じられあまり
好きではなかった。旋律が甘く過剰にロマンテックに聞こえたからである。
しかしキーシンの弾くピアノの音は違った。
前奏のオーケストラの響きが雨雲のように次第に高まり濃くなった時、
突如雨滴の一滴のように、キーシンのピアノの一撃が振り下ろされる。
その後は、流れとなり、渓流となり、伏流水となり、泉となり、海へと向かう
川の流れのように、一気に演奏が続くのである。
この演奏には、大人の感傷的な情緒が排除され、身体全体で弾く子供の
エネルギーが溢れていたように思う。
その結果私のショパン観は、劇的な変化を遂げた。
先日の9歳の少女の名付け行動は、そんな13歳のキーシンの演奏を
思い出させてくれた。
技術的な事は解らないが、キーシン少年の弾くショパンは、身体の自由な
解釈、動きを抜きにその演奏の冴えは語れないと思うのだ。
自然の水の現象そのものを、活き活きと感じさせるその演奏に、
ロマンテイックな思い入れも感情移入もなかったからである。
ただただ少年は音譜が示す音を、全力で体全体を使って演奏していた。
その結果曲の保つ律動、旋律は活き活きと曲本来のリズムで、
雨滴の一滴から、渓流、大河そして母なる海の中へと溶け込んでゆく。
海は陸へと波動し、河は海へと波動する。
そのふたつの波動は違いつつも、やがて一体となりしばし漂う。
アイヌ語でいう<れップ・沖>の感があるのだ。
キーシンはこの時技術的なことはさて置き、本人はきっと楽しかった
に違いないと思う。
楽譜の音の世界のたくさんの入口を見つけ、全身で遊んだのだ。
結果という出口を考える大人と違う世界を、子供は身体の自然として、
保っている。
知力と身体としての自然力、このふたつを表現者そして批評者が喪失した時
批評も表現も片寄ったペダンテイックな一方的な押し付けに片寄る事だろう。
秋元さなえさんが、さらにもうふたつ下に鳥を増やす。
吹き抜け空間の下と上への流れを考えた結果である。
宙に舞う鳥たちが、これで下の太田理美さん、森本めぐみさんの作品と
一体に空間呼応するようになった。
秋元さん本人が結音ちゃんとの付き合い以来、一段と活き活きとしてきた。
きっと少女のエネルギーが、彼女に身体活力を与えてくれたのだろう。
*「触れるー空・地・指」3人展ー秋元さなえ・太田理美・森本めぐみー
4月4日(日)まで。am11時ーpm7時。
*藤谷康晴展「ANALOG FLIGHT SAPPORO→」
4月13日(火)-25日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503